|
出雲大社、 神迎祭(かみむかえまつり)
島根県出雲市、国津神、縁結びの神様がいる として知られている出雲大社にて 神迎祭(かみむかえまつり)が旧暦の10月10日にあたる11月5日の夜に神々を迎え入れ、6日から神在祭が1週間行われます 神迎祭・神迎神事とは、その名の通り 神様を迎え入れる神事です。 旧暦の10月は全国的には 神無月と呼ばれますが、島根県出雲地方では神在月 と呼びます。それは、全国の八百万(やおよろず)の神が出雲大社に集結し、1週間滞在され、人々の「しあわせ」の縁を結ぶ会議神議(かみはかり)が行われる為なのです。
天津神は高天原にいる、または高天原から天降った神の総称、それに対して国津神は地に現れた神々の総称とされている。ただし、高天原から天降ったスサノオや、その子孫である大国主などは国津神と言います。「津」は現代語の「の」を意味し、天の神・国の神という意味であり漢字二字で天津神を「天神」(てんじん)、国津神を「地祇」(ちぎ)とも言い、併せて「天神地祇」「神祇」と言います。 日本神話において、国譲りに表されるように、邇邇芸命(ににぎのみこと)を筆頭とする天津神に対する移管を国津神が受け入れたと描かれています。大和朝廷によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神に、皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったものです。 歴代の天皇は天神地祇を祀り、祈られ、民草を「おおみたから(大御宝)と呼ばれ、御国の平安、安寧を祈ってこられました。 敵も味方もない寛容な施政でありました。 わが国は、死者を鞭打たない、敵も味方もないという伝統があります。 平将門のように朝廷に弓弾いた逆臣ですら、神として祀られ、崇拝されています。 明治維新で官軍と戦った諸藩の藩主、家臣ですら許され、御国の発展に参画させました。 明治10年にわが国最後の内乱となった西南の役(せいなんのえき)は、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱でしたが、盟主西郷は、今日多くの日本人に愛されています。 隣国、支那においては、自国民他国民を問わず敵対した死者に対しては、墓を暴き死後をも鞭打ち罰するお国柄で、わが国とは対極を為しています。 筆者が尊敬してやまない、さくらの花びら様の秀逸記事、史実が語る「日本の心」と「日本の精神」を知ろう。...と題し、お国柄を述べられています。 わが国には、たとえ、戦争で敵味方に分かれても、勇敢に戦った敵を心から称賛するという姿があります。 日露戦争で敗れたロシアの総司令官ステッセルは、ロシア皇帝ニコライから死刑宣告を受けます。 乃木希典大将は、ロシア国王に書簡を送り、 「ステッセル閣下は勇敢に見事な戦いをされました。この様な優れた素晴らしい人物を何卒死刑などにしないでいただけないでしょうか」 という嘆願書をニコライ帝に送ったのです。 時代は前後しますが、源平の合戦の時、平敦盛という平家の武将がいました。 笛の名手で、祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『青葉』という笛を譲り受ける。平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切りました。 直実は人生の無常を感じ、その後出家し、生涯敦盛の霊を弔ったのです。 楠木 正成公は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害しました。赤坂城、千早城の合戦の後日、楠木正成は、敵・味方の戦没者を弔うためのに、供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行ないました。合戦の地である赤坂千早には、楠木正成が敵味方の霊を弔った墓が今でもあります。 そこには、「味方の墓」という立札があり、もう一方には「寄せ手の墓」とあります。 敵の墓と書かれておりません。敵のことを「寄せ手」と表現しています。 死者を鞭打たない、敵も味方もない。これが神代の時代からの日本人の生き方なのです。 |
過去の投稿日別表示
-
詳細
2013年03月31日
全1ページ
[1]
コメント(9)
|
君が代 謹んでお伝えいたします。 畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては25日から28日にかけて須崎御用邸(静岡県下田市)でご静養あそばされた。 26日には同県東伊豆町のミカン農家、八代良一氏の畑と自宅に行幸啓され、畏くも陛下は「甘夏が好きです」と仰せられた。27日午前には伊豆漁業協同組合下田市魚市場でキンメダイなどの水揚げ作業をご覧あそばされた後、知人を頼って宮城・気仙沼から避難してきた東日本大震災の被災漁業者らと懇談あそばされた。 かんきつ栽培農家をご覧あそばされる天皇、皇后両陛下 御尊影=26日午後 両陛下は2月の葉山御用邸でのご静養でも、美術館で宮城県石巻市の被災美術品の修復に関する展示をご覧あそばされ。つかの間のご静養であっても、被災地や被災者への思いは変わらないことを、行動で示されています。 一週間の両陛下のご動静を下記に記載いたします。 (25日・月) 【午前】
両陛下 勤労奉仕団ご会釈(皇居・蓮池参集所)
両陛下 東京から臨時専用列車で須崎御用邸(静岡県下田市)へご移動
【午後】
両陛下 静岡県知事、県議会議長、県警察本部長からあいさつ、少時ご歓談(須 崎御用邸)
両陛下 知事より県勢概要ご聴取(同)
両陛下は静養のため、須崎御用邸(静岡県下田市)にご滞在。
【午後】
両陛下 農家ご視察(静岡県東伊豆町)
陛下 ご執務(須崎御用邸)
(27日・水) 【午前】
両陛下 伊豆漁業協同組合下田市魚市場にて水揚げご覧。同組合長、この地域 に避難中の東日本大震災被災漁業者らとご懇談。
(28日・木)
【午後】
両陛下 静岡県副知事、県議会副議長、県警察本部長からあいさつ、少時ご歓談(静岡県下田市・須崎御用邸)
両陛下 静養先の須崎御用邸から還幸啓
【夜】
皇后陛下 「東日本大震災復興応援コンサート コバケンとその仲間たちオーケス トラ」《後半》ご覧に (東京都台東区・東京文化会館)
(29日・金)
【午前】
両陛下 人事異動者が拝謁《宮内庁の退職部課長7人》(宮城・御所)
両陛下 同《宮内庁の異動部課長など1人》(御所)
両陛下 同《皇宮警察本部の新旧護衛部長》(御所)
両陛下 同《宮内庁永年勤続退職者14人》(御所)
両陛下 同《皇宮警察本部の退職者30人》(御所)
両陛下 同《宮内庁侍従職関係退職者12人》(御所)
【午後】
両陛下 勤労奉仕団ご会釈(宮城・蓮池参集所)
陛下 ご執務(御所)
【夜】
陛下 ご執務(御所)
皇后陛下 難民を助ける会主催・東日本大震災被災地復興支援チャリティコンサート「明日に繋ぐ祈り」《後半》ご覧に (東京都中央区・浜離宮朝日ホール)
皇后陛下におかせられましては29日夜、東京都中央区のホールで、バイオリニストの天満敦子さんによる東日本大震災被災地復興支援チャリティコンサート「明日に繋ぐ祈り」をご覧あそばされた。
コンサートは「難民を助ける会」の主催で東北地方での公演報告の映像を会場に流した後、天満さんはピアノの演奏に合わせて「ジュピター」や、皇后陛下が作詞された「ねむの木の子守歌」などを熱演。主催者側によると、終了後に皇后陛下は天満さんと懇談あそばされ、「感動的でした」とお言葉を賜ったそうです。
畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては29日、今冬の大雪により甚大な被害を受けた北海道と青森、秋田、山形、新潟の4県に対し、宮内庁を通じて見舞金を下賜あそばされた。 皇太子殿下、同妃殿下におかせられましては敬宮愛子内親王殿下の春休みを利用し、26日から29日に長野・奥志賀高原でご静養あそばされ、スキーを楽しまれた。週明けの4月上旬にも、オランダご訪問に関する検討が本格化する見通しという。 4月30日での退位を表明したオランダのベアトリックス女王陛下に代わり、女王の長男であるウィレム・アレクサンダー皇太子殿下が即位するまで約1カ月。 秋篠宮殿下、同妃殿下、佳子内親王殿下、悠仁親王殿下におかせられましては24、25の両日、20年に1度、社殿を造り替える式年遷宮を10月に控え、皇祖神を祭祀されている神宮(三重県伊勢市)に参拝あそばされた。
初日は、式年遷宮の展示施設「せんぐう館」をご覧に。悠仁親王殿下が、社殿の建築様式「神明造(しんめいづくり)」の見本キットを組み立てられる様子が公開された。小堀邦夫館長が「いつでも大工の棟梁(とうりょう)になれますね」と声をかけると、悠仁親王殿下はにっこりされたという。新社殿を組み立てるシーンを3Dで再現した映像にも興味を抱かれたようで、3回繰り返してご覧になったという。
25日には伊勢神宮をご参拝。初参拝となられた悠仁親王殿下を妃殿下、佳子内親王殿下が気遣われ、手や背中に手を添えられる様子もみられた。
高円宮家の長女、承子女王殿下におかせられましては26日、同大早稲田キャンパス(東京都新宿区)の大隈講堂で行われた同学部の卒業式に、高円宮妃殿下やご友人と出席あそばされた。
同大によると、承子女王殿下は式の前に、貴賓室で森田典正学部長から学士(国際教養学)の学位記を受け取られたという。取材に対し、「さまざまな国の文化の中で育ったいろいろな友達と交流することができて、本当に学ぶことも多くて刺激になった4年間でした」と述べられた。
天皇陛下、皇后陛下、皇族方におかせられましては、いつまでもお健やかであられるよう祈念いたします。
君が代が千代に八千代に続くことを願ってやみません。 皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・
天皇陛下、皇后陛下 萬歳 萬歳 萬歳
わが国にはまだ海外から尊敬の目で見られる「格や権威」というものがある。これはいくらカネがあっても、大国であっても買えるものでない。まして数年、数十年単位で作られるものではないのです。
皇室を大事にしないで日本人はどうするのでしょうか?。
どこを堅守せねばならぬのか自ずと分かるでしょう。 我々の祖先はそれを熟知、周知徹底していたのです。 保守とは、平沼赳夫氏が言われるように、「皇室」を崇め、お護りしていくことです。 |
|
人気ブログランキングに参加しています。
まずはここをポチッとご協力お願い申し上げます。
この動画は自虐が解ける〈拡散〉動画だそうです。
知っている話もあれば、初めて聞いた話もあり、グッと込みあげてくる場面もあり、
日本人として、ぜひ最後まで見ておくものであると、お薦めする次第です。
動画の最後に東京裁判に関わる部分がありますが、日本が戦勝国であったら敗戦国に軍事裁判をかけるようなことはしなかったでしょう。
なぜなら、日本人の精神には「昨日の敵は今日の友」ということを理解しているからです。
昭和17年3月1日、スラバヤ沖海戦で、我が艦隊は英米蘭豪の連合艦隊に遭遇し、15隻の連合国艦隊のうち11隻を撃沈、4隻は逃亡しました。
この時、日本の駆逐艦は沈没した英国の重巡洋艦から投げ出された乗組員376名を救出しました。そして、帝国海軍は沈みゆく敵艦に対し「敬礼」の号令が下され、全員で敬意をして沈む敵艦を見送ったのです。
その翌日、日本の駆逐艦は英国の駆逐艦が沈没して漂流しているところを発見、艦長は救助命令を下し、敵兵400数十名を救助しました。この時、救助命令を下した艦長は幼いころから祖父母から聞かされていた『上村将軍』の歌を思い出したのであります。
蔚山沖(うるさんおき)の雲晴れて
勝ち誇りたる追撃に 艦隊勇み帰る時 身を沈め行くリューリック 恨みは深き敵なれど 捨てなば死せん彼等なり 英雄の腸ちぎれけん 「救助」と君は叫びけり そして、艦長は救助した敵兵に対して、「諸君は勇敢に戦われた」と言って名誉あるゲストとして迎え入れたのです。
帝国軍人はじめ日本国民は小学校で「修身」の授業を受けて、次のような話もよく知っていました。
日露戦争で、旅順攻防戦に勝利した乃木大将は、敵将ステッセルを水師営に招き、互いの勇戦を讃え、固い友情で結ばれました。
また、東郷平八郎大将は日本海海戦が終わった5日後に、捕虜となった敵の司令官ロジェストウェンスキーを佐世保の海軍病院に見舞いました。
東郷司令官は「困難な大遠征の成功は見事で、最後までよく戦われた」と、その勇戦を讃えました。
それに対してロジェストウェンスキーは感激して返す言葉もなく、涙ながらに「このような名将と戦い、敗れて悔いなし」と言ったのです。
日本は敵将を裁判にかけるのではなく、敵将であっても戦い終われば互いに理解し合い、尊敬して、調和するのであります。
これが日本の心であり、日本の精神であり、本当の平和を愛する姿なのであります。
・・・・・・
人気ブログランキングに参加しています。
まずはここをポチッとご協力お願い申し上げます。
|

>
- Yahoo!サービス
>
- Yahoo!ブログ
>
- 練習用
全1ページ
[1]





