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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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国宝「鳥獣人物戯画」高山寺所蔵



鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)は、京都市右京区の栂野高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物。国宝。鳥獣戯画とも呼ばれています。現在の構成は、甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻からなり、内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、鳴呼絵(おこえ)に始まる戯画の集大成。
特にウサギ・カエル・サルなどが擬人化して描かれた甲巻が非常に有名である。一部の場面には現在の漫画に用いられている効果に類似した手法が見られることもあって、「日本最古の漫画」とも称されています。


明恵(みょうえ)上人は建永元年、34歳の時、後鳥羽上皇から栂尾山をたまわり、高山寺を開山、華厳宗の復興のために尽くしました。その功績により、華厳宗中興の祖といわれます。 
わが国の天皇は、古来、侵しがたい権威あるものと仰がれてきました。その権威は、天照大神の子孫である神武天皇の血筋を引いており、また天照大神から授けられた三種の神器を持っていることによっています。そして、そそのうえに、天皇が天皇にふさわしい徳を備えていることが、国民の崇敬を集めてきた所以でした。
皇室に対して弓を弾く者は必ず敗けるという観念があったのです。さらにまた、鎌倉武士の間には、尊皇心に篤い頼朝の考えが定着していました。武士たちは、官軍と戦うことに対し、強い抵抗を覚えていました。
これを打破したのが、尼将軍と呼ばれた北条政子であり、政子の弟・北条義時でした。
鎌倉幕府から実権を取り戻そうと、後鳥羽上皇は、討伐の院宣(いんぜん=上皇の命令)を発しました。承久の乱の勃発です天皇陛下ではなく、天皇陛下の周囲の者が悪い。だから、側近を討つことを、「君側(くんそく)の奸(かん)」を除くと、抵抗を正当化した北条義時・泰時父子は、武士団を指揮して官軍と戦います。幕府は官軍を連破し、泰時は出発後20日目には京都に入りました。この勝利によって、皇室に刃向かう者は必ず敗けるという古来の観念は破られました。義時・泰時は、後鳥羽院ら三上皇を島流しにし、天皇の周囲の有力者を除いて、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇を擁立しました。
臣下が天皇を力づく替えてしまうというのは、前代未聞の暴挙でしたですから承久の乱は、日本の国柄を考える上で、非常に重要な事件でした

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明恵上人



承久の乱の時、後鳥羽上皇方の兵が、高山寺に逃れてきました。明恵は、彼らをかくまいました。そのため北条側にとらえられたのです。この時、明恵上人は泰時に対し、「救いを求める者は、今後も助けたい。それがいけないというのなら、私の首をはねよ」と言いました。その態度の情け深く、また毅然(きぜん)としていることに、泰時は感心しました。
 明恵上人は、承久の乱の処置について、泰時を諫(いさ)めました。「わが国においては、万物ことごとく天皇のものであり、たとえ死ねと言われても、天皇の命令には決して逆らってはいけない。それなのに、武威によって官軍を亡ぼし、太上天皇を遠島に遷(うつ)すとは、理に背く振る舞いである」と。
国家権力を掌中にした北条氏に対し、ものを言うことのできる者はいませんでした。
しかし、明恵上人は権力を畏れず屈せず、為政者の泰時を叱(しか)り、日本の国柄を説いて武士のあるべき姿を諭されたのです
以後、泰時は明恵を人生の師と仰ぐようになり、善政に努め、厳正な裁判を行い、高位高官を望むこともありませんでした。この泰時によって、頼朝以来の武家政治は基礎を確立したのです。
また、御成敗式目の制定の基礎となる「道理」の思想形勢にも明恵上人は大きな影響を与えたのです。
僧侶である明恵上人がなぜ、わが国は天皇のものであり、泰時らの行為は理に背く振る舞いである、と諭したのでしょうか?
仏教には、王権を認め、国家の鎮護を祈るという教えがあり、明恵上人が修めた華厳経には、すべてをあるがままに肯定するという思想があるのです。
 こうした考え方は、「人はあるべきやうはと云、七文字を保つべきなり」という明恵上人の遺訓に表れています。弟子の喜海が記したと伝えられるこの言葉は、『明恵上人伝記』や『沙石集』では、「王は王らしく、臣は臣らしく、民は民らしくふるまうべきだ」と解釈されています。つまり、王とは天皇陛下であり、臣とは天皇陛下に仕える者、貴族や官僚や武士であり、民とは一般の庶民を指します。明恵上人は、天皇陛下と臣下と庶民、それぞれが分を守って振る舞うことが、自然な姿だととかれたのです。
 この考え方は、明恵上人の独創ではなく、古代から我が国に受け継がれてきた考え方です。鎌倉時代にもそれが当然のこととして、人々に定着していたのです。それは、日本の国は、天照大神の子孫である皇室が治めることが、在るべき姿であると思われていたことが前提となっています。皇室の権威は神話に根ざしたものであり、文字が使用される前の時代から伝わっている神的かつ伝統的な権威なのです。日本人は、この国は皇室が治める国であり、各自が在るきように振舞うことを、自然な姿として受け止め続けてきたのです。
明恵上人は、権力者泰時に対し、「天下を治める立場の者一人が無欲になれば、世の中は治まる」という教訓を与えました。泰時はこれを肝に銘じて、実際の政治に生かしました。泰時は、「自分が天下を治めえたことは、ひとえに明恵上人の御恩である」と常々人に語っていました。自分の家の板塀が壊れて内部が見えるほどになっても気にせず、御家人たちが修理を申し出ても、泰時は無用の出費だと断り続けました。
承久の乱では朝廷から実質的に権力を奪った泰時でしたが、我が国の国柄の根本を損なわぬよう、朝廷の権威を侵さずに、武家政治を行うことに努めたのでした。
強大な武力を持つ権力者に、説教をするということは、並みの度胸ではできません。そこに明恵上人の精神力の強さや人格の高潔さがうかがわれます。


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