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「我が国のために 尽くした人々のみたまは 国自ら永久に お祀りすべきである」
明治2年の明治天皇の靖国神社御創建の誓詩であります。
大東亜戦争後、GHQの神道指令により靖国神社は一宗教法人になったままです。 英霊たちは家族のため、子孫のため、御国のために命を捧げたのです。
今を生きる日本人は、早く神道指令を破棄して、靖国神社を国が護持し、総理大臣が毎年参拝して慰霊と感謝を捧げることが御国のために亡くなった方々への務めであります。
御国のために戦って亡くなり、戦友と靖国で会おうと言い、靖国に祀られると信じていたのに、国に悪者扱いされて見捨てられるのが今の日本なのです。
日本人は行き過ぎた個人主義で他人、先人たちの気持ちや叫びが全くわからなくなってしまったのでしょうか。・・・
「一人でも無事ならば私達の最後の状況をいつの日か同胞に知らせていただきたい」
それは戦後、連合国軍によって身に覚えのない罪で虐待され、処刑された先人の残された言葉です。そのような中でも、堂々と振る舞い、そして散っていった武人らしい行動も、我々日本人として立派な先人を誇りに思い、忘れてはならないものであります。 前田利貴大尉は加賀藩始祖である前田利家の末裔で、華族の長男であり、学習院から法政大学に入り、学生時代に世界一周もするなど、名誉も地位もある裕福な家庭に育ちました。馬術が得意で学生時代優勝もあり、次期オリンピックの出場予定候補でもありました。卒業後は三井物産に勤務しました。
昭和23年4月29日、インドネシアのティモール島クーパン収容所で行われた裁判において前田利貴大尉は死刑を宣告されました。前田の罪状はティモール島及びサウ島で逮捕した捕虜に拷問を加えて死に至らしめた「現地人拷問致死」という全く身に覚えのないものでした。
裁判においては原住民、特にサウ島民の多くが最後の公判の時まで前田のために有利な証言をし、嘆願も続けました。それは前田のサウ島警備隊長時代の人徳であったのでしょう。
インドネシアにおけるオランダ人の日本人捕虜への虐待は“復讐”を極めたものでした。
日本人捕虜たちには犬や猫の物真似をさせたり、夜中に突然起こしてコンクリートの上に2時間も座らせられて罵詈雑言を浴びせたり、日本人同士の殴り合いをさせたり、床の上にばら撒いた飯粒を這いつくばって食べさせられたり、日本人捕虜たちは半死半生の屈辱に耐えていました。
それでも日本人たちは、「我々はどうせ死ぬのだ。この虐待は我々一身に引き受け、同胞の人に少しでも虐待の及ばぬように。と申し合わせ神に祈っている次第です」と励まし合っていました。
前田も最後まで誇りを失わずにいました。死の前日に、残る死刑囚たちに世話になったお礼の手紙を書き、「私の希望として検事に申し出たこと」として次のように書いています。
親愛なる皆様、先ほどは御親切な御激励の辞をいただき厚く感謝いたします。
今まで遺書の清書をしておりましたので御返事が遅れて申しわけありません。 我々は兄弟以上の間柄でありました。一本の煙草も分けて吸い、助け合い激励し合ってきましたが、いよいよ私達二人先発することになり、今までの御厚情に対し深く感謝いたします。 私の最後の希望としてもし四人の中一人でも無事ならば、私達の最後の状況をいつの日か同胞に知らせて頂きたい。私の最後の申し出として、 1.目かくしをせぬ事 2.手を縛らぬ事 3.国歌奉唱、陛下の万歳三唱 4.古武士の髪に香をたき込んだのに習い香水一ビン (之は死体を処理するものに対する私個人の心づかいであります) 5.遺書遺髪の送付 以上全部承認 当日の私の決心は、自動車から降りたら裁判長並びに立会者に微笑とともに挙手の礼をし、最後の遺留品として眼鏡を渡し、それから日本の方を向いて脱帽最敬礼、国歌奉唱、両陛下万歳三唱、合掌しつつ、海ゆかばの上の句をとなえつつ下の句を奉唱し、この世をば銃声とともに、 はい さようなら。 という順序に行くつもりで、 私のような凡人に、死の直前に歌が唄えるかどうか、これが最後の難問題だと思います。
皆様に対し遺留品として糸、針、古新聞、本、マッチその他手拭、歯ブラシ、衣類なんでも申し出に応じます
前田大尉は一緒に処刑される穴井秀夫兵長に対しても細かな注意を与えています。 「穴井君、左のポケットの上に白布で丸く縫い付けましたか」
「はい、今日の明るい中につけて置きました」 「白い丸がちょうど心臓の上になるのだ。明日は早いから目標をつけて置かぬと弾が当たりそこなったら永く苦しむだけだからね。それから発つ時、毛布を忘れないように持って行きましょう。死んだら毛布に包んでもらうのです。それでないと砂や石が直接顔に当たって、ちょっと考えると嫌な気がするからね。死んでからどうでもよいようなものも、せっかく毛布があるんだから忘れずに持っていきましょう」 昭和23年9月9日、午前5時45分 翌朝早く二人は書き置いたとおりの手順と態度で銃殺されました。大きな声で歌を歌い、2人何か言葉を交わして笑い声をあげた直後、銃撃音が響いたといいます。
前田利貴大尉31歳、穴井秀夫兵長30歳でした。
今まで虐待してきたオランダ人兵士たちは笑って死んでいく日本人に解けない顔をしていました。
翌日も水浴に行くオランダ兵隊やその家族たちは、いつもと違って日本人をじっと見ていました。 日本人たちは2人の立派な最後に、日本人としての誇りと肩身の広い思いがして久々に晴々しい気持ちになりました。
「死刑は上等か、死刑は怖くないのか」と剣をつきつけ、日本人を揶揄し、馬鹿にし、軽蔑していたオランダ兵隊たちが何も言わなくなり、今まで意地の悪かった兵隊たちの態度も変わりました。 これは両人の最後がいかに立派であったかを物語るものでした。あれほど続いていた収容所内での虐待が、その時以来なくなったのです。
「国のため棄つる命は惜しまねど 心に祈るはらからの幸」
「身はたとえ南の島に果つるとも 留め置かまし大和魂」
前田利貴大尉の遺された歌です。
前田が弟に宛てた遺書にはこう書かれていました。
「兄が死の判決を割合に平然と受けることが出来たのは、之全く御両親の御教養の賜に外ならず、之を見ても我々の御両親は我々が知らぬ間に人間最大の修養をちやんとして居て下さつたのだ。今となつては其の高恩を、何一つ御報いすることが出来ないのは、ざんきに耐へない」 ・・・・・・・
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