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ミャンマーの子供たちに、昔の日本を見る思いがします。
ミャンマーの13歳の少女が、「アウンサン将軍(ミャンマー建国の父)は日本で勉強したから立派な人物になった。私たちも将来、日本で学んでミャンマーのリーダーになりたい」と言う。
ミャンマーの子供たちは日本のことが大好きです。
「日本人は優しいから好きだ」
「日本人はまじめで働き者」
ミャンマーでは教科書にアウンサン将軍やミャンマーをつくる礎となったリーダーたちが皆日本で学んだと教えています。そして、日本のことを戦前も戦後も素晴らしい国だと教え続けています。だから子供たちにとって日本はあこがれの国なのです。
ミャンマーの学校では教師は絶対的な存在です。地域からも尊敬されています。大人と子供の立場ははっきり区別され、上下関係と規律が毅然と確立されています。
一方、日本では教師は尊敬されなくなっています。教師自身に問題ある場合もありますが、父母が教師に文句を言い、それを見て聞いている子供たちは教師を尊敬しないのです。しかも教師と子供たちが平等で友達感覚になり、子供に権利ばかり与える日本はおかしい。
ミャンマーでは子供と大人は同席できません。学校でも大人用のテーブルには食べ物がいっぱい置かれ、後には果物やお菓子も出されます。
子供たちは離れた席からじっと見つめているだけです。子供たちにとっては大変なごちそうです。「子どもたちにあげたらどうですか」と言うと、即座に「子どもたちに我慢させるのは当たり前」と断られます。子供たちは大人の会話には入らないし、大人より先に食べ物に手を出すことはないのです。じっと辛抱しているのです。
ミャンマーで施設に入ってハンセン病の父親の面倒をみる14歳の少女がいます。手の指を失い、歩行も困難な父親に、仕事は無理です。人々から受ける差別も辛らつで、定住も出来ませんでした。仕方なく親子二人は路上で物乞いをして生きてきました。しかし、この少女は明るいのです。ニコニコして笑顔で声も大きい。悲しい人生が感じられないのです。
「私はお父さんが好きです。ずっと面倒見ます」と笑顔で答える。 参照:池間哲郎著書
きっと昔の日本にも、このような素直な、そして苦難にも辛抱して生き抜いた子供たちがいたのではないでしょうか。
報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて)
「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。 10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。しかも裸足です。 少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。 まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。 その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。 夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。」 ・・・・・
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