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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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日本はどこにある

 
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イメージ 1昭和8年に来日したグスタフ・フォス神父は神奈川栄光学園の初代校長のドイツ人です。
戦後の占領下に、GHQの警告を意に介することなく高校生たちに教育勅語を講義した。
「ここには日本人としての生き方を示す根本倫理が表現されている」と言っていたといいます。
そんなフォス校長は平成2年に亡くなられましたが、日本人に対して多くの教えを残しています。
 
「私は今までいろんな国を歩きまわったけれど、国旗掲揚しない国は一つもない。
ソ連だって当たり前のこととして揚げます。
それとおかしいのは、例えば今、日本の高校の教科課程をみますと、国史という科目は自由選択です。取らなくてもよろしい。こんなことがあっていいのでしょうか。
米国なんか、私はカリフォルニアにいましたが、米国史を教え、またその州の歴史も教えます」

ある日、栄光学園に高松宮殿下がおみえになることになりました。
当時、占領下の日本にあってフォス校長は「国旗を掲揚する」、「君が代を歌わせる」と言われました。
しかし、職員会議で日本人の教員たちは、
「占領下の今そんなことをすれば問題が起る」と難色を示しました。
戦後日本は国歌や国旗は何か犯罪であるかのような意識がありました。
するとフォス校長は、「日本人の教育をやるのに国旗を掲げ、国歌を歌って何が悪いか」と言いました。
高松宮殿下がおみえになり、臨席していた海軍司令官デッカーはこう言いました。
「今の妙なる調べは何だ」
「あれが君が代という日本の国歌であります」
「実に荘厳な立派な音楽だ」と言って賞賛したのです。
沢山の列席者は、戦後久しく聞かなかった君が代を聞き、日の丸を見て一番感動して泣いたのが日本人の父親たちでした。
日本人がやるべきことをドイツ人のフォスさんがやって、日本人が泣き、アメリカ人が感激したのです。・・・・・
 
現在の日本では小学生から英語を教えていると言いますが、私は賛成できません。
「言葉というのは心を育てるのです。ですから国語を軽んじれば、やはり日本の心というのは死んでしまうのです」とフォス校長も言っておりました。

また、こうも言っておりました。
「子供の権利だ、権利だと騒がれるけれど、一般に日本では一つだけ権利が守られていない。それは子供には叱られる権利があるということです」
“叱られる権利”こそ子供たちに大いなる人生の糧となると思われますが、いかがでしょう。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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二宮金次郎像



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先日、学校教師に「教育勅語」「修身」を の記事をエントリーしました。
「修身書」は、明治天皇陛下より下賜賜った『教育勅語』を実践するための手引書のようなものでした。
かつてわが国の小学校の多くには、子どもたちが手本とすべき人物の銅像が、建っていました。背中にまきを背負い、本を読みながら歩いている少年の像です。その人物が、二宮金次郎すなわち二宮尊徳です。
上記の表にあるように、「修身教科書」に最も多く取り上げられました。

二宮尊徳翁は、天明7年7月23日相模の国足柄上郡 栢山村、現在の神奈川県小田原市栢山(かやま)の裕福な農民、利右衛門の子として生まれました。しかし、尊徳翁が5歳のとき寛政3年、そばを流れる酒匂川(さかにがわ)が氾濫し、一家の田畑はひどい被害を受けました。田畑の修復に疲れた父は病気がちとなり、幼い尊徳は父の代わりに、川の堤防工事で働きました。しかし、子どもでは一人前の働きができません。申し訳なく思った尊徳は、人知れず皆のわらじ作りに精を出しました。尊徳翁の伝記報徳記』には、わらじを編んで金を稼ぎ、父のために酒を買い、 また、工事の賃金で松の苗を買い、洪水が来ないようにと土手に植えました。
 尊徳翁14歳の時、父が亡くなりました。残された母と幼い弟たちのために、尊徳は朝早くから田畑を耕し、まきを拾い、夜にはわらじ作りに精を出しました。そんな尊徳翁は、貧しさのため寺子屋へも行けませんでした。そこで、仕事の合い間に『童子教』から『大学』『論語』などを独学しました。 少年金次郎の銅像は、このころの姿です。
携帯電話・ゲーム等に没頭する今日の子供たちとは大きく異なります。

 悲しいことに尊徳翁が16歳のとき、母も亡くなってしまいました。しかもその年の夏には、再び川が氾濫し、一家離散となりました。両親の死後、叔父の家にて暮らしていた頃、寝る間も惜しんで読書をしました。油代がもったいないと叔父に指摘されると、荒地に菜種をまいて収穫した種を菜種油と交換し、それを燃やして勉学を続けました。

また、荒地を起こして、捨ててあった苗を拾って植え、2年で20俵を収穫しました。こうした努力と倹約によって、尊徳翁は田畑を少しずつ買い戻し、20歳代で生家の再興を果たしたのです。
 
 尊徳翁は、その後、小田原藩の家老服部家に奉公することになりました。尊徳翁は、主人の息子が儒学者の家に勉強に行くお供をし、庭先で先生の講義をじっと聞いて勉強しました。そのうちに先生も尊徳に気付き、指導してくれるようになりました。やがて服部家でその非凡さを認められた尊徳は、主家の財政の建て直しを成し遂げました。それが評価され、藩主大久保忠真(ただざね)により、桜町領(栃木県二宮町)の復興を命じられ、粉骨砕身の努力により、10年がかりでこれに成功しました。評判はさらに幕府に及び、老中水野忠邦より、印旛沼の分水掘削、日光の村々の再興などを命じられました。
 
 尊徳翁の生きた時代は、江戸時代の末期です。当時の農村は、悲惨な状態にありました。平和な時代が長く続き、人々の生活はぜいたくになっていました。その怠惰な風潮は農村にも及び、わが国全体の農地収入は3分の2に減じたといわれています。飢饉も次々に起こりました。その結果、貢租の重圧に耐えられなくなった農民は、次々と離散し田畑は荒廃しました。そのような時代に、尊徳翁は農村の再建、農民の救済に、懸命に努力しました。実に、約600もの藩や郡村を再興し、多くの人々を飢餓・離散から救いました。
 
 尊徳翁の思想の根本には、独自の人間観があります。尊徳翁は、人間と自然、人間と動物の違いをこう説きます。自然の道、「天道」は、人間が何もしなくても行われますが、人間は働かなければ生きてゆけません。勤労が根本なのです。また、動物は争い、戦い、奪い合いますが、人間は助け合い、融け合い、譲り合うことができます。尊徳翁は、これを人の道、「人道」といいます。世の中をよくするためには、「人道」に徹するほかはないのです。そして、人間の動物にない良いところをのばすために、尊徳は具体的な実践方法を説きました。それが、「報徳思想」です。
筆者が住んでいる兵庫県西宮市にある報徳学園高校は「報徳思想」を教える学校であり、二代目校長、二宮尊親氏は尊徳翁の嫡孫でした。

尊徳翁の報徳思想は、「分度」「勤倹」「推譲」「報徳」の四つからなっています。
動物はエサを食べたいだけ食べますが、人間は先のことを考えて、収穫の中から、来年のための種を保存します。「まかぬ種は生えぬ」からです。そして、一年かけて一家が食べられるように配分し、どれだけ食べ、どれだけ蓄えなければならないかを計画しなければなりません。このように消費と備蓄の度合いを考えて生活をすることを、「分度」といいます。
また、一生懸命働いて収穫を得たら、その利益を倹約するということが大切です。これを「勤倹」といいます。
勤倹によって余りが出れば、これを足りない人に譲る心が大切です。自分のために残すものを「自譲」、他人のために残すものを「他譲」といいます。尊徳翁は、この両方を合わせて「推譲」といいます。
推譲に対して、差し出された者は、感謝して、受けた徳に報いるという心が大切です。これを「報徳」といいます。つまりお返しをするということです。この時に、返し手が自分なりのお礼を加えれば、推譲の基金はいよいよ増えていきます。
これら「分度」「勤倹」「推譲」「報徳」は、どれが欠けても完全ではありません。四つが合わさって人間の生活を全うできるのです。こういう生き方が、尊徳翁の「報徳思想」です。尊徳翁は、これをひたすら実践し、人々に広めていきました。
 
 「報徳思想」はただ食べて、生きていく方法ではありません。
「わが道はまず心田の荒蕪を開くのを、先務としなければならぬ。心田の荒地を開いてのち、田畑の荒地に及んで、この数種の荒地を開いて熟田としたならば、国家社会の進展は手のひらをめぐらすように容易であろう」(『二宮翁夜話続編』)。尊徳翁は、田畑のことも、国家社会のことも、まず心を開拓することが第一だと言われています。
「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」(『二宮翁夜話』)とも尊徳翁は説かれています。
心の開発ができれば、国土を豊かにし、国家社会を発展させることができる。生きるために協働し、支え合いながら、自らを磨き、互いの人格を高め合う「和」の精神、それが人としての道であると尊徳翁は説いています。
 
かつて二宮尊徳翁を歌う唱歌がありました。「柴刈り縄ない草鞋(わらじ)をつくり 親の手を助(す)弟(おとと)を世話し兄弟仲よく孝行つくす 手本は二宮金次郎……」
 戦後の日本人は、戦前子供の手本とまでしていた二宮尊徳翁の銅像を校庭から取り払いました。それとともに、尊徳翁が実践され、説き広めた報徳精神も、かえりみなくなってしまいました。
 そして、半世紀たった今日、わが国には長期にわたる不況、国や自治体の膨大な借金、豊かさの中で勤労の精神を忘れた若者たち、官僚の腐敗堕落等の問題が、広がっています。今日の日本人が、再び二宮尊徳翁に学ぶべきことは、まことに多いでしょう。また学ばねばなりません。日本人が日本人であるために・・・原点に還るべきでしょう・・・




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憲法制定過程の大疑惑

 
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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
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憲法制定過程の大疑惑
 
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高知大学名誉教授 福地惇
 
対日占領政策策定に深く関与したヒュー・ボートン(当時国務省日本課長)は、昭和20年末まで「アメリカ合衆国は、ポツダム宣言で発表された連合国の目標に適う形で日本の憲法改正を行うべきかどうか決断していなかった」と後年証言している(『ボートン回想録・戦後日本の設計者』五味俊樹訳、朝日新聞社刊行)。
イメージ 4イメージ 3そうならば、昭和2010月初旬には近衛文麿(左写真)と幣原喜重郎(右写真)に別個に明治憲法改正の必要性を示唆しておきながら、近衛は切り捨て、幣原内閣の明治憲法の修正案は問題にならずと斥(しりぞ)け、速成のアメリカ製憲法を押し付けた最高司令官マッカーサーの行動は本国の指令を持たずに以上に敏速だったことになる。
新憲法制定に関するGHQと幣原内閣の折衝過程を概観すると、おおよそ五つの区分でとらえることができる。
    昭和20109日、幣原喜重郎内閣が成立、同月11日、幣原首相は新任の挨拶にマッカーサーを訪問し「民主化五原則」突きつけられる。
イメージ 5    1027日、内閣憲法問題調査委員会の初会合が開かれ(委員長は国務相松本烝治(右写真))、明治憲法の精査が開始される。128日、衆議院予算委員会で松本国務相は穏やかな明治憲法改正方針(松本四原則)を説明、憲法草案作成を開始。2121日、毎日新聞が松本試案をスクープするとGHQは厳しい反応を示す。
    23日、マッカーサー元帥はGHQ民政局に三原則を提示。同月8日、政府はGHQに対し松本案を提出。13日、GHQは松本案を拒絶。「GHQ草案」(マ元帥の幕僚25人が9日間で起草)を政府に手交。
    同月22日、閣議でGHQ草案の受け入れを決定。ワシントンで極東委員会第一回会議開催。36日、政府は「憲法改正草案要綱」(象徴天皇制、国民主権、戦争放棄を規定)を発表。
    621日、マ元帥が帝国議会での憲法改正案の審議に関する声明(討議三原則)を発表。枢密院と帝国議会の審議・議決を経て113日、日本国憲法公布。2253日、憲法施行。
 
連合国軍最高司令官マッカーサーに日本国は確かに「安全に従属」せしめられたが、ポツダム宣言の精神は「國體の良い面は認める」にある。故に降伏直後に戦勝国から憲法改正を要請されたとしても、それは宣言の条項内に限られていると解釈できる。当初、幣原首相らはそう理解していた。マッカーサーもまた、「最高司令官は(ポツダム宣言に基づいて)列挙した諸改革の実施を日本国政府に命令するのは最後の手段としての場合に限る」と本国政府から指令されていた。
 
にもかかわらずマッカーサーは、何の抵抗もしない日本側に自作の原案を下賜し、「極東委員会の脅威」論をチラつかせて「最後の手段」に出たのである。最悪の事態を恐れた日本側は生真面目に粛々と「明治憲法改正の儀式」を進めた。「日本製憲法」だと嘯(うそぶ)く起草者代表は、「この種の重要な文書でこれほど注目を集め、開放的に討論されたものは、米国憲法も含めて他に例がないと思う。新憲法は、実際には旧明治憲法の改正という形をとった。特にそうしたのは継続性を持たせたいという考えから出た」と主語が誰なのかわからない証言を残している(『マッカーサー回想記』)。
 
マッカーサーは昭和21621日、「帝国議会での憲法改正案の討議三原則(審議に充分な時間を尽くすこと、明治憲法との法的継続性を保証すること、国民の自由意思表明に基づく採択であること)を日本側に命じた。そして改正憲法公布の詔書にも、「朕は日本国民の総意に基づいて・・・・枢密院の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の決議を経た帝国憲法の改正を裁可しここに公布せしめる」とある。だが、「前文」には「日本国民は(中略)ここに主権が国民の存することを宣言し、憲法を確定する」とあり、これは誓約を踏み躙った國體壊滅の宣言であると言わざるを得ない。重大な問題は、現憲法の制定過程にポツダム宣言に違反の疑惑が濃厚だという点である。
制定過程に限らず憲法の内容も大問題である。・・・・
 
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