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現代社会では、自分が生まれ育ったふるさとを離れて、慌しい日常を送る大人たちも多く、ふるさとへの誇りや愛着といったものが希薄になりつつあるのではないでしょうか。筆者が子供の頃、おじいちゃんやおばあちゃん、あるいは学校の先生から、ふるさとの発展に貢献した偉人伝の類を語り聞かされて育った子供たちも多かったと思いますが、いまはそのような機会も少なくなっているのではないでしょうか?
本ブログの拙稿、自転車で転んだときのひらめきから生まれた農機具に、さくらの花びら大兄さまより次のようなコメントをいただきました。
>このような逆境を乗り越えて、やがて世に名を成していくのです。
今は平等の下で貧しい子供にも学校に行かせようと支援や無償化としていますが、本当にそれでよいのか考えるべきです。自らの宿命を受け入れて、運命を自ら切り拓くことこそ大事なことであり、辛いことにも耐える、逆境にも負けない強さはそういう甘えからは生まれて来ないはずです。だからこそ先人から学ぶべきです。と・・・ 今回ご紹介させていただく、偉人は逆境を乗り越え、「公」に尽くし、終生、郷土を愛した偉人のお話です。
さまざまな企業を 興 して、郷土に 貢献 した兄弟がいます。 大谷米太郎 (おおたによねたろう) 、 大谷竹次郎 (おおたにたけじろう )の兄弟です。昭和三十八年(一九六三年)、二人は 富山県小矢部市 おやべし の名誉市民に推薦されます。全国でも例のない兄弟そろっての名誉市民の誕生でした。
朝は暗いうちから米つきの仕事をし、家計を助けました。その後米太郎は酒屋さんで働きますが、二十四歳のときに父と死別して、農業を継ぎます。それから一家の大黒柱として人一倍働きました。 しかし、母と五人兄弟の生活は、とても貧しいものでした。米太郎は三十歳のとき、東京で働くことを母に願い出て故郷を離れます。そこで米屋さん、八百屋さん、風呂屋さん、酒屋さんなど、いろいろな仕事を経験します。 あるとき、東京 大相撲 がアメリカで 興行 するという話を聞いたことがきっかけで、相撲取りになるための検査を受けました。 小さいときから人一倍体が大きくて、草相撲が強かった米太郎は大相撲に合格し国内を巡業しました。このときに各地の工場を回りました。この経験が後の会社経営の参考になったのです。米太郎のしこ名は 砺波山 となみやま で、幕下上位まで出世します。 引退した後、米太郎は長屋を借りてロール製造( 丸棒 や鉄板などをつくるときに使う表面の磨かれた円筒状の 鋳造 品)の 下請 会社を始めます。この下請会社が、関東大震災による被災や太平洋戦争の 戦禍 せんか を乗り越えて、後の大谷重工業として大きく発展していきます。 米太郎は成功した後も、多くの会社の再建を援助するなどして、経済界に大きな 足跡 を残したのでした。 他にも、エスイーシー(アルミ向け 黒鉛電極 で業界の大手企業)やホテルニューオータニ、大谷産業などの会社をつくり成功しました。 弟の大谷竹次郎は、明治二十八年(一八九五年)四月二十七日に生まれました。兄が経営するロール製造会社に入社して、事業を助けました。長年にわたり兄と協力して、新製品の開発を続けて 鉄鋼 業界のために大きな貢献をしました。 ホテルニューオータニ
昭和三十七年(一九六二年)、竹次郎は世界最大の 電気炉 に必要な 太物電極 の開発と国産化に成功します。これは、当時の日本鉄鋼業界にとってノーベル賞のような価値があり、今でも竹次郎の業績として高く評価されています。
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2013年10月21日
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