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農耕祭事は絶やさない〜霜神社火焚殿復興の記録
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕、海洋民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
阿蘇山(あそさん)は、熊本県阿蘇地方に位置する活火山。なお「阿蘇山」は通称であり、正式には阿蘇五岳(あそごがく)と呼びます。
世界でも有数の大型カルデラと雄大な外輪山を持ち、「火の国」熊本県のシンボル的な存在として親しまれています。
阿蘇市(あそし)は、熊本県東北部、阿蘇地域の中央に位置します。 農産物を早霜の害から守り、五穀豊穣[ほうじょう]を祈る「火たき神事」が8月19日より、阿蘇市役犬原の霜神社で行われています。10月16日までの59日間、「火たき乙女」が火をたき続け、ご神体を温めます。 国指定の重要無形民俗文化財「阿蘇の農耕祭事」の一つで、同市の上・下役犬原と竹原の3地区が1年交代で神事を受け持っています。 今年の火たき乙女は、上役犬原の自営業山部栄一郎さん(39)の長女で阿蘇小3年の慈[いつみ]さん。祖母の栄子さん(71)が介添え役を務める。 神事の後、氏子らがご神体を納めたみこしを同神社から近くの火たき殿まで担いだ。安置されたご神体は、慈さんが栄子さんとまきをたき温めた。 標高の高い阿蘇では、収穫時期を早くするため、4月の下旬から5月に田植えが行われます。これは稲の品種改良が進み、農業技術が進歩し、水の確保が容易になったおかげでできるようになったものです。往古の昔は、梅雨時に田植えを行わざるをえなかったので、収穫の時期が遅く、早霜は稲作に大きな影響を与えました。
阿蘇では霜の害から農作物を守るためのお祭りが長い期間をかけて行われます。その祭りを「火焚き神事」と呼びます。この祭りの起こりについては、次のような言い伝えが今日まで、語り継がれています。
阿蘇を開拓し農業を伝えたとされる神様で、神武天皇の子で建磐龍命(タテイワタツノミコト)が阿蘇五岳の城島岳と往生岳の間に腰をかけ外輪山の大石めがけて弓の稽古をしていました。その矢を拾って命のところまで運んでいたのが鬼八という家来でした。九十九本まではきちんと拾って命のところへ持っていきましたが、百本目で面倒になり、矢を命に蹴り返しました。これに命が腹を立て、逃げる鬼八の首を斬りました。恨みに思った鬼八は「死んだら天に昇り、霜を降らせて五穀に害を与えよう。」と言って死にました。以後、毎年早霜がおり阿蘇の民は大変苦しみましたので命は鬼八を神として祀るからと許しを請いました。すると鬼八は「斬られた首が痛むから暖めてほしい」と言ったので、命は霜宮を建て鬼八を祀り、火焚きの神事を始めました。
言伝えに出てくる霜宮は阿蘇市の役犬原と竹原の境近くに鎮座する阿蘇神社の摂社です。祭神は先ほどの伝説に出てくる鬼八と言う話の他に、天の七星という話も聞かれます。また、お宮の近くに「天神」と呼ばれる場所があります。火焚き神事の中でも神輿(みこし)がわざわざ立ち寄る場所で、特別な聖地と意識されている場所ですが、ここは昔隕石が落ちた場所で、ご神体はこの隕石であるとも言われます。
火焚き神事の祭りは8月19日の「乙女入神事」で始まります。御神体を神輿に乗せ、お宮から火焚き小屋と呼ばれる建物に移します。火を焚く場所の上は、すのこ状になっており、ここに御神体を木箱に入れたまま納め、下で神官が火をおこし火焚きが始まります。この時から10月16日まで59日間火がたき続けられます。火の世話は火焚き乙女と呼ばれる少女が行います。昔は火焚きの間は乙女はこの敷地から出ることができなかったと言いますが、今は乙女が火の世話を行うのは祭りの時だけでその他の日は地域の世話役が世話をしています。また、昔は火焚きの期間は8町四方では喧嘩、大声は厳禁とされていました。「和」の精神を大切にしたのです。
この火焚きに使われる薪は阿蘇谷中から集められ、今は霜宮の氏子である役犬原、竹原以外は薪代で納めています。薪や薪代を納めた家には霜よけのお札が配られます。9月15日に寒くなってきたと言うことで御神体を真綿でくるむことを「温め入れ(ぬくめいれ)」と言います。
10月16日、59日間焚き続けた火を落とすお祭りが行われます。これを「乙女上げ神事」と言います。御神体は神輿で火焚き小屋から神輿でお宮に戻されます。
10月17日は、中休みといって 一切の神事を休みます。そして、18日の夜から19日の朝まで「夜渡(よど)祭」が行われます。お宮でお祭りがあった後、神楽殿に積み上げられた薪に火が付けられ、朝まで燃やし続けられます。神楽殿の天井に幣帛(へいはく)を1本上げておくと焚き火をしても建物に燃え移らないと言われています。夜8時過ぎ、太鼓を先頭に、7本の幣帛を持った神官、火焚き乙女、氏子の順で行列を組み天神に行きます。ここで祝詞が奏上され、再び神楽殿に帰ります。帰りは太鼓を打ちながら帰ります。神楽殿に付くとその周りを時計回りに7周回り、神楽殿に入ります。神楽殿の正面に幣帛を戻し、神楽が始められます。神楽は男性の神職が舞う阿蘇古代神楽という神楽で、幣帛、榊、お敷き、剣と採り物は変わりますが、順逆に回転する動作を繰り返す古い巫女舞を思わせる神楽です。この神楽を繰り返し朝まで一人の神職が舞い続けます。途中3度休憩を取ります。このうち2度目と3度目、そしてすべての神楽が終わったときに、お宮の脇の湧き水で神職と乙女が水を被り身を清めます(今は乙女は最後の時だけ)。最後の禊ぎが済んだ後、神官と乙女は7本の幣帛の前にすわり、神官が「霜づかぬ 代々の神業 秋かけて 乙女の籠る 今日は来にけり」という神楽歌を唄います。
そして、神官が神楽に使った幣帛で一晩たかれた焚き火をならし、火を小さくして、乙女と二人で火の回りを5回廻ります。これを「火渡り」と言います。この後7本の幣帛の前に太鼓を置きこれに神官が座り、乙女と三献を行う。これが済むと祭りの始まりの時と同様に天神に行きお祭りは終わります。祭りが終わると、焚き火の灰は、霜やけなどに良く効くものとして参拝者がみんな持ち帰ります。
この祭りは阿蘇神社や国造神社の祭りとともに「阿蘇の農耕祭事」として国から重要無形民俗文化財の指定を受け、二千五百有余年の間伝統を守り、今日に至っています。
我々日本人は、悠久の昔より、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくという努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。結果として、物が常に瑞々しい形を保ち続けるとともに、技術も継承され、物も心も永く久しく伝えてきたのです。常に瑞々(みずみず)しく、尊厳を保つことによって、神さまの御神徳(ごしんとく)も昂(たかま)ります。その御神威(ごしんい)をいただいてこそ、私たちの生命力が強められるという、日本民族の信仰心の表れなのです。
繰り返し再生することで、いつも変わらない姿で、みずみずしいままに「永遠」をめざすーそんな神道における「常若」(とこわか)の思い、祈りは先人の英知を象徴しています。 人間は、神代の昔から変わることなく、自然の恵みを受けて生活しています。森羅万象、見えないものまで、自然は子々孫々に受け継がなければならない人類共有の財産です。太陽・空気・水、どれが欠けても人間は生きていけません。これらすべてのものを、当然あるものと考えていないでしょうか。自然は人間が創り出したものではなく、一度無くしてしまったら取り返しがつきません。古代の日本人は、自然を崇敬し護るべきものと知っていました。失ってしまったらら元に戻せないと知っていたからです。古代人に習い、自然への感謝と畏怖の気持ちを忘れてはならないでしょう。 |
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