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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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台湾人医師の直言  林 建良 著



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日本よ、こんな中国とつきあえるか?(十八ノ一)靖国を政治ショーの舞台にしたエセ台湾人
よりつづきます。


4.靖国を政治ショーの舞台にしたエセ台湾人


●親中反日派の手引きで反靖国活動に乗り出した高金素梅

高金素梅は、いつの時点から、あるいはどのような動機、目的から、今回の行動に出たのであろうか?


台湾の週刊誌「新新聞」の記事(二〇〇三年六月、八五一号)によると、彼女は、「二〇〇二年、台湾を訪れた日本人に、日本に虐殺された原住民の子孫がなぜ靖国神社に参拝するのかと聞かれてから、関心を持ちはじめた」「台湾大学教授の許介麟とその日本人妻藤井志津枝や、尹章義、夏鋳九と彼らの日本の友人の協力でやっと事件の経緯を理解した」と語っているが、その「台湾を訪れた日本人」とは誰なのか? 雑誌に名前が上がっている許介麟、藤井志津枝、尹章義、夏鋳九はすべて親中反日派である。靖国問題に関心も知識もなかった彼女が、反日派の手引きでこの訴訟にからんできた構図が浮かび上がってくる。


こうした反日左派の誘導によって高金素梅が日本で反靖国活動を開始したのは、二〇〇二年八月からである。同月一二日、彼女と戦歿原住民の遺族と自称する張雲琴華は、民族衣装に身を包んで靖国神社におもむき、原住民の合祀取り下げを要求した。この張雲琴華は、高金素梅の側近である張俊傑の妻である。高金素梅らは原住民の踊りと歌で、「罰当たり」なパフォーマンスを神前でおこなった。


そして彼女は、「私たちの先祖が高砂義勇隊に参加したのは志願によるものではない」「台湾人は死んだあとも日本人に抑圧されなくてはならないのか」とメディアに語っている。彼女が用意した声明には、「戦争を起こした者と戦争の被害者が一緒に祀られることで、歴史が歪められている」「日本軍は一九一〇年から一九一五年までのあいだ、原住民を大量に虐殺したうえに、生き残りや子孫たちを高砂義勇隊として強制的に徴兵し、南洋に送って弾丸の的にさせ、灰塵に帰させた。二代滅族の重罪だ」とあった。


その後、彼女は終戦記念日の八月一五日に、大阪でおこなわれた「第一七回アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」(佐治孝典委員長)に参加している。この左翼の集会のテーマは「戦争と靖国」である。この「心に刻む会」とは、「靖国神社を支えてきた日本の民族的エゴイズムを内部から打ち破る」ことを目的とする会で、毎年、終戦記念日前後に日本の「侵略の犠牲者、加害者」を証言者として招いて集会をおこなっている。


この会は一九八五(昭和六〇)年の中曽根康弘首相の靖国神社参拝をきっかけに発足したものだが、中国政府がそれまでおこなわなかった首相の靖国参拝批判を突然開始したのがこの年だから、中国の反日戦略に相呼応するかたちで組織されたのだろう。この会が「南京大虐殺」や「三光作戦」などをテーマとする中国の反日宣伝や、中国人による戦後補償要求など、中国政府の戦略と軌を一にしていることは確かである。このような会と高金素梅は、いかなる接点があったのだろうか?


それからもう一つ触れなくてはならないのは、彼女の靖国訴訟を支援する「小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟団」である。彼女の起こした裁判の原告には一〇〇人以上の日本人も含まれているが、そのなかには中核派、日本労働党、革命的共産主義者同盟のメンバーや、これら極左グループと提携する左翼知識人らが名を列ねている。高金素梅と彼らは、なぜ手を携えるようになったのか?


「小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟団 大阪訴訟ホームページ」に掲載された「ニュース第七号」(二〇〇二年一〇月一五日)は、高金素梅が反靖国活動に乗り出した経緯を次のように伝えている。


「心に刻む会」が毎年開催している「8・15」のつどいが、今年は「靖国」特集ということで、われわれ訴訟事務局に声がかかったのが、さる五月末ごろだったと思う。打ち合わせに行ってみると、靖国に合祀されている韓国や沖縄の遺族は招くことになっているが、台湾からもぜひ呼びたい、ついては知り合いとかルートはないだろうかという話になった。六月にたまたま別件で台湾に行く機会ができた。(中略)一度「原住民部落工作隊」に行って聞いてみたらと勧められ、一緒に訪問することになった。それから約一カ月が経過した。台湾から電話である。遺族に会えそうだという。(中略)少数民族出身の立法委員(国会議員)も会いたいという連絡もあった。


この「少数民族出身の立法委員」が高金素梅である。また、「原住民部落工作隊」とは、表向きは原住民の権利の向上を目指すグループだが、高金素梅の背後で動いている組織でもあり、最近では日本の左翼グループとの交流もあるようだ。つづけて訴訟団事務局は、こう語っている。


早速二名行った。立法委員の事務所でお互いに挨拶し打合せ後、遺族の待つ新竹県の山中に行く。(中略)こうして「8・15」集会に遺族や立法委員の招待が現実のものとなると同時に、遺族が靖国神社を合祀取り下げに訪問するということが実現したのである。


この「ニュース」を読むかぎり、高金素梅の来日のきっかけは、「心に刻む会」から、第一七回集会に韓国人だけでなく台湾人も参加させて、内容により説得力を持たせたいとの希望を受けた訴訟団事務局が、台湾の「原住民部落工作隊」に話を持ちかけたことだったようだ。この話に乗った彼女は、この集会に参加して合祀取り下げ要求もおこなうことになった。靖国神社社頭での「合祀取り下げ要求パフォーマンス」も、日本人に入れ知恵されたと思われる節がある。高砂義勇隊にも靖国神社にも無知だった彼女が、日本の左翼の誘いに飛びついて反靖国活動を開始したことは、疑いないようだ。

スキャンダルまみれの国会議員

高金素梅の母親は台湾原住民のタイヤル族だが、父親は戦後、台湾に渡ってきた中国人軍人(外省人)である。中国人軍人は台湾人を大量に虐殺した「二・二八事件」の加害者としてのイメージが強いため、台湾人に敬遠された。B介石政権に厳しく抑圧されていた当時の台湾人は、陰で中国人を「阿山仔」(唐山=中国からきた奴)や「猪仔」(豚のように食い散らす奴)と呼んで鬱憤を晴らしていた。


あの時代は、無実の台湾人が刑務所に入れられ、処刑される例が山ほどあった。憲兵は白いヘルメットをかぶっていたから、この恐怖政治は「白色テロ」と呼ばれた。B介石独裁政権の恐怖政治に加担した中国人軍人は、台湾人に嫌われて台湾社会では浮いた存在となった。その分、彼らは中国人意識が強く、人生の大半を台湾で過ごしながら、台湾人ではなく中国人であると強く主張している。そのために台湾で生まれ育った彼らの子供たちも、台湾人としての意識は薄い。だから、彼女が強い中国人意識を持っていたとしてもなんら不思議ではない。


芸能人を目指していた彼女は、台湾中部の「青年高校」(演劇科)卒業後、すぐ芸能界に入り、映画やテレビドラマに出演し、歌手としても活躍した。しかし、芸能活動よりもスキャンダルが彼女を有名にした。数々の不倫騒動から「誹聞天后」(スキャンダル・クイーン)という不名誉なあだ名をマスコミに付けられ、しばしばワイドショーや週刊誌のネタにされた。


こうして有名になった彼女は芸能界にとどまらず、ビジネスにも精を出したが、トラブルの連続だった。一九九六年に彼女が所有するウェディングドレス店「梅林新娘会館」で火災が起こり、何人かの死傷者を出した。不審な点が多かったため、犯罪がからんでいるのではないかと台湾の司法当局が調査に乗り出したほどである。


タレント時代の彼女は、「金素梅」の名前で芸能活動をおこない、原住民の身分を隠していた。比較的当選しやすい原住民枠で立候補するため、彼女はタイヤル族である母親の苗字を加えて、高金素梅と名乗ったのである。選挙キャンペーン中、彼女は台湾原住民の民族衣裳をまとい、顔に刺青模様のペインティングを施し、派手なパフォーマンスで話題を呼んだ。素朴な原住民には決して真似のできない振る舞いと得意の演技で、高金素梅は国会議員の座を手に入れたのだった。しかし、彼女のスキャンダルは、国会議員になってからもやむことなく、相次ぐ不倫の噂にマスコミは彼女を「情欲立委」(欲望に溺れる国会議員)と呼んだほどだ。


このような人間が台湾人を代表しているかのように振る舞って靖国訴訟を起こしたことは断じて許してはいけないのだ。





高金素梅(こうきん そばい)は台湾の歌手・女優・政治家ですが、現在は中華民国立法委員で、所属政党は無党団結聯盟。中国北京市中央民族大学に留学。台中県和平郷谷関在住。芸能人時代から現在の立法委員に至るまで、数々の不倫騒動から「誹聞天后」(スキャンダル・クイーン)のあだ名をマスコミに付けられたいわば、札付きの人間です。

筆者は高金素梅を許しません。護国の神を侮辱する最低の人間です。


続く・・・

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台湾人医師の直言  林 建良 著



日本よ、こんな中国とつきあえるか?(十七)中華民国は「シナ共和国」であって台湾ではないより続きます。


4.靖国を政治ショーの舞台にしたエセ台湾人


●靖国問題で訴訟を起こした台湾の女性国会議員

靖国問題は百パーセント日本の内政問題である。日本の内政問題である以上、いかなる外国の団体や個人も、靖国問題に干渉する資格はない。戦後、台湾人はこの日本に対する礼節を守ってきた。


ところが、二〇〇三(平成一五)年二月一七日、台湾の原住民枠で選出された高金素梅・立法委員(国会議員)と彼女に同調する台湾人が、小泉純一郎首相の靖国神社参拝によって苦痛を与えられたとして、訴訟を起こした。その原告団には日本人も含まれていた。二月一七日の朝日新聞夕刊に「台湾戦没遺族ら提訴│『精神的苦痛』と国など」の見出しで以下のように報道された。


小泉首相が今年一月を含めて三年連続で靖国神社に参拝したことに対し、台湾人一二四人を含む二三六人が十七日、「首相の参拝で精神的苦痛を受けた」として国などを相手に一人あたり一万円の損害賠償を求める訴えを大阪地裁に起こした。小泉首相の靖国参拝をめぐっては〇一年夏の最初の参拝に対し、韓国人を含む戦没者遺族らが東京、大阪、福岡など六地裁で違憲確認などを求めて争っているが、今年の参拝をめぐる提訴は初めて。


この日提訴した原告のうち三十四人は台湾の先住民族で、うち十二人は第二次大戦中に「高砂義勇隊」として日本軍のために戦って命を落とした隊員の遺族。同義勇隊は旧日本軍が作業要員などの名目で募集したが、実際はフィリピンやニューギニアなどに送られて実戦に加わり、犠牲者も多かった。遺族に死亡通知が届かず、いまだに行方不明扱いになっている例もあるという。


遺族ら原告は訴状で、「首相の参拝は、国が特定の宗教団体を支援している印象を与えるもので、政教分離を定めた憲法に違反する」と主張。さらに「首相の参拝によって、それぞれの立場から戦没者に思いをめぐらせる民族的自己決定権などが侵害された」として、国と小泉首相本人、靖国神社の三者に対し、連帯して総額二三六万円の慰謝料を支払うよう求めている。


朝日新聞の記事は、台湾人が主体となってこの訴訟を起こしたような印象を与える。一台湾人として私は、これは本当なのか、と直感的に疑問を感じた。なぜなら、歴史問題にケチをつけて他国をゆするやり方は、過去に執着しない大ざっぱな台湾人の国民性にそぐわないからである。


一九四七(昭和二二)年に起こった台湾人虐殺事件「二・二八事件」では、B介石政権は前途有望な台湾人エリートを三万人以上も虐殺した。しかし、虐殺を実行した責任者たちはその後も政府機関にとどまり、現在も悠々とした生活を送っている。しかし、台湾人はこの民族粛清とも言える虐殺事件の加害者たちの責任を追及したことはない。

このようなずぼらな台湾の国民性だから、歴史から教訓を学ばず、同じ過ちを何度もくり返してしまうのだが、明るく寛容な台湾社会もその国民性から生まれたと言えよう。これは執念深い大陸民族の中国人との決定的違いなのである。にもかかわらず、戦後五八年も経って、台湾人が靖国訴訟を起こしたというニュースを聞いた瞬間、私は「本当に台湾人なのか?」と疑問が湧き、訴訟の経緯を検証する気持ちになった。

●多くの原告は訴訟のことを知らなかった


何とか訴状の副本を入手してみると、驚くべきことに原告となっている何人かの台湾人の住所は、台湾に存在しない架空のものだった。これらの原告は実在しないのであろう。また、同じ住所の原告は一一組、二六人もいる。それは、一一世帯から複数の人間が原告となったようだ。しかし、大戦後、支配者として中国から渡ってきた国民党政権の専制独裁政治で、台湾の法治制度が崩壊したために、司法を根底から信頼しなくなった台湾人は、裁判沙汰を極端に嫌がるようになった。よほど大きな被害でも受けない限り、家族が語らって原告になるというのはきわめて不自然である。


そこで、さらに追跡してみると、何と多数の原告は訴訟のことを知らなかったのである。ある人々は日本政府から賠償をもらえることになったと言われて名前を出したと言い、またある人々は高金素梅主催の集会に参加しただけで、訴訟のことは何も知らされなかったと言っているのである。


靖国訴訟を知っていたのは、彼女の側近や、親中組織「中国統一聯盟」のメンバーぐらいなのだ。訴状の「請求を基礎づける事実」の部分に、「その他の原告らは、かつて日本の植民地支配によって、さまざまな被害を被った者たち、またはその子孫である」と書かれているが、何人かの原告は、戦後にB介石と一緒に中国から台湾に逃げ込んできた者であり、「日本の植民地支配」とはまったく関係がないのである。


私は日本の司法は厳正で信頼性の高いものだと信じていた。しかし、実在しない人物や訴訟の事実を知らされていない人々を原告とする訴訟が受理されるようでは、日本の司法の公正さが疑われても仕方がない。


常識的に考えると、偽りの原告で訴訟を起こすのは、詐欺行為ではなかろうか。この外交問題にも発展しかねない訴訟を、なぜ日本の裁判所は原告の実在と意思を確認せずに受理したのであろうか?


当事者の了承も得ず、適当に名前をかき集めて靖国神社を提訴した高金素梅の態度からみても、小泉首相の靖国神社参拝に苦痛を感じたと主張する彼女が真剣にこの問題に取り組んでいるとは思えない。彼女の活動は主に派手なパフォーマンスでマスコミの目を引く手法である。彼女は今回も気軽な気持ちでこのパフォーマンスを演じたのであろうが、この問題の背景には根の深いものがある。







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コメント等は、(十八ノ二)にお願いいたします。


(十八ノ二)に続く・・・

三笠宮親王殿下ご退院

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妃殿下に付き添われ、聖路加国際病院を退院あそばされる三笠宮親王殿下 御尊影=31日午後、東京都中央区
 
 
 
 
 
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花束を受け取られ、聖路加国際病院を退院あそばされる三笠宮親王殿下 御尊影=31日午後、東京都中央区
 
 
 
 
心臓の手術を受けられ、東京都中央区の聖路加国際病院に約2カ月半入院しておられた三笠宮親王殿下が31日、ご退院あそばされた。今後は東京都港区の赤坂御用地内にあるお住まいの宮邸におかれまして、リハビリをなされながら過ごされる。
 車いすで病院から出られ、報道関係者から「退院おめでとうございます」と声をかけられると、穏やかな表情で手を振って応えあそばされ、病院関係者から花束を受け取られた。連日見舞いに訪れていた妻の妃殿下が付き添われ、一緒に車に乗り込まれた。
 
三笠宮(みかさのみや)は、大正天皇の第4皇子崇仁親王の宮号である。
三笠宮の宮号は、昭和10年12月2日に崇仁親王殿下が成年式を行った際に賜ったもので、阿倍仲麻呂の和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」に出てくる奈良の三笠山にちなんで命名あそばされた。同時に大勲位に叙せられている。
 
 
 
三笠宮親王殿下におかせられましては、幾久しく、お健やかであられますよう祈念いたします。
 
 
 
 
 
三笠宮親王殿下 萬歳 萬歳 萬歳
 
 
 
 
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「埴生の宿」をご存知でしょうか?
土で造った粗末な家でも、我が家が一番よい、という意味です。これも教科書から消された唱歌のひとつです。
 
大東亜戦争末期、日本軍の一隊がビルマからタイへ逃れようとして山中をさまよいます。
隊長は音楽学校出身なので常日頃、部下に歌を教えコーラスの指導をして軍隊生活を慰めていました。伴奏は水島上等兵手づくりの「ビルマの竪琴」。水島は演奏の名手でした。
 
ある小さな部落で野営している夜、敵軍のイギリス兵に囲まれました。戦闘準備をする時間稼ぎに「埴生の宿」のコーラスを歌って、いざ出撃しようとしたその時、敵のイギリス陣からも同じ歌の英語のコーラスが聞こえて来ました。それは「埴生の宿」の作詩はアメリカ人ですが、作曲はイギリス人。明治初年から日本では学校の唱歌として歌われてきました。
包囲したイギリス兵と包囲された日本兵。 敵・味方の兵士が一曲の歌によって互いに感じ入ったのでした。
 
その後、戦争終結。しかしまだ戦おうとする三角山の日本軍に投降を勧めるために、水島上等兵が派遣されましたが、失敗して瀕死の重傷を負います。水島はビルマ僧に助けられ、そして変装して遙か遠い南部のムドンの捕虜収容所に向かいます。その途中で水島は恐ろしいものを見ます。山の谷間、ジャングルの中、川辺の泥の中にあった、たくさんの日本兵の屍体でした。
「私は戦友たちをこのまま放置して日本に帰れない。・・・」
水島の苦闘が始まります。屍体埋葬、しかし一人では限界があります。それを見かねたビルマの村人たちが協力してくれます。
 
「日本の兵隊は実に勇敢でした。イギリス軍には立派な武器があり、多くの飛行機もありました。しかしイギリス軍の略奪や婦女暴行は相当にひどかった。それに比べて日本の兵隊は軍律が厳しく婦女暴行は全くなかった。そして日本の兵隊は銃剣一つで立ち向かっていきました。あの勇敢さと軍律のきびしさを我々は今でも尊敬しています」
これが現地の人々に今も伝わる日本兵の勇姿です。
 
さて、捕虜収容所では水島の帰りを願って毎日コーラスを歌いました。声がかれるまで歌いました。
隊長は物売りのおばあさんが持ってきたインコに言葉を教え、それを水島にと おばあさんに託します。 しかし、水島は帰って来ませんでした。
 「水島! 一緒に 日本に 帰ろうよー」、と彼らは叫び続けました。
 
やがて、日本へ送還の日程が決まります。毎日、コーラスで水島に呼びかけますが姿を見せません。
そしてある日、ビルマの少年を連れた水島が現れ、静かに「惜別の曲」を演奏し、森の中に姿を消しました。水島の心中を察した隊長は黙って見送りました。
 
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輸送船内で隊長は、水島の心情が書かれている長い手紙を読みます。
「ビルマの土は赤い・・・」
・・・・・・
 
2009年10月25日、タイ北部の街メーソートにて中野弥一郎さんが亡くなりました。享年89歳でした。中野さんは数多くいたと思われる「ビルマの竪琴」の水島上等兵の一人です。
兵士としてインパール作戦に参加し、ビルマからインドのコヒマを攻めたが敗走。3万人以上が戦病死。
 
戦後の昭和20年9月、同郷の友人と捕虜収容所を抜け出しそのままビルマに残りました。
しかし内戦が激化、背中に仏塔の入れ墨をしてカレン族となり、カレン族の難民としてタイ国境を越えました。
 
中野さんのタイの自宅には日本語の新聞や雑誌が積まれ、壁には昭和天皇の御真影と出征前の自身の写真とが飾られていました。
日本には帰らずとも、魂や心は最期まで日本人であり続けたのです。
 
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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