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教育勅語
二、 我ガ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ、
(大意) (国民は「忠」と「孝」の道を歩みましょう) 二・一 忠孝の本源 前回において、我が肇国(ちょうこく・国の始まり)の宏遠(こうえん)なること、国民は万世一系(ばんせいいっけい)の天皇を奉戴(ほうたい)し、歴代の天皇は至仁(しじん・至高の仁愛)の徳を垂れ給へることを述べたり。 かかる國體(くにがら)なれば、国民の精神もまた他の国民と異ならざることを得ず。我が国民は、古来より至仁の皇室を戴くを以て、至誠を尽くしてこれに仕ふ。ただ一時の権勢に屈服して心中不満を抱くごとき他国の君臣関係とは、大いにその趣(おもむき)を異にす。 日本国民の皇室におけるは、孝子の親(おや)に事(つか)ふると一(いつ)なり。わが国にては忠孝一本なり。われらの祖先は、万世一系の天皇に仕へまつり、われら子孫も、この心を以て天皇に仕ふ。これ、祖先の名を辱(はずか)しめず、その霊を安んずるものにして、親(おや)に事(つか)ふるの道、これより大なるものなし。祖先の心を心として君に仕ふるは、忠にして、同時に孝なり。 (大意) 第一回におきまして、日本の建国の理想の素晴らしさや、国民が万世一系の天皇をいただいていることや、歴代の天皇は慈愛の心で国民に接してこられたことを、お話ししました。 日本はこのような国柄ですから、国民の精神もまた、ほかの国とは異なっております。 日本の国民は、大昔から、慈愛に満ちた皇室のもとで暮らしておりますから、誠をつくして皇室にお仕えしてきました。 一時の権力に抑えられて、内心不満をもちながらも表面上従っている他国の国民とは、まったく異なっております。 日本の国民が皇室や国家に対してもつ「忠(忠義/国に尽くす気持ち)」は、子供が親に対してもつ「孝(孝行/親に優しくする心)」と同じです。 すなわち、日本における「忠」と「孝」は、一体のものなのです。 われわれ日本人の先祖が万世一系の天皇と国家にお仕えしてきたのと同じような気持ちで、子孫のわれわれも天皇と国家のために力を尽くしております。 これは遠い先祖の名に恥じず、先祖を安心させる行いであり、最大の親孝行でもあります。 先祖の心と同じ心をもって、天皇や国家のために働くのは、「忠」であるとともに「孝」でもあるのです。 二・二 忠とは何ぞや 「忠」とは、純粋至誠の心より天皇に仕へんとして発する高尚なる道徳的感情う謂(い)ふ。我が国民は、神代(かみよ)より今に至るまで、大和(やまと)民族の存在する限り、この感情に生(い)く。これ、史上幾多(いくた)の忠臣を出せる所以(ゆえん)なり。 左に忠臣の例を挙(あ)ぐ。 (大意) 「忠(忠義/国に尽くす気持ち)」とは、欲得抜きの純粋な気持ちで天皇や国家のために尽くそうという気高く道徳的な感情です。 日本の国民――大和民族――は、神代から現在にいたるまで、この気持ちを持って生きてきました。 これが、日本の歴史において数多くの忠臣が出た理由です。 ①田道間守(たじまもり)と非時香菓(ときじくのかぐのみ) 田道間守は(第十一代)垂仁(すいにん)天皇に仕ふ。九十年春二月、天皇、田道間守に命じて、常世国(とこよのくに)に遣はして非時香菓=(橘)を求めしめ給ふ。九十九年秋七月、天皇、纏向宮(まきむくのみや・奈良県磯城郡)に奉ず。時に御年百四十歳。冬十月、菅原伏見(すがはらのふしみ)陵(奈良県天辻町)に葬る。明年春三月、常世国より帰り齎(もたら)せるものは、非時香菓八竿八縵(やほこやかけ・大量)なり。 天皇すでに崩ずるを聞き、田道間守、悲泣きして曰く「命(めい)を天朝に受けて、遠く絶域(ぜついき)に往(ゆ)き、万里の浪(なみ)を踏んで、遥かに弱水(よわのみ)を渡る。常世国は神山の秘区(ひく)にして、往来の間、自ずから十年を経ぬ。あに独り本土に向はんを期せんや。今、天皇崩ず、復命するを得ず。臣、生(い)くともまた何の益(えき)あらむや」と。 すなはち、天皇の陵(りょう)に至り、叫(きよう)こくして自死す。群臣、聞いて皆な田道間守の至情に感じ、涙を流したりといふ。 田道間守のごときは、君を思ふの赤誠(せきせい・まごころ)より、他に何ものも心に抱かざる者と云ふべし。 (大意) 田道間守は第十一代垂仁天皇にお仕えした人です。 垂仁天皇は田道間守に、常世国(大陸)に行って非時香菓(ミカン・ユズ・キンカンなどの柑橘類)を求めてくるように命じられました。 十年して田道間守は、非時香菓を得て帰ってきましたが、その前年に垂仁天皇は崩御しておられました。 これを聞いた田道間守は悲しみ嘆いて、 「非時香菓は遠い遠い国にあるため、往復に十年かかってしまいました。帰ってみると天皇はすでに崩御され、お見せすることができません。もはや生きている意味もありません」 ――と述べ、天皇のお墓に詣でて、泣きながら死んでしまいました。 ひとびとはみな、田道間守の気持ちに感じいって、涙を流したと言われます。 田道間守のような人は、天皇を思う気持ち以外の気持ちをまったく持っていない純粋な人だと言えるでしょう。 垂仁天皇陵と田道間守の墓
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2012年06月25日
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6月22日の朝日新聞には、原子力基本法に安全保障に資すると文言を入れる法改正が成立したことを受けてこのように書いています。
「朝鮮日報は1面に「日本ついに核武装への道を開く」との見出しで記事を掲げ、今回の法改正で「事実上、核の軍事的開発を可能にするのではないかとの憂慮が出ている」と指摘。東亜日報も1面で原子力の軍事的利用と核武装への道を開いたとの分析が日本国内からも出ていると伝えた」。
韓国紙が言う日本国内から核武装という声の代表格が朝日新聞であります。
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原子力基本法―「安全保障」は不信招く
原子力基本法に「我が国の安全保障に資する」という文言を入れる法改正が成立した。核兵器開発の意図を疑われかねない表現であり次の国会で削除すべきである。
原子力政策の憲法ともいえる基本法は、1955年に定められた。原子力の「平和利用」を旗印に「民主、自主、公開」の原則を掲げている。そこには被爆国日本の体験を踏まえ、核兵器開発だけには手を染めないという戦後の決意があった。
その変更が衆議院では議案を提出した日に可決、5日後に参議院でも決まってしまった。
それも、民主、自民、公明3党の合意をもとに原子力規制委員会設置法を成立させたとき、その後ろにある付則のなかで、上位法である基本法を改めるというやり方である。
「安全保障」という言葉は、日本語でも英語でも「国家の防衛」という意味がある。そして原子力発電の技術は核兵器と密接な関係にある。核兵器を決して開発しないという日本の信用を傷つけぬように努めなくてはならない。
参院環境委員会で推進した議員は、「安全保障」は核物質の不正転用を防ぐ国際原子力機関(IAEA)の保障措置などを指す、と説明した。もしそうなら「保障措置」と書けば済む。それをなぜ「安全保障」としたのか。 この言葉が加わった第2条には、原子力の利用は「平和の目的に限り」という文言がある。 だが、日本が核兵器の材料になるプルトニウムの保有国であり、それをさらに生む核燃料再処理にこだわっている現状を見れば、国際的には別の意味合いを帯びる。
日本には核兵器開発能力があり、潜在的な核抑止力を持つという一部の考え方を後押ししかねない。そのような発想から離れない限り、世界から核の危険はなくならない。
我が国の安全保障に資する、という文言は08年にできた宇宙基本法にもあった。
今回、これに沿って宇宙航空研究開発機構(JAXA)法も駆け込みで改正された。JAXAの仕事を「平和の目的」に限るという条件を緩めたのである。
福島第一原発事故で科学技術に対する信頼が弱まるなかで、その暴走を食いとめる必要を多くの人々が感じている。 それなのに、原子力、宇宙開発といった国策に直結する科学技術に枠をはめる法律が、国民的な議論をせずに、変えられていく。見過ごせぬ事態である。 (2012.6.22 朝日新聞)
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原子力基本法に「安全保障」と書き込んだだけで騒ぎだした朝日新聞。それに呼応して韓国も核武装だと言い出すと、朝日新聞は「ほら、韓国も核武装だと言っているぞ。こんなものは次の国会で無くしてしまえ」とチョウニチ新聞こと朝日新聞が言っています。
朝日新聞は「日本には核兵器開発能力があり、潜在的な核抑止力を持つという一部の考え方を後押ししかねない。そのような発想から離れない限り、世界から核の危険はなくならない」と書いています。
核保有国に囲まれ、核保有国に脅されている日本としては、核抑止力を持つという考えは国際的に見ても当然であります。この状況においても「核兵器を開発しない」日本には信用どころか不信にすら感じることでしょう。
アメリカの核の傘が破れ傘である以上、自分の国は自分で護るという当り前の考えからも、現実的な抑止力として核武装は必要なことであります。日本は攻撃できる通常兵器の増強も喫緊でありますが、やはり核は別格です。それを持つと持たないでは外交の発言での重みも違うのは皆さんも承知のことでありましょう。
しかし日本は今まで外交の裏付けとして軍事力ではなく経済力で外交をしてきた面があります。ただこの財布外交では金だけ取られて感謝もされずに、ただただ国民は働きアリの如く働いて、その稼いだ金を税金で巻き上げられ、その血税を日本に文句や言いがかりをつけてくる国に差上げるという、まるで属国のような日本の姿に気づきはじめ、いい加減にしろ!という日本国民が増えてきているのも事実です。
「日本には核兵器開発能力があり、潜在的な核抑止力を持つという一部の考え方を後押ししかねない。そのような発想から離れない限り、世界から核の危険はなくならない」とあります。
しかし世界で核の危険をばらまいているのはどこの国でしょうか朝日新聞。
それは朝日新聞本社内になぜか東京支局がある人民日報の国、支那なのです。
他人の命を何とも思わない支那は、過去40回以上も核実験を行い、しかも事前通告もせずに、最も危険なメガトンクラスの地表核実験を行い、ウィグル人の多くの国民を殺し、日本もほぼ全員がすでにストロンチウムを被っている(放射能防護学の高田純先生の著書より)ということです。にもかかわらず人体に影響のない福島原発で大騒ぎしている日本人はどうかしています。
核の危険がなくならないと言うならば、朝日新聞の宗主国である支那に直接言うべきでありましょう。
「福島第一原発事故で科学技術に対する信頼が弱まるなかで、その暴走を食いとめる必要を多くの人々が感じている」
福島第一原発は、大地震の際にすぐにP波を感じS波が来る前に自動停止して自動冷却が出来ていました。つまり技術的には何の問題もなく暴走は何もしていません。問題は単に想定が甘かっただけでした。科学技術に関して問題があるとしたら国の予算が少な過ぎることでありましょう。
「国民的な議論をせずに」と朝日新聞は書きますが、核武装の国民的議論を封じてきた張本人である朝日新聞が「国民的な議論」とはちゃんちゃら可笑しい話であります。
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