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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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                      台湾に寄贈されたさざれ石
 
許國雄(きょこくゆう)さんは大正11年に台湾海峡中の澎湖諸島に生まれました。
その後、高雄市に移り、小学、中学を卒業し日本の九州歯科医学専門学校、九州高等医学専門学校に学びました。このため、國雄さんはご自身を「九州男児」だと言っていました。
九州にいるときに大東亜戦争が起こり、そして終戦。
國雄さんは大日本帝国臣民から中華民国の国民となりますが、「自分は日本人である」とのおもいはなかなか断ち切れませんでした。そして、台湾に帰った國雄さんは現実を見ます。
1947年、台湾で2・28事件が起きて父が殺されたのです。
 
1961年、台湾は戒厳令下で罪のない台湾人が投獄されたり銃殺されたりしていました。
そういう中、蒋介石の息子である蒋経国から2・28事件の話を聞きたいと言われ、
「台湾人の本当の気持ちを伝えることができれば殺されても本望だ」と思い、2・28事件の体験をすべて話しました。
「今の政治は、改革されねばなりません」。
それに対して蒋経国はこう言いました。
「あなたの話はよく分かりました。あなたの力を借りたい。あなたも国民党に入って私と一緒に党を改革しようじゃありませんか」
國雄さんは「虎穴に入らずんば虎児を得ず」で、敵である国民党に入党して内部から改革していこうと決めました。さらに蒋経国の後をついで国民党総統となる李登輝氏を始め、多くの台湾人が改革の志を抱いて国民党に入党しました。
國雄さんは高雄医学院の医学部や歯学部で教鞭をとるうちに、教育への情熱がかき立てられ、自分で学校をやってみたいと思うようになります。
1963年、看護婦・助産婦を育成する育英高級護理助産職業学校を設立。
1966年には東方工芸専科学校を創設しました。
 
國雄さんの創設した学校では毎日朝礼を行い国旗「青天白日旗」を掲揚して台湾への忠誠心を養うと同時に「大和魂」の教育を目指しました。台湾で最初の日本語学科も新設しました。
 
当初は高級官僚や政治家の息子もいました。悪いことをした生徒には容赦なく殴りました。
「君は本来よい学生だけど、今のはよくない」と言って3回殴りました。
1回目は国に代わって殴り、2回目は父親に代わって殴り、3回目は母親に代わって殴る。
不思議なことに殴られた学生ほど、卒業してから立派になり國雄さんに報告に来ました。
 
校舎の一部には日本間があり、そこには神棚と教育勅語が額に入れて掛けてあります。
國雄さんは言います。
「日本は昭和23年の国会で教育勅語が取り止めになったのは残念です。教育勅語で日本の教育が成長したんです。父母に孝に兄弟に友に、夫婦相和し朋友相信じ。もういっぺん日本は教育勅語をやり直すべきです。戦後の日本には教育勅語がないから「夫婦相和」さず離婚率が高いのです。「朋友相信ジ」ないから、「いじめ」が絶えないのです。「博愛衆ニ及ボ」さないから電車で老人に席を譲らないし、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」る精神が失われたから、利己的な人間が増え国全体の名誉が蔑ろにされてしまうのです」
 
大正12年、昭和天皇が皇太子の時に台湾に行啓されました。
南の高雄、さらには隣の屏東(へいとう)まで行かれる予定でしたが、その地には伝染病が蔓延していたために、行啓反対の声が強く出ました。
しかし皇太子殿下は「そこも我が国であり、我が民がいる」と言われました。それを聞いた屏東の人々は大変感激して、嘉義の山から蓬莱竹を9本苅ってきて天幕を作り、家々に日の丸を掲げて盛大にお迎えしました。
竹は枯れて淡黄褐色に変色し、芽が出ないように逆さまに地面に差してありましたが、不思議な事に皇太子殿下行啓の時には小さな新芽が出ていました。植物学者である皇太子殿下はこの新芽に目をとめられ、優しく撫でられました。
 
皇太子殿下が帰られてから、この新芽が成長し続けました。地元の人は「不思議な事よ」と、地面に植え直すと大きな竹林に成長し「これは瑞祥だ」として瑞竹 と呼ぶようになりました。
しかしこの瑞竹は国民党政府の反日政策によって苅られると思い、國雄さんはその一部を密かに自分の東方工芸専科学校の正門前に移植しました。これは戒厳令下の国民党政府に知られると親日的と見られ、危険な行為でした。
 
19727月、國雄さんは教育会の理事長に任命されました。
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月には教育会の推薦で国民大会代表(国会議員)に立候補するとトップ当選となりました。
その後、教育会理事長と国民大会代表とも14年間勤め上げます。
國雄さんは教育事業、教育改革を自らの使命として取り組みますが、常に念頭にあったのは日本時代に培った「大和魂」でした。
 
ある時、教科書会社が國雄さんに「自分の会社の教科書を使って欲しい」と賄賂を持ってきたことがありました。日本統治時代の台湾ではこうした賄賂はありませんでしたが、
戦後は支那大陸の賄賂文化が持ち込まれて台湾中で起きていました。
「私は日本教育で、それも九州の久留米で勉強した九州男児だ。こんなものを受け取れるか」
と言って、國雄さんは賄賂を突き返しました。
國雄さんの世代の台湾人にとって日本の教育を受けたというのは一つの自慢です。
お金は無くとも、清く正しく生きていくこと。
それは日本統治時代に受けた「日本教育のお陰だ」と國雄さんは言います。

・・・・・・
 
1988年1月、蒋経国 国民党総統が突然逝去します。副総統だった李登輝氏が党内選挙に勝って初の台湾人総統となります。李登輝氏は京都大学出身、自ら「二十二歳まで日本人だった」と言います。國雄さんは同じ元日本人として応援します。
1996年、台湾で最初の総統選挙が行われ、再選を狙う李登輝氏は主張します。
「台湾と中国とは別の独立国家だ」
その再選を阻もうと中国政府は台湾近海にミサイルを撃ち威嚇します。しかし、これは逆効果でした。李登輝氏は約1千万の有権者のうち、6百万票を獲得し圧勝しました。
 
「今の台湾を支えているのは日本の教育を受けた人たちです。日本の年配者と同じく若い頃に大東亜戦争を体験し、防空壕を掘ったりして鍛えられた人が今の台湾のリーダーになっています。あれほどの中共のミサイル威嚇にも、誰一人として逃げようとはしませんでした。全く落ち着いています。逃げないのみならず、中立の浮動票はみんな李登輝氏の方に流れてしまいました。ミサイルが一発でも命中すれば多くの台湾人が死にます。恐ろしくないわけがありません。しかし台湾人は『忍』の心で徳川家康のように黙って独立の機会を待つ李登輝氏に投票しました」
 
國雄さんは日本の教育から学んだ大和魂を大切に生きてきました。このような夢も語っていました。
東方法商学院大学という学校を創り、2トンもあるさざれ石を置いた「大和公園」、日本の書籍の蔵書では台湾一を誇る「大和文庫」をつくりたい。
しかし國雄さんは2002年にご逝去されました。
 
許國雄さんは亡くなる前にこのようなことを話していたそうです。
「「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉」ずる精神が失われたから「陸軍記念日」も祝われず、国会で謝罪決議さえ行うのです。台湾には大和魂があるから選挙の時に中共から台湾沖にミサイルを三発撃ち込まれても、ビクともしませんでした。
能登半島沖に北朝鮮からノドン一号が打ち込まれましたが、日本の反応はいかがでしたか」
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

教育勅語



朕(ちん)惟(おも)ふに 我が皇祖皇宗(こうそこうそう) 国を肇(はじ)むること宏遠(こうえん)に 徳を樹(た)つ ること深厚(しんこう)なり 我が臣民(しんみん) 克(よ)く忠に克く孝に 億兆(おくちょう)心を一(いつ)にして 世々(よよ)厥(そ)の美を濟 (な)せるは 此(こ)れ我が国体(こくたい)の精華(せいか)にして 教育の淵源(えんげん)亦(また)実に此(ここ)に存す

爾(なんじ)臣民(しんみん) 父母に孝に 兄弟に友に 夫婦相(あい)和し 朋友(ほうゆう)相信じ 恭儉(きょうけん)己れを持し 博愛衆に及ぼし  學を修め業(ぎょう)を習ひ 以(も)って智能を啓発し 徳器(とくき)を成就(じょうじゅ)し、進んで公益を広(ひろ)め 世務(せいむ)を開き 常に 国憲を重んじ国法に遵(したが)ひ 一旦緩急あれば義勇公に奉じ 以って天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を扶翼(ふよく)すべし 是 (かく)の如(ごと)きは 独(ひと)り朕が忠良の臣民たるのみならず 又以って爾祖先の遺風を顕彰(けんしょう)するに足らん

斯(こ)の道は 実に我が皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所 之(これ)を古今に通じて謬(あやま)らず 之を中外(ちゅうが い)に施(ほどこ)して悖(もと)らず 朕爾臣民と倶(とも)に挙々服膺(けんけんふくよう)して咸(みな)其(そ)の徳を一(いつ)にせんことを庶 (こ)ひ幾(ねが)う


明治二十三年十月三十日

御 名   御  璽



心の道標〜教育勅語(五) より続きます。

一・五 徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ

(大意)
道徳的な国家の実現をめざして建国しました




④[歴代の天皇これに則り給ふ]
歴代の天皇は、皇祖皇宗の深厚なる徳に則りて、君臨し給ふ。
(第十代)崇神(すじん)天皇、疫病流行して死する者、夥(おびただ)しきを憂ひさせ給ひ、親しく八百万神(やおよろずのかみ)を祀らせ給ふ。ここに於て疫病息(や)み。天下大いに治まり、五穀豊熟(ほうじゅく)す。天皇、農(のう)を以て国の大本(たいほん)と為し給ひ、地溝(ちこう)を開きて水田に灌漑(かんがい)せしめられ、あるひは、四道将軍(畿外四方に派遣の皇族将軍)を遣はして四方を平定せしめ給ふ。
これにより民、王化に浴すること絶大なりしかば、天皇の徳を称へて御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と云ふ。
(第十二代)景行(けいこう)天皇は、大勇の徳を以て皇化を宇内(うだい)に布(し)き給へり。(第十五代)応神(おうじん)天皇は、文教を
布きて、民の知識、及び道徳を明らかにし給へり。(第六十代)醍醐(だいご)天皇は、寒夜に御衣(ぎょい)を脱ぎて貧民の労苦に同情し給へり。歴代の天皇は民の父母を以て任じ給ひしなり。
(第十六代)仁徳天皇の四年二月、天皇、高台(たかどの)に登り遠望し給ふに、炊煙(すいえん)上らず。天皇謂(い)へらく、「百姓(ひゃくせい)貧しくして家に炊(かし)ぐ者少きに因(よ)るなり。近畿の地すでにかくのごとし、いはんや畿外(近畿以外)諸国をや」と。三月、詔(みことのり)して、今より後三年の間、課役を免じ、百姓の苦を息(やす)めんとし給ふ。爾来(じらい・その後)、天皇みずから倹素を守らせ給ひ、宮垣(みやがき)崩るるも造らず、雨風隙(すきま)に入るも少しも意に介せず、百姓と苦を共にし給ひかば、これより後、風雨時に順(したが)ひ、五穀豊穣にして、三年の間に百姓おほひに富めり。
三年の後、天皇再び台に登らせ給ふに、烟気(えんき)多く起る。天皇大いに喜び、皇后に謂ひて曰く、「朕すでに富めり、あに愁いあらんや」と。皇后怪しみて曰く、「宮殿破れて雨露をだに凌ぐに足らず。然るを何ぞ富めりと謂はんや」と。天皇答へて曰く「君は民を以て本(もと)となす。民の富めるは、すなはち朕が富めるなり」と。
百姓調(ちょう・貢物)を上(たてまつ)りて宮殿を修めんと乞ふも許さず。
更に三年の後、始めて調役(労役)を課し、宮殿を造営せしむ。庶民、老を扶(たす)け、幼を携えて来り、日夜営作し、いくばくもなくして宮室ことごとく成る。
実に我が邦(くに)歴代の天皇が、民の幸福を以て御自身の幸福と思召(おぼしめ)さるる至仁の御心を示す好例と云うべし。
明治天皇は、知仁勇を兼備し給へり。その愛民・仁政は仁徳天皇の例に異ならず。天皇、常の御心を詠じ給へる御製に、

罪あらばわれを罰せよ天つ神 民はわが身の生みし子なれば(明治44年)

また、

照につけ曇るにつけておもふかな わが民くさのうへはいかにと(明治37年)


とあるを拝しては、常に民生(みんせい)を御懸念まします有り難き御心、推察し奉るだに畏れ多し。明治の御代において、我が邦、前代未聞の皇威(皇国の威光)の発揚と国運の進展とを見るに至しも、偶然にあらず。

(大意)
歴代の天皇は、先祖の厚い徳を模範にして、君主としての責務を果たされました。
第十代崇神天皇は、疫病が流行して死者が増えたとき、神々をお祀りになったところ、疫病が静まりました。
そのあと崇神天皇は水田のための施設をおつくりになり、四道将軍を四方に派遣して国の乱れを鎮めました。
このことによって国民の生活は平和になりましたので、天皇の徳を称えて御肇国天皇(はじめて国を治めた天皇)とお呼びしました。

第十二代景行天皇は、偉大な勇気をもって国内を平定しました。

第十六代應神天皇は、学問と教育を盛んにして国民に知識や道徳を知らせました。
第六十代醍醐天皇は、寒い夜に衣服を脱いで、国民の苦労をじぶんのものとなさいました。
このように歴代の天皇は、国民の父母としての役割を果たされたのです。



第十六代仁徳天皇について、つぎのような話がのこされています。

即位なさってまもないころ、天皇が高台に登って眺められますと、国民の家々から炊事の煙があがっておりません。
天皇は、
「国民は貧しくて家で食事の支度のできる者も少ないのであろう。近畿の地でもこうなのだから、その外ではもっと大変なのであろう」
――とおおせられて、翌月にお触れを出して、
「今後三年のあいだ、税を免除する」
とし、さらにご自分でも倹約につとめて、皇居が痛んでも修繕せず、風雨が中に入っても我慢をして、国民と苦労をともになさいました。
この善政によって、国民の暮らしはすっかり楽になりました。
三年して、天皇がふたたび高台にお登りになったところ、炊事の煙がたくさん上がっているのが見えました。
仁徳天皇はたいへん喜ばれて、皇后に向かって、
「自分はすでに豊かになった。心配はない」
――といわれました。
皇后はふしぎに思って、
「宮殿は壊れて雨をふせぐこともできません。なのに、どうして豊かになったといえるのでしょうか?」
――とお訊ねになりました。
天皇は、
「君主の大もとは国民である。だから国民が豊かであることは、すなわち、君主が豊かであることなのだ」
――とお答えになられました。
国民は税を納めて宮殿を修復したいと申し出ましたが、天皇はそれを許さず、さらに三年して、ようやく宮殿の修復をなさいました。
感激した国民は、老幼男女がみな集まって手伝い、ほどなくして、修復がなりました。
このエピソードは、歴代の天皇が国民の幸福をご自身の幸福とお考えになる好例といえるでしょう。

第百二十二代明治天皇は、知仁勇を備えておいでで、その国民への愛情や慈悲は仁徳天皇と同じでした。

明治天皇につぎのような御製があります。

「罪あればわれを罰せよ天つ神 民はわが身の生みし子なれば(明治四十四年)」

「照につけ曇につけておもふかな わが民くさのうへはいかにと(明治三十七年)」

この御製からも、明治天皇が常に国民のことを気にかけておられる御心が拝察できます。

明治時代に、わが日本国が、世界中が驚くような発展をとげたのは、決して偶然ではありません。



筆者補注

明治天皇は、朝敵になってしまった徳川家の人たちにとても優しく接しておられました。
たとえば明治八年には、水戸の徳川光圀(水戸黄門)の子孫の家にわざわざ行幸されて、なぐさめの御製を下賜なさっています。
またのちに、徳川の家臣だった多くの人たちに勲章を贈られ、分け隔てなく接せられ、登用されておられます。


 
 
 
 

教育勅語



朕(ちん)惟(おも)ふに 我が皇祖皇宗(こうそこうそう) 国を肇(はじ)むること宏遠(こうえん)に 徳を樹(た)つ ること深厚(しんこう)なり 我が臣民(しんみん) 克(よ)く忠に克く孝に 億兆(おくちょう)心を一(いつ)にして 世々(よよ)厥(そ)の美を濟 (な)せるは 此(こ)れ我が国体(こくたい)の精華(せいか)にして 教育の淵源(えんげん)亦(また)実に此(ここ)に存す

爾(なんじ)臣民(しんみん) 父母に孝に 兄弟に友に 夫婦相(あい)和し 朋友(ほうゆう)相信じ 恭儉(きょうけん)己れを持し 博愛衆に及ぼし  學を修め業(ぎょう)を習ひ 以(も)って智能を啓発し 徳器(とくき)を成就(じょうじゅ)し、進んで公益を広(ひろ)め 世務(せいむ)を開き 常に 国憲を重んじ国法に遵(したが)ひ 一旦緩急あれば義勇公に奉じ 以って天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を扶翼(ふよく)すべし 是 (かく)の如(ごと)きは 独(ひと)り朕が忠良の臣民たるのみならず 又以って爾祖先の遺風を顕彰(けんしょう)するに足らん

斯(こ)の道は 実に我が皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所 之(これ)を古今に通じて謬(あやま)らず 之を中外(ちゅうが い)に施(ほどこ)して悖(もと)らず 朕爾臣民と倶(とも)に挙々服膺(けんけんふくよう)して咸(みな)其(そ)の徳を一(いつ)にせんことを庶 (こ)ひ幾(ねが)う


明治二十三年十月三十日

御 名   御  璽



心の道標〜教育勅語(三)より続きます。

一・五 徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ

(大意)
道徳的な国家の実現をめざして建国しました


①[樹ツルの意義]
「樹」の一字、よく我が国皇室の特色を現はす。
「樹つ」とは植付(うえつ)くるなり。我が邦の御先祖は、あたかも樹木を植付くるがごとく、人民に徳を植付けられれたり。これ、外国の建国者あるひは主権者と、我が国天皇と、大いに異なる点なり。
外国の主権者は、権威(強権の威力)を以て国を建て、人民に臨む。故(ゆえ)にその主権者にして権威あるうちは、人民は屈服するも、他にこれ以上の権威あるものあれば、その位置を取って代るを得るものにして、動物界に行はるる弱肉強食の法則に従ふ。故に外国の君臣の関係は畏服(いふく・恐れて従う)に止(とど)まる。
我が日本国の天皇は、人民に臨ませ給ふに権威を以てするにあらずして、仁愛(じんあい)を民の心中に深く厚く植込み給ふを以て、君臣の関係おのづから牢乎(ろうこ・確固)として抜くべからず。故に民は悦服(えつぷく・喜んで従う)するなり。


(大意)
「樹」の一字は、日本という国の特質をよく表しています。
「樹つ」とは植えつけることです。わが国のご先祖は、あたかも樹木を植えつけるように、国民に徳を植えつけられたのです。
これが、外国の建国者や王と、日本の天皇との大きな違いです。

外国の王は、力によって国をつくり国民に対します。

ですから、その力があるうちは国民は服従しますが、ほかにより強い力をもつものが現れますと、たちまちそちらになびくようになります。動物界にある弱肉強食と同じです。
したがいまして、外国における王と民の関係は、力による支配と服従にとどまっております。

しかし日本の天皇は、国民に対して力で威圧するのではなく、慈しみ愛するお気持ちで国民を大切になさるのです。

このため、国民は喜んで天皇を信頼し、天皇と国民の信頼関係はきわめて強固なものとなっているのです。



②[天照大神の仁政及び三種の神器の徳]
天照大神の大徳は、歴史に依りてその一端を伺ふのみなるも、これに由(よ)りて見ても長く皇室に模範を垂れ、君徳を教示し給ふに足る。
すなはち、(天照)大神の高天原に君臨ましますや、国民の衣食のために米の種子を植ゑさせられ、以て食を与へ給ひ、蚕職(さんしょく・蚕を養い絹を織る)を奨励し給ひ、衣服を給し給ふ。かく生民(せいみん・国民)の父母として、これに衣食を供給せられしかば、国民はますますその仁政に感謝し、その厚徳を慕ひ奉りぬ。
たまたま素戔嗚尊(すさのおのみこと・大神の弟神)の乱行を怒らせ給ひ、天の岩戸に隠れ給ひしかば、国民等しく哀愁(あいしゅう)に堪えざりき。よりて群神相議して、大神を再び迎へ出し参らせたり。
かかる君徳に秀でし給ひし大神なりしかば、天孫降臨に際し、万物動かざるの神勅を授け給ひ、併せて神器に寓意(ぐうい)して、君徳を教示し給へり。
すなはち、玉(八坂瓊曲玉)の徳は仁を示し、剣(天叢雲剣)の徳は勇を示し、鏡(八咫鏡)の徳は知を示す。知仁勇の三徳を身に行ひて、始めて君徳を完(まつと)うするものなれば、我が子孫は三器の示す徳を修養して君臨すべしと教え給ふ。
されば歴代天皇は、天祖の御遺訓を体現せられて、民の父母として仁政を施し給へり。

(大意)
天照大神の偉大な徳は、古い歴史によってその一部を知るだけですが、知られているだけでも、長く皇室の模範となり、君主の徳を教えるものとなっております。
すなわち、高天原において、稲を栽培なさり、織物をなさって、国民に食物と衣服をお与えになりました。
このように国民のためにお働きになったので、国民は天照大神を慕って感謝したのです。
たまたま素戔嗚尊が乱暴を働いたのでお怒りになり、天の岩戸にお隠れになったとき、国民はみな嘆き、相談して、岩戸から出てくださるように願いました。

このような徳に秀でた天照大神でしたから、天孫降臨に際して、永遠に不動の詔勅(天壌無窮の詔勅)を天孫にお与えになり、同時に、「三種の神器」に寓意して、君主の徳をお教えになったのです。


すなわち、「八坂瓊曲玉」は仁を示し、「天叢雲剣」は勇を示し、「八咫鏡」は知を示します。

「君主は知仁勇の三つを身につけてはじめて君主としての徳を完全なものにすることができるのだから、子孫たちは、「三種の神器」の示す意味をよく学ぶように」
――と、お教えになられたのです。
ですから、歴代の天皇は、この天照大神のお教えを身につけて、国民の父母というお立場で、慈愛のある政治を実現してこられたのです。

③[神武天皇の大度(たいど・大きな度量)と至孝(至上の孝行)]
神武天皇は、その勇、その仁、その知において、上(かみ)は天祖の国を授くる徳に答え給ひ、下(しも)は皇孫に範を垂れ給ひて、日本の紀元を画するの大業を遂行し給へり。
天皇の東征は、その勇を現はし、尚武(武を尊ぶこと)、国を開き、天祖の意を体して、仁愛、以て全土を王化に浴せしめ給へり。
天皇の大度、敵の骨肉(同族)といえども、帰順者はこれを入れてよく用ゐられしかば、我が皇室の同化力は絶大なりき。
天皇は、また慈仁の心篤く、穀物及び麻を東国に播殖せしめ給ひ、あるひは孝道に厚く、大業を遂げて建国の基礎を固め給ひしも、その功を私せず、みずから霊じ(祭場)を鳥見(とみ)山の中に立て、皇祖天神を祀り給ふ。

(大意)
初代の神武天皇は、その知仁勇の三つの徳に秀でておられ、先祖のお教えにお応えになり、同時に子孫の模範となって、日本の建国という大きな業績をおあげになりました。

神武天皇の大和への遠征は進取の精神をあらわしておりますが、国を創って先祖のお教えのとおりに愛情によって全土を平定なさいました。

天皇は御心が広く、敵であっても態度を改めたものは仲間として扱い大切にしました。
日本の皇室が敵対者を仲間にする同化力は絶大なものがあります。

神武天皇はまた、慈悲の心があつく、穀物や麻を東国に普及させました。

先祖を大切にする心もあつく、鳥見の山中に祭場をつくって先祖の神をお祀りになりました。



投稿文字数に制限がありますので心の道標〜教育勅語(六) に続きます。




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杉浦重剛先生  


先帝陛下に道徳を教えられた杉浦重剛先生は、安政二年に滋賀県で生まれました。
現在の東京大学の前身である開成学校の理学を卒業し、東大で教えたのち、日本中学校という学校を創立して、校長として活躍し、衆議院議員にもなりました。
そして大正三年から同十年まで、東宮御学問所御用掛という、少年時代の昭和天皇を教育する役職につきました。
この重大なお役目を誠心誠意果たされたのち、大正十三年に六十九歳で没されました。

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昭和天皇陛下、香淳皇后陛下 御尊影




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寛仁親王殿下、妃殿下 御尊影



本ブログでも抜粋記事として、ご紹介させていただいた、「公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王殿下 ですが、寛仁親王殿下薨去にあたり、寛仁親王殿下のご遺徳を偲び全編にわたり記載いたします。
「ヒゲの殿下」の愛称で国民に親しまれた
寛仁親王殿下。
先帝陛下の甥にあたられ、生前の先帝陛下を間近でご覧になられた。
そして、先帝陛下、今上陛下に深い尊敬の念を抱いておられました。いまだに国民から敬愛を集める先帝陛下は殿下にとってどのような存在だったのでしょうか?
聞き手は作家の工藤美代子氏です。

公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王殿下


――昭和天皇が崩御されて二十年が経ちましたが、私たち日本国民は、今も変わらず昭和天皇に特別な敬愛と尊崇の念を持っております。

殿下 私は六十三年の半生で国内外の数多くの人々に会ってきましたが、昭和天皇は比較対照する人間が存在しません。大正天皇と貞明皇后は四人の天才的なお子様をお作りになりましたが、秩父、高松、両伯父様および父の三兄弟に比べても、陛下は別格の存在でした。


――殿下がご幼少の頃の昭和天皇の思い出はございますか?


殿下 うちの両親がよく外国に旅に出ていたので、留守中に両陛下がわれわれ兄弟をお招きくださって、よくお食事をいただきました。何を話したのかあまり覚えていませんけど、とにかく緊張した記憶があります。


――昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?


殿下 二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたいことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。その時の記憶で特に鮮明なのは、陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と淡々とおっしゃったことでした。一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を言上(ごんじょう)したわけで、いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。

またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。

――陛下はそうした国民の声ををどこでお知りになったのでしょうか?


殿下 陛下は若くして摂政となられ、戦前・戦中・戦後と未曾有の困難を乗り越えてこられました。戦中には、正しい報告を陛下に上げなかった将軍や政治家などの裏も表もご覧になったはずだし、戦後は全国をご巡幸されて無数の国民と直に接し、苦楽を共にされた。そういう過程で高みから人間というものの本質を見抜くお力を自然に身につけておしまいになったのでしょう。


――昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。


殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(信子妃殿下は麻生太郎元首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。

義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、
「太賀吉は元気でおるか?」
とおっしゃったのです。
実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。

――皆様が感激されたのも頷けます。


殿下 麻生家には、長男の太郎から妻の信子まで六人の兄弟がいて、性格では「一・六」「二・五」「三・四」と分けてかかかっていました。つまり、二番目と五番目が一番出来がよく、三、四番はそれほどではないが人がいい、一番出来が悪いのが長男と末っ子だと(笑)。だから義母は「信子は妃殿下になれません」と言って私たちの結婚には大反対でした。勿論、陛下のご存知のない内輪の話です。

ある年の園遊会に、日英親善に長年功労があったということで義母がご招待を受けました。園遊会には二千人近くの人々が招待されているし、彼女は度々お目に掛かっていましたから、他の人々の為に少し離れたところにいたそうです。すると当時の安倍式部官長が彼女を見つけて陛下にご紹介申しあげました。
陛下はすぐに、
「信子はよくやっているよ」 と仰ってくださった。出来が悪いと気にかけていた末娘を陛下が褒めてくださったのだから、義母は感極まり、その場で滂沱の涙を流したということです。
陛下のお言葉は、式部官長が「こうおしゃった方が宜しゅうございます」などと助言し準備されたものではありません。だいいち、園遊会で特定の招待者を見つけ出すことは不可能に近い。
陛下は、人の心を震わせる当意即妙なお言葉を、瞬時に、しかもさりげなくおっしゃるお方でした。

――国民に対するお気遣いも有名でした。


殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。


――昭和天皇がお笑いになった時の表情もとてもお優しく、その笑顔に国民は親しみを感じ、癒されたものです。


殿下 本当に陛下の笑顔は素敵でしたね。

両陛下のご訪米の際、ディズニーランドでパレードをご見学される情景がありました。その時、あちらの職員の子供たちが陛下や皇后様のお膝にもたれかかって、結局最後まで居着いてしまいました。それほど両陛下は子供をあやすのがお上手で、実に微笑ましい光景でした。あのスマイルが、人々の心を溶かすのだと思います。

――そのような昭和天皇のお優しい性格や人間に対する深い愛情は、もともとお生まれの時から備えていらしゃったのでしょうか?


殿下 勿論その側面もあると思いますが、厳しい教育があのような公平無私なお心を育んだとも言えるのではないでしょうか。

当時は東宮御学問所というのがあって、総裁東郷平八郎を筆頭に杉浦重剛の倫理、白鳥庫吉の歴史など、明治のそうそうたる教授陣から文字通り帝王学を学ばれたはずです。もともとの素質がある上に、最高の教育を受けられたわけですから、あれほどのお方になられるのは当然かもしれません。本物の帝王学を授けられたのは昭和天皇が最後だと思います。


――今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか?


殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。

ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、
「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」
とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。
また、伯父様はこうもおっしゃっていました。
「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」
まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。
――私たち国民は、皇室のこのような揺るぎない伝統に親しみを感じます。伝統といえば、昭和天皇は宮中祭祀にとても熱心にお取組みになっていたと仄聞しています。

殿下 今上天皇もそうですが、昭和天皇も宮中祭祀にはとりわけ熱心でいらっしゃいました。宮中祭祀は、陛下と皇太子様しか中にお入りになれません。新嘗祭にしても、中で何をなさっているかは、我々は見たことも聞いたこともない。そういう神秘のベールに包まれているところが宮中祭祀の良さなのです。


――開かれていないからこそ国民は皇室に深い尊敬を抱くのですね。


殿下 私は結婚した時、妻に「俺はお前のことを守らないよ」と言ったんです。私が一番に守らなければいけないのは昭和天皇であって、二番目は高松伯父様でした。私は今でこそ体が弱ってしまいましたが、当時は陛下の一番近くにいて、いつも用心棒のつもりでいました。待衛官(側衛長)という警衛のプロがいるのですが、残念ながら少し離れたところにいるわけです。

陛下にいざ暴漢が迫った時には二、三歩で陛下に近づけるのは私しかいません。
だから常に目を配っていました。

――命がけで陛下を守っていらっしゃったわけですね。


殿下 国民にとって昭和天皇は大切なお方でしたが、私にとっても「上御一人」と申し上げるしかない、かけがえのないお方だったのです。



SAPIO 「昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々」より

寛仁親王殿下が身を挺して皇室の藩屏とならんとされていた事がお分かりいただけたと思います。
筆者が尊敬してやまないさくらの花びら大兄さまの秀逸記事、
日本で大切なものが四つある。御皇室と靖国神社と桜と富士山だ。これを忘れたら日本は日本ではなくなる でも皇室の大切さを説いておられます。

すべての伝統は失ってしまったら取り返すことは困難を極めます。
我々の先人・先祖はそれを知っていました。だから何があろうとも護り継承してきました。
血統は尚更のことです。
伝統とは議論する余地のない無条件に、只々、跪き、敬うものです。

寛仁親王殿下はそれを命がけで護られたのでした。




寛仁親王殿下インタビュー



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「イナボさん、今度は靖国で会いましょう」
このように言い残した日本兵たちを思い出すといつもイナボさんは涙ぐんでいました。 
戦前は日本領であったパラオ。そのパラオ共和国で政治顧問にまでなったイナボさんは、大東亜戦争中ペリリュー島で日本兵たちから戦車に対する肉迫攻撃の訓練を受けていました。
パラオの人たちは日本の兵隊たちと一緒にペリリュー島を守るつもりでしたが、中川守備隊長はパラオ人全員をパラオ本島に移して日本軍人だけで米軍と戦いました。
それを知るイナボさんは日本軍人に対して申し訳ないという気持ちを大変強く持っていました。
その一方でイナボさんは現代の日本人についてこう語っていました。
--------- 
私は日本の雑誌をよく読んでいます。それで一番こたえるのは日本の総理大臣が815日に靖国神社にお参りに行こうとするとそれを反対する人がいるんでしょう。戦争の悲惨さを知らないからそんなことを言うんでしょう。私からすれば反対するなんて「何でですか!」と思います。
戦争末期、米軍の空襲で私の戦友たち、日本の兵隊さんが次々とやられました。それは本当に悲惨で、あの悲惨さは経験した人でないとわかりませんよ。
どの兵隊さんも、死ぬ時に「イナボさん、日本が勝つにしても負けるにしても、いずれ戦争は終わる。終わった時に日本へ来るようなことがあったら、靖国神社にいますからお参りに来て下さい」と言っていました。
何万人という人が死んでいるんですよ。その目的はたった一つ。日本の国のために、日本の社会のために、日本の国をよくするために、そして東亜の安定のために死んでいるんでしょう。
その人たちを祀っている靖国神社に参拝するのを反対するというのはどういうことですか。
日本が負けたからそういうことを言う人もいるんでしょうね。勝っていたらそんなことは言わないんでしょう。しかしそれは卑怯ですよ。勝った側に味方して自分の国の戦死者を悪く言うなんて、それは卑怯です。
戦争というのは誰もやりたくないです。しかし、現在でも戦争は絶えない。どこの国にも戦争はあります。その戦争で自分の国の人が苦労した、命をかけた、その人たちを尊敬しないことに、私は賛成しない。
私は日本へ来るたびに靖国神社にお参りに行きます。
「靖国神社に来て下さい」と日本の兵隊さんは言っていましたから。
人間の魂があるのかないのかはわからないけれど、彼らは死ぬ前にそう言っていたからね。・・・
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昭和63年4月26日、イナボさんは娘と姪を連れて日本にやって来ました。天皇陛下が御病気なのでパラオからお見舞いに来たのです。
4月29日の天皇誕生日には皇居参賀し、日の丸とパラオの国旗をちぎれんばかりに振って「天皇陛下万歳」と何度も唱えました。
イナボさんは「陛下のお元気な声を聞けて、安心して帰れる」と言い、皇居外苑の楠公さんの銅像に参り、靖国神社に参拝しました。
 
「日本で大切なものが四つある。御皇室と靖国神社と桜と富士山だ。これを忘れたら日本は日本ではなくなる」
かつて日本の教育を受けたイナボさんはこう言ってパラオに帰っていきました。
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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