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皇紀2600年 先帝陛下 橿原神宮御親拝
筆者は、我國の歴史が、私権力・私有財産闘争の歴史であったならば、日本の武力の性質も大陸や欧米のものとかわりの無い、殺傷を目的とする殺伐とした術技に陥ったのではないかと思います。しかし、正統なる「日本の武」は、自己と他者の道理を正す道として継承し発展してきました。 「我國の武の精神」は、神話を淵源とします。、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)が国土の修理固成に天沼矛を賜る意味、素戔嗚尊(すさのおのみこと)昇天に際し天照大神が武神のお姿となり稜威の雄建(いつのおたけび)で武威を張る様子、天の岩戸開きの策略等「日本の武」を諭す話は多くありますが、、大国主命(おおくにぬしのみこと)の國譲りの段が解り易いでしょう。 本ブログの拙稿(國譲りに見る「和の精神」 )でも述べていますが、 天照大神の使者として遣わされた建御雷神(たけみかずちのかみ)と大国主命との交渉において、これを受諾せず力比べを仕掛けてくる大国主命の息子建御名方命(たけみなかたのみこと)に対し、建御雷神は攻撃を受け返し、圧倒的強さで建御名方命は諏訪湖まで逃げたところで敗れ、国譲りに同意します。。相手が一旦敵意を捨て「まつらう」意志を表明した後は、譲り受けた側が譲った側に対し、最高の礼を尽くしています。 「力比べ」
国を譲ったとはいえ、おそらく大国主命には恨みが残ったことでしょう。それに対し、天照大神は、天日隅宮(あめのひすみのみや)という大宮殿をつくり、自分の第二子の天穂日命(あめのほひのみこと)を大国主命の霊に仕えさせます。この宮殿が、出雲大社の起源です。そして天穂日命の子孫である出雲国造が代々の出雲大社の祭祀、宮司を務め、現在まで続いています。現在の宮司は84代国造千家尊祐、皇室と同じく万世一系を護持しています。このように敵対者をも包容同化する武の力で和平を実現した建御雷神(鹿島神宮の御祭神)は、武の神様として祀られ、その精神を継承する多くの武人を輩出してきました。 初代天皇のおくり名が「神武」であることは周知のとおりです。 日本肇国に際し、民の幸福を第一とする家族的国家建設のため、寶御位に臨まれた神武天皇は、私を捨て民の幸福を祈り神を祭ることを誓われ、民はこれを模範として相手を思いやり世のため人のため力を尽くそうとする。 しかし、一方で、神武天皇は、この理想国家の実現に仇なす敵は討ちてし止まんという猛々しさも兼ね備えられていました。この両面を兼ね備えたおくり名が神武なのです。 我國の民の中には、天皇の御心に沿うことならば、自らの犠牲を顧みずいつでも行動に移せる丈夫(ますらお)の心を備えたものが居ました。そのような人が、武の猛々しさを有す“もののふ”と呼ばれたのです。 民の幸福を第一とする家族的国家建設(八紘為宇)を目的とした神武天皇の建国の理念が、長い年月とともに、「利己」を排し「利他」を美徳とする国民道徳として醸成されてきたのです。 昨年3月におきた東日本大震災において「利他的美徳」と「家族的共同体意識」は世界の人々の驚嘆するところとなりました。 想像を絶する大震災と大津波に襲われてなお、相互に助け合い、自己を犠牲にしても弱者を助ける日本人の本来の姿が自然と表れ、世界中の人々の心を打ちました。この「人々が互いに相手を思いやる社会」こそ、神武肇国以来、天皇を中心に日本人が育んできた日本文化の結晶・精華なのです。 このような美徳を背景にした「日本の武」の目的は、自己の利益を図るために他者を滅ぼすことにあらずして、敵対者の私利私欲を正し、共和共栄の天道へと導こうという性質をもっているのです。 幕末、他国の財産を略奪する欧米列強の野望と力が渦巻く当時の世界情勢にあっても、明治天皇陛下は、『王政復古の大号令』で「諸事神武創業の始めに原づき堂上地下の別なく至当の公議をつくし尽忠報国の誠を以て奉公いたす可く候事」され、また『億兆安撫国威宣揚(おくちょうあんぶこくいせんよう)の御宸翰(ごしんかん)』において、「列祖の御偉業を継述し一身の艱難辛苦を問わず自ら四方を経営し汝億兆を安撫し遂には万里の波濤を拓開し国威を四方に宣布し天下を富岳の安きに置かんことを欲す」と決意を国民に御示しになられた。 億兆」とは国民全体のことであり、天皇は「天下億兆、一人も其処を得ざる時は、皆朕が罪なれば」との叡慮をお示しになられ、「千万人といえども我ゆかん」の実践でされ、いかなる強敵・苦難があったとしても信ずるの正義を貫く決断の模範を示されました。 現代の我が国の混迷は、国家の源と国家の中心を邪気で覆い隠されていることにあります。建国の理想を顕現すべく、天皇陛下の下国民が一致団結して為し得た、我が国近代史の輝かしい事実を正しく確認しなくてはいけません。 今、日本を立て直すには、穢れた者の小賢しい言論などに頼らず惑わされず、尊厳ある日本人自らが、国家の源と国家の中心を覆い隠している邪気を祓い清め、日本人が肇国の大理念に立ち返り、天皇陛下を中心として一致団結すれば、おのずと日本は本来の姿に立ち返り世界に冠たる存在、世界を救済する存在として復活するのです。 即ち、神武創業の大理念の精神、原点に戻ることなのです。 日本人として、祖先から受け継いだ「正しきこと」を学びましょう・・・ |
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2012年02月23日
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皇太子殿下 御尊影
皇太子殿下のお誕生日に皇室の彌榮を祈ります。皇太子殿下におかせられましては23日、52歳の誕生日を迎えあそばされました。
皇太子殿下におかせられましては、これに先立ち21日に記者会見あそばされ、1年で最も印象に残ったことについて東日本大震災を挙げられ、「常に頭から離れませんでした」と振り返えあそばされた。 ご不例にて心臓の手術を受けあそばされた畏くも天皇陛下については、術後の見舞いで「いつもと変わらない声を聞き、安堵(あんど)しました」と語られ、政府が検討を始めた「女性宮家」に関しては「親としていろいろと考えることもありますが、発言は控えたい」とされました。 皇太子殿下におかせられましては、畏くも天皇陛下の手術翌日の19日、秋篠宮殿下と共に見舞いあそばされましたが、会見で皇太子殿下におかせられましては、陛下が「お見舞いありがとう」と、はっきりとした口調で話されたことをのべられました。 課題となっている「公務の負担軽減」については「配慮がますます重要」と述べられる一方、「陛下のお気持ちに沿って考えるべきだ」とされました。 秋篠宮殿下が昨年11月の会見で述べられた「公務の定年制」については直接の言及は避けあそばされ、「いろいろな選択があるのでは」と述べあそばされた。 皇太子妃殿下の回復状況や、長女内親王殿下の登校が順調な様子も説明あそばされ、皇室に関して秋篠宮殿下が昨年、「私もしくは皇太子殿下の意見を聞いてもらうことがあっても良い」と述べられた事に関しては、「今まさに政府が検討を始めたばかり」として政治に配慮なさりあそばされた。 皇太子殿下記者会見(於、東宮御所 皇紀2672年2月21日) 皇太子殿下記者会見要旨 畏くも天皇陛下のご不例ご快癒を願い、皇室の彌榮を心より祈り捧げます。 皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・
天皇陛下、皇后陛下 萬歳 萬歳 萬歳
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南京虐殺の絵
これを聞いた正しい歴史を知る日本国民は「よく言った!」と思ったことでしょう。
しかし、それもつかの間、藤村官房長官は記者会見で「南京での日本軍の非戦闘員の殺害、略奪行為などがあったことは否定できない」と言ったのです。しかもその根拠として村山談話の政府認識を踏襲したのですからいつもの通りであります。
と言い切る政治家はいない。そういう意味でも日本の政治家というのは情けない限りであります。心ある国民はこういうところをみているのだ。
そういう意味でも河村市長の南京市の共産党幹部に面と向かって言ったことは評価できるものであります。
たとえ政府見解がそうであっても、もはや南京虐殺などあったという日本人の方が少ないはずです。
いまだに信じているとしたら左翼団体、日教組のような偏った人たちくらいでありましょう。
いや、彼らも“ない”ことはわかっていて嫌がらせや日本をおとしめるためにやっているのでありましょう。
南京虐殺など冷静になってみてみればあり得ない話ばかりであります。
南京虐殺があったという証言の多くが東京裁判にあります。
マイナー・ベイツ南京大学教授は強姦している日本兵の現場を見たと言い、その中には大学教授の夫人もいたという。その日本兵は5回にわたって強姦したそうで、それを見ていた教授は5回目でやっとその兵を女から引き離したというのであります。しかしいくら男女の相思相愛であっても、立て続けに5回は並ではない。しかも5回までしっかり観察していたこの教授も並ではない。
この教授は一人の婦人が代わる代わる17人の日本兵に強姦されたとも証言し、9歳の子供や76歳の老婆まで犯されたそうであります。20歳そこそこの日本兵が支那の枯れ果てた婆さんを襲うとはこれまた並ではない。誰が聞いても嘘が過ぎるのであります。
ジョン・マギーというアメリカ人の宣教師は東京裁判の検察訊問で、女を脅迫していた日本兵がマギーの姿を見て銃剣を捨てて逃げたと証言しました。
これなどは帝国軍人からすると一笑に付すような話であります。
支那兵であれば逃げるのに邪魔になれば銃を平気で捨てて行くのですが、日本兵にとって銃は天皇陛下からの貴重な預かり物であるので捨てて逃げることは絶対にあり得ないことであります。
東京裁判には南京での膨大な証言が記録されていますが立証は何一つされていないのです。
写真を撮ったと証言してもその写真一枚すら提出されないのです。
揚子江に流れ着いた遺体は明らかに軍服でありました。これは支那の公刊戦誌に多数の溺死者が出たと報告されており、溺死では虐殺の根拠にならないのです。
南京の街路には軍服が一面に脱ぎ捨てられて、支那逃亡兵が武器を持って庶民の中に紛れ込んだのは明白でありました(便衣兵)。そういう状況で日本兵が女を追いかけてズボンを脱いだというが、そんな日本兵がいるわけがない。万一いたとしたら便衣兵にすぐに射殺されていたでありましょう。
日本軍は南京占領後におこなったのは日本と支那の戦没者の慰霊祭でありました。
「敵にはあれどわが武士道」と言って支那の無名戦士の墓を作って慰霊したのです。
その後、南京市の復興工事を進めたので支那の避難民たちは安心して南京市内に帰ってきました。
日本兵は感謝されても悪く言われる筋合いはないのです。
村山よ、河野よ、藤村よ、日本政府よ、謝罪するなら我が英霊たちに謝罪せよ。
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