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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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道を説く『士規七則』

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松陰神社(祭神は吉田松陰先生)




教育の改革が叫ばれて久しい・・。
教科書の改革も当然必要です。しかし、それ以上に必要なものは、教師の変革でしょう。教育者が変わらなくては、本当の教育は行えません。


近代日本は、その発足に先だって、一人の思想的、教育的巨人を生みだした。厳密には、その思想的、教育的巨人によって、近代日本は作られたと言っても過言ではないでしょう・・。それは、わずか三十歳で、刑死になった吉田松陰先生です。
松陰先生は、山鹿流兵学の家柄をついで以後、その短かい生涯を通じて、一貫して、日本はいかにあるべきか、いかにあらねばならないかを構想されました。それは、西洋諸国のアジアに対する帝国主義的侵略を前にして、小国日本がいかに生きるべきかということでした。国禁を破ってロシア艦に、さらには、アメリカ軍艦に投じて、海外に渡航せんと計画されたのも、すべて、日本の生きる道を構想するためでした。
不幸にして、その計画は失敗し、松陰先生は牢獄の人となりました。吉田松陰は、海外密航を企てた罪で、長州萩の野山獄に入牢の身となりました。そんななか、25歳の松陰先生は、安政2年 の正月、叔父・玉木文之進の子で、自分の従弟である毅甫(きすけ)の元服に際し、『士規七則(しきしちそく)を作って贈りました。「元服」とは、男子の成人を祝う儀式で、今日の成人式の淵源です。
 戦前の旧制中学校(今の中学から高校)では、生徒の生活指針として『士規七則を教えました。そこには、15歳以上の男子の修得すべきことが、記されています。その内容には、戦前の方々にあって現在の私たちにない確かな指針です。

※原文
 
士規七則 毅甫加冠に贈る
 
 冊子を披繙すれば、嘉言(かげん)林の如く、躍々として人に迫る。顧(おも)うに人読まず。即(も)し読むとも行わず。苛(まこと)に読みて之れを行なわば則ち、千万世と雖も得て尽す可からず。噫(ああ)、復(ま)た何をか言わん。然りと雖も、知る所ありて、言わざること能(あた)わざるは、人の至情なり。古人これを古(いにしえ)に言い、今我れこれを今に言う、亦詎(なん)ぞ傷(いたま)ん。士規七則を作る。
 
  一、凡そ生れて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。蓋し人には五倫あり、而して君臣父子を最も大なりと為す。故に人の人たる所以は、忠孝
を本と為す。

  一、凡そ皇国に生まれては宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は万葉一統にして、邦国の士夫世々祿位を襲(つ)ぐ。人君民を養いて以て祖業を継ぎたまい、臣民君に忠にして以て父志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致、唯だ吾が国を然りと為す。

  一、士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行われ、勇は義に因りて長ず。

  一、士の行いは質実欺(あざむ)かざるを以て要と為し、巧詐にして過(あやまち)を文(かざ)るを以て恥と為す。光明正大、皆是れより出づ。

  一、人古今に通ぜず、聖賢を師とせずんば則ち、鄙夫(ひふ)のみ。読書尚友は君子の事なり。

  一、徳を成し材を達するには、師恩友益多きに居(お)る。故に君子は交遊を慎む。

  一、死して後已(や)むの四字は、言簡にして義広し。堅忍果決、確乎として抜くべからざるものは、是れを舎(お)きては術なきなり。
 
 右士規七則、約して三端と為す。曰く、「志を立てて以て万事の源と為す。交(まじわり)を選びて以て仁義の行を輔(たす)く。書を読みて以て聖賢の訓(おしえ)を稽(かんが)う」と。士苛(まこと)にここに得ることあらば、亦以て成人と為すべし。
 
※現代文
 
 書物を開いてみると、立派な言葉が林のように連なっていて、人の心をはげしく打つ。しかし人びとは書物を読まないようだ。たとえ読んでもみずから実行しない。まことに書物を読んでみずから実行するのであれば、千万年あったとしても、これを実行しつくすことはできない。ああ、なにをいったらよいのであろう。しかしながら、自分の知っていることを言わなければならないのが人間の真心ではないか。古人はすでに昔に言い、今は私がこれを現代に即して言うのである。またどうして悩むことがあろうか。そこでここに、士規七則を作る。
 
  一、およそ生をこの世に受けて人となったからには、人が禽獣(きんじゅう)と異なるゆえんを知らなければならない。思うに人には五倫がある。そのうち君臣、父子の道が最も大切である。だから人の人である真面目(しんめんぼく)は忠孝を根本とすることにある。

  一、およそ皇国に生まれたからには、わが国が世界各国より尊いわけを知っていなければならない。思うに、皇室は万世一系であり、士や大夫は代々禄を受け地位を継いでいる。君主は人民を養い、祖業を継がれ、臣民は君主に忠義を尽くし、もって父の志を継いでいる。君臣一体、忠孝一致、これはわが国だけの特色である。士の道は、義より大切なものはない。義は勇気によって実行され、勇気は義によってますます発揮される。

  一、士の行為は質実で自分の心をあざむかないことが肝要である。いつわりに巧みであったり、あやまちを飾りごまかすことを恥とする。心が明白で邪心なく、行ないが正しく堂々としているのは、みなここが出発点なのである。

  一、人たる者で、古今の学問に通ぜず、聖賢を師とせず、自己の修業をおこたるようでは、心のいやしいままで終わってしまうだけである。読書や賢人を友人とするのは君子のなすべきことである。

  一、徳を厚くし才能を磨くには、師の恩や友人の益によるところが大きい。それゆえ君子は人との交際を慎重にする。

  一、死してのちやむの四字(死而後己)は、言葉は簡単であるがその意味は広い。堅くたえ忍び、果断に実行し、断固として心を変えないのは、この死してのちやむの精神をほかにしては道がないのである。
 
 右の士規七則は、これを要約すれば三つになる。すなわち、「志を立てて万事の根源とする。交友を選んで仁義の行いを助ける。書物を読んで聖賢の教えを考え究める」ことである。士が、まことにこの三つのことを修め得ることができれば、人格・教養の備わった立派な人ということができよう。


安政2年の暮、松陰先生は野山獄から出られることになり、自宅蟄居(ちっきょ)を命じられました。翌年、いよいよ松下村塾が始まります。この時、松陰先生27歳。処刑されるまでの二年あまり、彼は不屈の情熱をもって、青年たちの魂に訴え、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋等の志士を育てました。こうした松陰先生の偉業は、死中に活を開き、発するものでした






 
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                        二・二六事件慰霊像
 
2月26日を前に、この記事を書かせていただきます。なぐり書きのほどご容赦ください。
(尚、二・二六事件詳細は「学校で教えない歴史」で数回に亘って書いております)
・・・・
 
明治維新第一の功臣と言われた西郷南洲翁(隆盛)は、明治10年の役で自ら首領となって官軍に抗したため、“賊魁隆盛”とも言われたが、明治22211日にはその賊名を許されて正三位を贈られた。
この西南の役による南洲翁の立場は、二・二六事件の青年将校以上に重大であるが、その心事が君国を思うにあったことが認められ、生前の功労を思し召されて正三位の御沙汰となったのであろう。
 
昭和11226日払暁。
第一師団管下の青年将校約20名が、部下の兵士一千数百名を引率して叛乱を起こした。
降り積もる雪の中を実力行使して、当時の重臣らを襲撃して、国中を震撼させた事件、二・二六事件。
上官の意向を無視して兵を動かし、多くの重臣を襲撃したその罪は、もとより万死に当たる。
ただ、当時の上層部が、この事件の日本歴史上における重大性に気付かず、その頃の軍部内における「皇道派」と「統制派」との勢力争いも知らないがために、この事件を何の反省もせず、ただ一方的な憎しみを以て青年将校たちを極刑に処した。その誤る処置が、その後の日本の戦争突入となったことは事実である。
処刑された安田優少尉(25歳)は法廷で、「軍上層部が戦時統制経済によって独占利益をむさぼろうとする財閥に懐柔され思うがままに操られてしまうと、国家は意図的に引き起こされる戦争によって滅亡の危機に直面しかねない・・」 まさに国を憂う発言であった。
 
統制派の代表で陸軍きっての切れ者の永田鉄山は北支の資源獲得などのため「支那を叩け」という考えであった。それに対して皇道派は「一度支那大陸に足を踏み込むことは世界戦争を覚悟せねばならぬ、支那を安買いすることの危険である」ことを主張し、ソ連の防共こそ重視すべきとした。
これが表面化したのは19336月の満州事変後の日本の国防政策を決定する省部会議であった。
しかし、この会議内容は最高機密であったにもかかわらずどこから漏らされて、いつの間にか「皇道派はソ連と戦争を従っている」と言われ、対ソ恐怖論をいだく宮中の重臣や財界、政界が皇道派を自然に危険視するようになっていったのだ。しかし、事実は全くの逆であった。
 
永田鉄山の支那と戦争突入すべきと財閥との癒着を危惧した相沢三郎中佐は、ついに永田鉄山を殺害し天誅を加えた。二・二六事件の前の年の8月であった。相沢を慕った青年将校たちは大きな影響を受けた。相沢は今も処刑された青年将校たちと共に賢崇寺にいるのはそのためである。
 
我が肇国(国がはじまって)以来の歴史を学び、軍人勅諭、教育勅語、帝国憲法によって日本の国体が万邦無比であると教えられた皇道派青年将校たちが、その国体を護ろうと起こした叛乱であった。
しかし、この事件によって皇道派が追い出されると、統制派は事件直後からこの事件関係の報道・言論を一切禁止し、厳重な取り締まりが行われ、事件の処理に当たった特別軍法会議は非公開で弁護もなし、しかも一審だけの暗黒裁判を行った。事件の真相は軍発表だけで、この報道管制は厳重に続けられたまま戦争に突入していった。従って事件について国民が知らされたのは軍発表以外何もなかった。
戦後になって埋没していた資料が発表された。しかしまだまだ謎も多いのだが、国民はもはやこの事件のことは学校でもきちんと教えられず、五・一五事件との違いすら分からず、何にことやらわからないのが実態であろう。
 
昭和41年、「華族―昭和百年の側面史」で事件当時に内大臣秘書官の木戸幸一はこう言っている。
「二・二六事件が起こることを知っていた。・・・。僕は1カ月も前から情報をキャッチしていましたよ。今度は軍はえらいことをやる。千人くらいの人間が動くという情報なんです」
情報を知っていたならばなぜ叛乱を阻止しなかったのか。
 
陛下に近い木戸幸一は事件後も陛下に青年将校を早く処分するように上奏していたようだが、この時の陛下の御判断に少なからず影響したのは間違いないでありましょう。
事件後、陛下は「反逆の徒を徹底的に鎮圧せよ」と何度も仰せられていた。
この木戸は大東亜戦争時も陛下のそばにいて、歪んだ情報を与えていた。その時、木戸と同居していたのは都留重人というアメリカ共産党員であり、コミンテルンの手先であった・・・。
 
国家を敗戦に導いた統制派の失態とともに、青年将校たちの一片の志を顧みて、その汚名は見直されるべきではないか。
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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