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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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天皇、皇后両陛下 御尊影 皇紀2672年一般参賀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
拙稿をご覧いただいている皆さんは「君が代」を歌ったことがありますか? いつ歌ったかわからないという人が、案外多いと思います。
また君が代」の歌詞すら知らない子供たちが増えているのも事実です。
 国歌というものは、どこの国でも、国の重要な行事や式典で演奏されます。そして国民は誰もが誇りをもって、国歌を歌います。
現在英国で行われているロンドン五輪では、多くの国の国歌が唱えられています。
 
 
 ところが、わが国では、近年まで「君が代」は、学校では、ほとんど歌われてきませんでした。現在も、歌の由来や意味は、ほとんど教えられていないようです。
「日本の常識は、世界の非常識」という言葉があります。この言葉は、国旗・国歌について見事に当てはまります。
 
 
   君が代は 千代に八千代に さざれ石の
         いわおとなりて こけのむすまで
 
 
 
この歌は、天皇陛下を中心とするわが国が、小さな石が集まって岩となりその上に苔がむすほどまでに永く、平和で繁栄することを願う歌です。
 「君が代」は、10世紀に編まれた『古今和歌集』の「読み人知らず」の歌に由来します。『古今集』では「我が君は 千代に八千代に」と始まる歌でしたが、民衆の間に歌い継がれていくうち、鎌倉時代の初期までには「君が代は」という現在の歌詞に変わっていました。その後、江戸時代には、浄瑠璃や謡にも歌い込まれ、舟歌や盆踊りの祝い歌にも現れました。
 このように1,200年もの間、「君が代」ほど、日本の歌謡として、広く親しまれてきた歌はありません。
 明治時代になって、日本が近代国家となったとき、国歌を定める必要を生じました。明治2年、イギリス軍楽隊のフェントンは、国歌の制定を勧めました。大山厳らは、庶民に広く親しまれてきた「君が代」こそ国歌にふさわしいものとして選び、フェントンに作曲を依頼しました。しかし、西洋的な旋律では歌詞にあわず、宮内省の林広守らにより、日本古来の雅楽の旋法にのっとって作曲され、現在の国歌が出来上がりました。
 日本には、古来より「和歌の文化」があります。万葉集には、天皇陛下から名もなき庶民までのさまざまな歌が収集されています。今日も正月に行われる「歌会始め」においては、国民各層の中から選ばれた歌が宮中で歌われ、これに対し、天皇・皇后両陛下が歌でお応えになります。こうして、昔から身分や立場に関わりなく、国民が歌に思いを表し、歌によって君も民も一つに結ばれているということは、他国に見られない、日本独自の文化です。こうした日本の国の姿が、「君が代」のわずか32文字の中に、表されていると言えます。
 
国歌「君が代」には、「さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで」という歌詞がありますが、岩が小さくなるというのなら分かりますが、小さな石が固まって本当に大きな岩となるのでしょうか?この疑問に答えてくれる「さざれ石」の現物が、岐阜県揖斐郡春日村(いびぐん・かすがむら)に実在するのです。
春日村は、伊吹山や国見峠を間に、滋賀と接しています。村には、伊吹山の登山口にもなっている「さざれ石公園」があります。そこに、岐阜県の天然記念物に指定された「さざれ石」があります。そして、宮城(皇居)・総理大臣・有名神社等に寄贈されています。
 春日村は、「君が代発祥の地」としても知られています。その村に伝わる伝承では、時は平安時代の初め。文徳(もんとく)天皇の第一皇子、惟喬親王殿下(これたかしんのう)は第四皇子(後の清和天皇)に皇太子の座を先んじられ、一時期、近江の小椋郷(永源寺町)に隠れ住まわれました。
 当初、文徳天皇は惟喬親王を推すつもりでいたらしいのですが、第四皇子の生母が摂政を務める藤原氏の出だったことから、これをはばかったと言われています。その非運の惟喬親王が後にお椀や鉢などを作る木地師(きじし)の祖神とされ、小椋郷は彼らのふるさととして聖地のようになっていきました。
 さて、その惟喬親王に仕えていた木地師の一人が、小椋郷の君ヶ畑から良材に恵まれた春日の地へやってきました。あるとき君ヶ畑に向かう途中、今ある公園付近の地でめずらしい石を目にし、それを見たまま感じたまま歌に託しました。
 
 
  わが君は 千代に八千代に さざれ石の
          いわおとなりて 苔の生すまで
 
 
 やがてこの歌は、京の都で評判を呼び、勅撰和歌集の『古今集』に採録されるまでになりました。後に、最初の「わが君は」が「君が代は」に変わり、民衆の間に歌い継がれていきました。
 男は身分が低かったため、『古今集』では「よみ人知らず」として扱われましたが、しかし、やがて名もないこの男が注目を浴びることになります。
 朝廷から歌の才を認められ、石にちなんで「藤原朝臣石位左衛門(ふじわらあそんいしいざえもん)」の称号を賜ったのです。村の中央部に当たる小宮神(こみやかみ)地区には、今も木地師の遺族や系図などが保存され、その一族とみられる末裔(まつえい)が九十余戸も残っているとのことです。
 国歌「君が代」には、由来の伝承があり、また歌詞に読み込まれた「さざれ石」は、実在しているのです。
 
 
声楽家の安西愛子氏は『日本の唱歌』(講談社文庫)で 述べています。
「日本人は昔から単純、素朴なものに美しさを発見してきた民族でした。国旗の『日の丸の旗』は代表的なものです。それと同時に、国歌『君が代』は単純、素朴な中に言い知れぬ美しさを祕めていることを私達は思い返さなければなりません。
 この『君が代』が明治36年、ドイツにおける世界国歌コンクールで1等になったというのも、余り外国のものをほめない英国人が『君が代』を天上の音楽であると言って激賞したといわれているのも、むべなるかなと言えましょう」
 
 
 諸外国の国歌の中には、戦いや自国の優越を歌った勇ましいものもありますが、「君が代」は平和と繁栄を祈る歌であり、古式ゆかしい旋律は、人の心を鎮め、その場の雰囲気を厳かにします。これこそ、平和文化国家と言われる日本にふさわしい国歌だと言えましょう。
 
悠久の昔より歌い継いできた「君が代」・・・
祖先と現世の我々を結び、また子孫にも歌い継いでいかなければなりません。
 お父さん、お母さん、お祖父さん、お祖母さんから、子供や孫へ、「君が代」を歌い継ぎましょう。
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日本は大東亜戦争の開戦時に大量の敵捕虜を想定して15か所もの収容施設をつくりました。
ここには英・米・蘭の将兵30万人を収容し、捕虜を管理する国の責任として彼らに寝具、衣服、食器をきちんと与えました。
当時、日本人の食生活は欧米人に比べて肉類の摂取が極端に少ないものでした。しかし捕虜の食事はその点を配慮し、日本国民の配給を上回る特別配給を続けていました。
 

戦後、占領軍が日本に上陸すると直ちに捕虜キャンプに大量の食料とビタミンを届け、捕虜たちを解放しました。終戦により武装解除された軍隊は戦時捕虜ではありませんが、日本の内地に復員するまで日本将兵は事実上捕虜として扱われました。しかもその扱いは言語に絶するものでありました。東南アジアの最大の収容施設レンパン島でのことです。

 
シンガポール南方のこの無人島に日本兵8万人が移動を命じられました。ここはかつて第1次大戦でドイツ軍捕虜2000人がマラリアで全員死んだ島です。その後もここで民間が開発をしましたが全て失敗し、放棄されてきた島でした。
この島は蛇以外の生き物は少なく、ヤシの木も少ないまさに「死の島」と言われるゆえんであります。
イギリス人はこの「死の島」へ日本兵を地獄に追いやるために移動させたのです。
 
島の施設は全て日本軍の手で建設させました。日本軍はあり合わせの道具と自前の食料を持って、桟橋、道路、倉庫など何から何まで作らされました。
雨期に吹きさらしの甲板に積まれて到着した設営隊は、後続部隊のために掘立小屋を建てながら、約束していたイギリス軍による食料を待っていましたが、島には何も届きませんでした。
日本兵たちの1日分の米は15勺にされ、全員が空腹と栄養失調になっていきました。

彼らは生きるためにあらゆる動植物が食料となるのか試され、毒以外の野草は取り尽くしていました。蛇、サソリ、ムカデ、ナメクジまで貴重な栄養源だったのです。軍医部の報告では主食のカロリーは必要量の3分の1、タンパク質は16グラムに過ぎず、餓死寸前に至ったと書いています。

最重点で取り組んだ開墾から農産物自給が進められ、食糧の生産と採集が行われました。そして、遂に蛇もムカデも取り尽くされて絶滅してしまいました。
 
8万人に餓えが迫った128日、イギリス軍の食糧5000トンが届きました。
しかし、この食料は熱帯で半年も貯蔵され賞味期限どころかイギリス軍が廃棄するような食料を持って来て、しかもわざと日本の記念日である128日まで待たせておいて、この日に日本兵にくれてやったのです。
イギリス、オーストラリア軍の食料は33004200カロリーありましたが、日本兵はこの1食分を3食に分けて食べ、それでも今までの倍の量を食べることができたのです。
 
こういう過酷な状況の中でも日本兵は抵抗もなく、脱走もなく、餓死者も出さなかったのは奇跡であったといえます。命令系統が失われていたので混乱があってもおかしくありませんが、日本兵の秩序は乱れませんでした。白人が「死の島」と言った無人のジャングルを切り開き、飢餓に迫られながらも、しのいだ日本兵。あらゆるものを利用して道路、農地、井戸、貯水池、宿舎、倉庫、司令部、病院まで建設しました。塩、みそ、しょうゆ、石鹸、履物まで工夫して作っていたのです。
ついにはイギリス軍の陰険な策謀は見事に裏切られたのです。世界のどの軍隊であろうとも、敗戦後の極限状態に追い詰められながら落胆し、意気消沈し、絶望に自暴自棄になる状況でも、これだけの統率を取ることができた日本兵は天皇の軍隊、皇軍としての誇りであったといえるでしょう。
 
この白人の陰湿な日本兵への扱いに対して、日本にいた捕虜の扱いはどうであったでしょうか。
昭和20年、戦局悪化の一途の中、我が国の民需が枯渇し、「欲しがりません、勝つまでは」のもと、食べざかりの子供達までお国のためにあらゆることを我慢し、わずかな配給に列をつくって日本国民全体が飢えていた時、敵捕虜に対しての待遇は日本の将兵と同じであったのです。
敵の将兵に妻子に与える2倍の食料を供給し続けたのです。
日本国民が極度の窮乏の中でも戦時国際法は固く守られていたのです。
これこそ白人社会ではあり得ない日本精神であり、武士道でもあるのです。このことはなぜか戦後隠されたままです。
同胞を殺した憎き敵に対しても、我が先人たちの高潔なるの行いを日本人は広く知り、誇ってもいいのではないでしょうか。・・・
 

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                         レンパン島の日本兵抑留の碑        
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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