ここから本文です
日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

書庫過去の投稿日別表示

全1ページ

[1]



現代社会では、自分が生まれ育ったふるさとを離れて、慌しい日常を送る大人たちも多く、ふるさとへの誇りや愛着といったものが希薄になりつつあるのではないでしょうか。筆者が子供の頃、おじいちゃんやおばあちゃん、あるいは学校の先生から、ふるさとの発展に貢献した偉人伝の類を語り聞かされて育った子供たちも多かったと思いますが、いまはそのような機会も少なくなっているのではないでしょうか?

本ブログの拙稿、自転車で転んだときのひらめきから生まれた農機具に、さくらの花びら大兄さまより次のようなコメントをいただきました。

>このような逆境を乗り越えて、やがて世に名を成していくのです。
今は平等の下で貧しい子供にも学校に行かせようと支援や無償化としていますが、本当にそれでよいのか考えるべきです。自らの宿命を受け入れて、運命を自ら切り拓くことこそ大事なことであり、辛いことにも耐える、逆境にも負けない強さはそういう甘えからは生まれて来ないはずです。だからこそ先人から学ぶべきです。と・・・

今回ご紹介させていただく、偉人は逆境を乗り越え、「公」に尽くし、終生、郷土を愛した偉人のお話です。

さまざまな企業を 興 して、郷土に 貢献 した兄弟がいます。 大谷米太郎 (おおたによねたろう) 、 大谷竹次郎 (おおたにたけじろう )の兄弟です。昭和三十八年(一九六三年)、二人は 富山県小矢部市 おやべし の名誉市民に推薦されます。全国でも例のない兄弟そろっての名誉市民の誕生でした。


イメージ 1
           小矢部ふるさと博物館前に建てられた大谷兄弟像




 兄の米太郎は明治十四年(一八八一年)七月二十四日、 正得村水落 しょうとくむらみずおち (現在の小矢部市)に生まれます。生家は農家でした。家が貧しくて少年時代は小学校に毎日通うことができませんでした。
朝は暗いうちから米つきの仕事をし、家計を助けました。その後米太郎は酒屋さんで働きますが、二十四歳のときに父と死別して、農業を継ぎます。それから一家の大黒柱として人一倍働きました。
しかし、母と五人兄弟の生活は、とても貧しいものでした。米太郎は三十歳のとき、東京で働くことを母に願い出て故郷を離れます。そこで米屋さん、八百屋さん、風呂屋さん、酒屋さんなど、いろいろな仕事を経験します。
あるとき、東京 大相撲 がアメリカで 興行 するという話を聞いたことがきっかけで、相撲取りになるための検査を受けました。
小さいときから人一倍体が大きくて、草相撲が強かった米太郎は大相撲に合格し国内を巡業しました。このときに各地の工場を回りました。この経験が後の会社経営の参考になったのです。米太郎のしこ名は 砺波山 となみやま で、幕下上位まで出世します。
引退した後、米太郎は長屋を借りてロール製造( 丸棒 や鉄板などをつくるときに使う表面の磨かれた円筒状の 鋳造 品)の 下請 会社を始めます。この下請会社が、関東大震災による被災や太平洋戦争の 戦禍 せんか を乗り越えて、後の大谷重工業として大きく発展していきます。
米太郎は成功した後も、多くの会社の再建を援助するなどして、経済界に大きな 足跡 を残したのでした。
他にも、エスイーシー(アルミ向け 黒鉛電極 で業界の大手企業)やホテルニューオータニ、大谷産業などの会社をつくり成功しました。
弟の大谷竹次郎は、明治二十八年(一八九五年)四月二十七日に生まれました。兄が経営するロール製造会社に入社して、事業を助けました。長年にわたり兄と協力して、新製品の開発を続けて 鉄鋼 業界のために大きな貢献をしました。


イメージ 2
 ホテルニューオータニ


昭和三十七年(一九六二年)、竹次郎は世界最大の 電気炉 に必要な 太物電極 の開発と国産化に成功します。これは、当時の日本鉄鋼業界にとってノーベル賞のような価値があり、今でも竹次郎の業績として高く評価されています。

二人がそれぞれに成功した後も、米太郎と竹次郎は深く郷土を愛して、感謝の心を忘れませんでした。二人は、多くの資産を郷里や地域社会のために 寄付 しています。
「家が貧乏で学校に行けんかった」というのが二人の口ぐせで、特に教育関係への寄付には熱心でした。小矢部市の 石動 いするぎ 小学校と大谷小学校の二つの校舎の建設や大谷技術短期大学(今の富山県立大学短期大学部)の設立、小矢部市庁舎の建設には巨額の寄付をしました。
米太郎は、 角界 入りした経歴のせいか、スポーツの 振興 にも情熱を傾けました。当時の大谷重工業の相撲部は日本一といわれるまでになり、国体での団体優勝など輝かしい成績を収めました。
弟の竹次郎は、兵庫県 西宮市 にあった自宅を、自分が集めた書画や 骨董 こっとう 美術品とともに西宮市に寄付します。現在、ここは大谷記念美術館になり、市民の 憩 いの場として利用されています。
米太郎は昭和四十三年(一九六八年)に八十六歳で亡くなり、竹次郎は昭和四十六年(一九七一年)に七十七歳で亡くなりました。二人の 遺志 は、竹次郎の子でエスイーシー取締役会長の 大谷勇 に引き継がれ、小矢部市の相撲場の建設や大谷中学校校舎建設、小矢部市のランドマークといわれる一一八メートルのタワーがある「クロスランドおやべ」の建設に多額の寄付が寄せられました。
また、少年少女の発明や工夫を 奨励 するための大谷科学賞や大谷教育文化 振興 財団の設立と奨学金の 貸与 なども行っています。
小矢部ふるさと博物館前には兄弟像、小矢部市役所前には米太郎の銅像、石動小学校と大谷小学校の校庭には竹次郎の銅像がそれぞれ建てられ、今も二人が愛し続けたふるさとを見守っています。



イメージ 3
                    大谷兄弟の寄付により建てられた市立大谷小学校




筆者も三十年前、冬の小矢部市を訪れたことがありますが、雪深かったことを記憶しています。そしてそこに暮らす人々の苦労を思う時、己の置かれた環境がいかに恵まれていたかを恥じた次第でした。
今回の記事をエントリーするにあたり、不遇に負け、人を妬み、挫折する今日の日本人は大いに先人に学ぶべきだと痛感した次第です。



【出典、参考文献】
「小矢部市史下巻」小矢部市/「道徳指導資料小矢部市の先人の心に学ぶ」小矢部市教育センター/「郷土愛の大谷家・報徳の人大谷勇氏」小矢部市立大谷中学校

全1ページ

[1]

アメブロにタイトル同じで移行。
アメブロにタイトル同じで移行。
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31

Yahoo!からのお知らせ

友だち(51)
  • 谷 潜蔵
  • みぃ
  • bug*nno*e
  • 花橘乙女
  • 筑後川の日本人
  • 大企業Grや富豪の脱税情報募集
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン

みんなの更新記事