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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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両陛下 インド行幸啓






インドへ出発あそばされる天皇、皇后両陛下=30日午前、東京・羽田空港











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インドへ向け出発した政府専用機内で歓談あそばされる天皇、皇后両陛下 御尊影=30日午後、政府専用機内




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ニューデリーに到着あそばされた天皇皇后両陛下 御尊影=30日午後、インド・ニューデリー






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ニューデリーの空港に到着され、シン首相夫妻のお出迎えを受けあそばされる天皇皇后両陛下 御尊影=30日午後、インド・ニューデリー






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ニューデリーの空港に到着され、シン首相夫妻のお出迎えを受けあそばされる天皇皇后両陛下 御尊影=30日午後、インド・ニューデリー











天皇彌榮(すめらぎいやさか)

謹んでお伝えいたします。

畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては30日午前、東京・羽田空港から政府専用機でインドに向け出発あそばされ、現地時間同日夕(日本時間同日夜)に首都ニューデリーのパラム空軍基地に無事到着あそばされた。基地では、シン首相夫妻やクルシード外相らとにこやかに握手された。同国で首相と外相がともに出迎えるのは異例の歓待。昨年、日本と国交樹立60周年を迎えた同国との親善のための行幸啓であらせられ、皇太子殿下・同妃時代の昭和35年以来、53年ぶりの公式行幸啓となられる。
 羽田空港で、畏くも天皇陛下におかせられましては、「このたびの私どもの訪問が国交樹立60周年を迎えた両国の相互理解と友好関係のさらなる増進に資するよう願っております」と叡慮を賜りました。ニューデリーのホテルで両陛下は、ショールを渡されるなどヒンズー教の伝統的な歓迎を受けあそばされ、笑顔で応じられた。
 ニューデリーでは国賓の公式歓迎式典などに臨まれる。4日から南部のチェンナイ(旧マドラス)も行幸啓あそばされ、伝統舞踊の学校や障害者協会を訪問される予定。6日に還幸啓あそばされる。



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かってインドを行啓あそばされた皇太子殿下・同妃時代の天皇、皇后両陛下御尊影=昭和35年11月



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昭和35年、インドを公式行啓あそばされ、訪れた農村で歓迎を受けられる天皇、皇后両陛下 御尊影(当時皇太子殿下、同妃殿下)


天皇彌榮(すめらぎいやさか)


畏くも天皇陛下、皇后陛下、皇族方におかせられましては、いつまでもお健やかにと願ってやみません。




尊 彌榮 彌榮 彌榮

日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・

天皇陛下、皇后陛下 萬歳 萬歳 萬歳


御国(みくに)




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インドへ出発あそばされる天皇、皇后両陛下=30日午前、東京・羽田空港






君が代


日本という国家民族の分裂を避けるための畏くも天皇陛下の神聖なる本来の役割は、 百年に一回や二回しか果たされる機会はありません。 しかし国家の真の危機においては日本民族を一つにまとめる崇高なる存在は、 畏くも天皇陛下をおいて他には一切存在しないのです。 
ボン大学教授O・カロン氏は、 二千数百年に亘る天皇陛下とやまと民族の深き魂の絆の伝統に驚き 

「このような不思議は世界に類例がない」 
「陛下と国民とは自ら意識するか否かに拘らず、 
客観的にはただまことに偉大というしかない」 
「これは日本の誇りであると同時に人類の誇りである。 
これこそは日本の美しい歴史に養われた偉大な民族性の実証である」と述べています。 

かつて織田信長も足利氏も豊臣氏も徳川氏もいかなる権勢を誇れども何人たりとも侵すことのできなかった神聖なる至高の存在、その至高の存在を戴いてきたからこそ、日本という国は有史以来その独立と独自の文化を継続させることができたので 

国という字は「玉を囲む」と書きますが、玉とは天皇陛下を意味する言葉です。 
国から玉がなくなれば、空っぽの外枠しか残らない。 往古の昔より先人はそれをよく理解していたのです。
 肇国以来、二千数百年の長きに亘り、天皇陛下こそが日本民族という一族の「父」であり、魂の依り所でした。そして皇室は世界の全ての王室の中でも比類なき最古の王朝であり、それゆえ日本は最古にして最長の国家だということができるのです。
 
シナの歴代王朝が興亡を繰り返したことは、真の「聖なるもの」が存在せず、偽史によって捏造された神聖性などは永続しないことを証明しています。 
現在の日本人は、このような自国の素晴らしき伝統を忘れ、愚かにも中共のインチキな「四千年の偽史」を有難っている有様です。
国家の存立には「聖なるもの」の存在が必要であることは人類の歴史が証明しています。 
「聖なるもの」が存在しない国や否定してきた国は内戦を繰り返し、貧困の混乱が続いているのです。 

私たち現在の日本人はこの真の「聖なるもの」を内なる誇りと共に大切に護持し、次代へ向けて継承せしめる責任を、二千六百六十余年間の全ての先人先祖に対して負っているのです。 

日本民族が國體を護持するかぎり、天壌無窮なのです。
先にも述べましたが、国という字から玉を外せば、御国は成り立たないのです。




菊栄親睦会


菊栄親睦会 御尊影


皇室とは、一口に言えば、「畏くも天皇陛下を中心とするひとつの家」です。
現在は畏くも今上陛下と皇族から成っています。しかし、ここで注意いただきたいのは、皇族には畏くも今上陛下が含まれていないことです。畏くも今上陛下におかせられましては、一人別格のご存在であらせられます。上御一人
(かみごいちにん)とも称します。
皇族は太皇太后陛下、皇太后陛下、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下、親王殿下、親王妃殿下、内親王殿下、王殿下、王妃殿下、女王殿下から構成されており、皇太后とは先帝の皇后を、太皇太后とは先々帝以前の皇后をいいます。現在の皇族は、合わせて20方であられます。

皆様ご存知のように、皇族には姓がありません。署名なさるときは、お名前だけを書きあそばされます。
ただし、実際には「○宮さま」と呼ばれることが多いのですが、この呼称には2種類あります。ひとつは愛子内親王殿下の「敬宮」(としのみや)という御称号です。この御称号は、いまは皇子、皇女と皇太子の御子様にだけつけることになっており、秋篠宮家の眞子内親王殿下、佳子内親王殿下には御称号はありません。
もうひとつは「秋篠宮」「常陸宮」という宮号です。
これは皇族が結婚されるときに畏くも天皇陛下から下賜されるもので、御称号とは性格が異なるものなのです(宜仁親王殿下は独身ですが、40歳を前に先帝陛下より桂宮号を受けられました)。
職業は、一般国民と違って皇族には職業選択の自由はなく、勤務されるのは公益を目的とする非営利団体に限られ、畏くも今上陛下天皇のご許可が必要です。
その場合でも、ご公務優先のため、一般同様にお勤めすることはできません。
畏くも今上陛下と皇族はご自分の持ち家をお持ちになれません。
戦後、皇室財産が国有化されたことにより、宮内庁が管理する国の施設に住まわれることになりました。
婚姻についても、皇族男子の場合は皇室会議(皇室の重要事項を審議する最高機関・皇室典範第5章)にかけられることになっています。皇族女子の場合は、婚姻は自由ですが、一時金支給のための皇室経済会議(皇室経済について国会の場とは別に皇室経済会議という意思決定機関があり、総理大臣、財務大臣、衆・参両院の正副議長、宮内庁長官、会計検査院長の8人の議員からなる)が開かれます。女子は一般国民と婚姻すると皇族を離れることになり、昭和天皇の内親王方や三笠宮家の内親王方、近くは
紀宮(のりのみや)清子(さやこ)内親王殿下がご結婚により降嫁あそばされ、皇族の身分をお離れになりました。 

現在の宮家は秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、三笠宮寛仁親王家、桂宮家、高円宮家の6宮家ですが、戦前は14の宮家がありました。大東亜戦争後の昭和22年、皇室財産が国有化されました。
『昭和財政史』によれば、終戦前後の皇室の財政規模は約2,500万円と推定されています。うち450万円が政府の一般会計から支出されていた。この450万円という額は明治43年度から昭和22年度まで完全に固定され、その後の財政規模の拡大にともなう差額は山林・有価証券・農地などの皇室独自の財源からまかなわれていた。終戦後には皇室が自らこの差額を調達することは不可能となり、長年固定されていた皇室費を一挙に数倍に増額することは、敗戦直後の極度に逼迫した財政のもとではとうてい合理的な説明がつかなかったのです。
11宮家51名の皇籍離脱は、形式上はGHQより押付けられた現行の皇室典範の第11条第1項「その意思に基き、皇室会議の議により」、第11条第2項「やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により」もしくは第14条「その意思により」または第13条「皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる」によってそれぞれ行なわれた。
多くの宮家の維持が困難となり、先帝陛下の弟である秩父宮、高松宮、三笠宮を除く11宮家51人の皇族が、一度に皇籍を離れあそばされて臣籍に降下されることになったのです。

その宮家とは、閑院宮(かんいんのみや)、東伏見宮(ひがしふしみのみや)、伏見宮(ふしみのみや)、山階宮(やましなのみや)、賀陽宮(かやのみや)、久邇宮(くにのみや)、梨本宮(なしもとのみや)、朝香宮(あさかのみや)、東久邇宮、北白川宮、竹田宮です。
そもそも「宮家」とはどういったご存在なのでしょうか?以下に述べてみたいと思います。

江戸時代は伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の四つの世襲親王家があり、それぞれの当主が天皇と養子縁組をして猶子(ゆうし)となり、親王宣下(せんげ)を受けて親王になるのが通例となっていました。親王宣下とは、皇兄弟・皇子女・皇孫などに、親王の称号を許す宣旨(せんじ)を下すことで、世襲親王家とは、代々親王宣下を受けて親王を出すことができる宮家のことです。
つまり、世襲親王家とは、皇統の存続が危ぶまれる際に皇位を継がれるよう準備された家でした。
事実、第118代後桃園天皇で系統が途絶えたときには、閑院宮家から出られた光格天皇が皇位を継承されています。世襲親王家は、鎌倉時代、亀山天皇の皇子恒明親王を初代として成立し、その後室町時代まで6代にわたって続いた常磐井宮(ときわいのみや)がはじまりです。
幕末になると、これらの世襲親王家に加えて、僧籍にあった伏見宮邦家親王の第一子、晃親王と、第四子、朝彦親王が還俗し、国事に参与すべく、それぞれ、山階宮、中川宮(のちの久邇宮)を創立あそばされた。明治維新後、皇統維持をより安定させるために、華頂宮(かちょうのみや)、梨本宮、北白川宮、小松宮などの新しい宮家が創立されます。また、明治22年、皇室典範の制定により皇位継承が男子に限られ、皇室の血統を守る必要性が強まったため、賀陽宮、東久邇宮、朝香宮、竹田宮、東伏見宮などが設立されました。
宮家のうち、竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮の妃は明治天皇陛下の皇女です。大正に入ると、昭和天皇の弟である秩父宮、高松宮、三笠宮の3直宮家が設立されましたが、一方では嫡子が生まれなかったため、桂宮(現在の桂宮家とは異なる)、小松宮、有栖川宮、華頂宮の各宮家が絶えてしまいました。
皇籍離脱後は、それぞれ宮号から「宮」の字を除いたものを名字として名乗られ、民間人としての生活を始められました。財産税の賦課を受けてほとんどの方々が資産の多くを失い、長く経済的な困窮に苦しまれた方がいる一方、資産の一部を確保して一定の生活レベルを維持できた者、事業を興して成功された方、皇室・旧華族・神道などに関係する職に就いたりして、社会の名士として活動を続けた方もおられ、その後の運命はさまざまです。旧皇族方は世間の注目を避けて静かに生活された方がほとんどでしたが、、最近では賀陽正憲氏、竹田恒治氏など外交官に就かれた方、竹田恒泰のように積極的に著作や講演などで活躍し、マスメディアに登場されている方もおられる。なお、プリンスホテルの社名は、ホテルの建物が旧皇族の手放した土地に立地していることに由来しています。

戦前は「皇族親睦会」と呼ばれていた皇族および旧皇族による組織が昭和天皇の叡慮で、「菊栄親睦会」と改称あそばされ、11宮家51人がそのままメンバーとなっています。冒頭の御尊影にもありますが、今も、その子孫や結婚によって皇籍を離れた元内親王、結婚して皇族妃となられた方がこの菊栄親睦会の会員、その家族、親族が準会員となり、皇室と最も近い親戚筋として交流を持ちながら、皇室を支える役割を担っています。 





畏くも天皇陛下、皇后陛下、皇族方におかせられましては、いつまでもお健やかにと願ってやみません。




尊 彌榮 彌榮 彌榮

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「義士」なのか「犯罪者」なのか 安重根の評価巡り対立深まる
東洋平和のために、韓国と日本、そして中国は手を携えるべきだ―― 伊藤博文を暗殺したことで知られる安重根(18791910)は、処刑直前の遺著にこう書き残した。没後100年、その安重根の評価をめぐり日本・韓国・中国が対立を深めている。きっかけは韓国の朴槿恵大統領が20136月、伊藤暗殺現場である中国・ハルビンに、安の記念碑を建てる計画を中国・習近平国家主席にもちかけたことだ。

さらに朴大統領はダメを押すように1118日、訪韓した中国高官に対しわざわざこの話を持ち出し、建造計画が順調に進んでいることに感謝の意を述べた。菅義偉官房長官もさすがにカチンときたのか、「我が国はこの安重根については『犯罪者である』(との立場を)、韓国政府に対してこれまでも伝えてきております」と、不快感を露骨ににじませた。
この「犯罪者」発言が韓国に伝わると、即座に「我が国の独立と東洋平和のために命をかけた人物だ。『犯罪者』と表現することは極めて残念」(韓国外務省)とかみつかれた。中国もこれに参戦、「安重根は歴史上有名な『抗日義士』であり、中国でも尊敬を受けている」との声明を発表する。菅官房長官も同日、「まあずいぶんと過剰反応だな、という風に思いますよ」と冷ややかに切り返し、さらに議論が過熱することになる。

安は1879年、現在の北朝鮮にある海州市に生まれた。実家は裕福で、カトリックの洗礼も受けている。20代半ばから民族運動に身を投じ、愛国的教育活動、そしてのちに武装闘争に身を投じ、最終的に1909年に伊藤暗殺を決行、翌年処刑される。30歳だった。韓国では最新鋭の潜水艦に「安重根」の名が付けられるなど、まさに国民的な英雄となっている。ただし当時の韓国皇室では、日本への配慮から、「伊藤氏が我が国の人間の『凶手』にかかった」(当時の皇太子による電報、「純宗実録」所載)と安をテロリスト扱いにしている。首都での歌舞音曲を禁止するなど、日本への徹底した配慮を見せており、韓国にとっては「気まずい」(朝鮮日報の記事より)事実だ。


同じく半ば「なかったこと」になっているのが、安の遺児・安俊生の存在だ。実業家となった俊生は1939年、満州で伊藤の位牌に手を合わせ、伊藤の息子に「謝罪」した。韓国独立の英雄・金九はこれに激怒し、俊生殺害まで図っている。俊生は戦後間もなく、不遇のうちに死去した。安の孫たちは追悼式典などのためにしばしばメディアに登場するが、俊生の存在は無視されがちだ。(2013.11.20 J-CASTニュース)

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朴槿恵が伊藤暗殺現場ハルビンに安重根の記念碑を建てる計画を習近平に持ちかけ習近平は応じる形でしたが、これは韓国に応じたというよりは日本を意識して応じたのでしょう。シナは韓国など本気で相手にするはずもなく、韓国もシナを信用してはいない。つまり日本から相手にされなくなったシナと韓国が“対日共闘”しているということでしょうか。
 
それが証拠にシナの言うことには信ぴょう性が欠けるからです。それは<中国もこれに参戦、「安重根は歴史上有名な『抗日義士』であり、中国でも尊敬を受けている」との声明を発表>と上の記事にありますが、レコード・チャイナ(2013.11.21)には「現代中国では、安重根に対する評価は高くなく、その事績も広く知られていない」と書いてあります。今のシナでテロリストを評価できるわけがないのに「尊敬」とはしらじらしいものであります。
 
また、安重根は伊藤博文を暗殺できていないのです。伊藤博文のハルビン訪問に同行した貴族院議員の室田義文は『近代日本世相史』の中で「伊藤公の傷あとを調べると弾丸はいずれも右肩から左下へ向かって走っている。これはプラットホームの上の食堂あたりから撃ったものと想像される。しかも弾丸を調べてみるとすべて十三連発の騎兵銃のもので、蔵相ココフッオフ伯があとでその前夜騎兵銃を持った韓国人を認めたと言っているのと思い合わせると安重根の他以外のところに別の犯人がいるのではなかろうか」とに書かれています。
 
韓国は日清戦争によって日本に独立させてもらって大韓帝国となりました。それまでの「李氏朝鮮」はシナの冊封国で、シナから使者を迎え入れるときには迎恩門で「三九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼」をしていました。しかし独立させてもらうとさっそく「独立門」と名前を変えました。この独立で面白くなかったのは「両班」という特権階級の人たちでした。なぜなら日本が朝鮮で奴隷階級をなくして両班は特権を失ったため日本に恨みを持ったのです。つまり朝鮮人の自分勝手な「恨(はん)」なのです。自国がロシアから狙われているにもかかわらず国のことより自分の利権ばかりしか考えられずひたすら農民などから搾取し続けていたのです。安重根も「両班」で日本に恨みをもっていたので抗日運動に投じていくのは当然でした。
 
その安重根は当時韓国から英雄ではなくテロリスト扱いされており、安重根の息子は伊藤博文の息子に謝罪していたのです。これも今の日本も韓国も教えない事実です。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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中山成彬氏 朝日の慰安婦報道は「日本悪者にしたい」

朝日新聞が11月28日、インドネシアにも「慰安婦だった」と証言する女性がいることを報じた。同記事では「慰安婦問題、インドネシアの女性証言『日本軍のテントに連行された』」と題し2人の女性にインタビュー。1人は日本軍のテントに連れていかれ慰安婦にされたとしており、もう1人は性被害を受けたという。2人とも日本兵かは定かではないが、言語と顔つきがインドネシアのそれと違うことから「日本兵だと思った」と話しているとのこと。

 この朝日新聞の報道に日本維新の会の中山成彬衆議院議員がツイッターで「記事にするのは恥ずかしいような証言だ。どうしても日本を悪者にしたいらしい」と意見。「それこそ帰りにベトナムに寄ってベトナム戦争時の韓国兵の悪行を調べてくればよかったのに」とコメントしている。
2013年11月29日 アメーバニュース
http://yukan-news.ameba.jp/20131129-112/


 
>朝日新聞が1128日、インドネシアにも「慰安婦だった」と証言する女性がいることを報じた。同記事では「慰安婦問題、インドネシアの女性証言『日本軍のテントに連行された』」と題し2人の女性にインタビュー。
 
ふざけるな朝日新聞!
 

慰安婦問題、インドネシアの女性証言 「日本軍のテントに連行された」

慰安婦問題は日韓間だけの問題ではない。日本政府が約20年前、東南アジアへの波及を防ぐ外交を水面下で進めていたことを朝日新聞は報じた。1942年に日本が占領したインドネシアには、現在も「旧日本軍から性暴力を受けた」「慰安婦だった」と証言する女性がいる。

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日本軍のテントで何度も辱められたと証言したベッチェさん。家族にも捨てられ、未婚だという=7月18日

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イパティマンさんは、日本の大手企業の工場で働いていたところを連行されたと証言した。「毎日10人ほどの日本人がやって来た」と話した=7月21日
以下略
2013年11月28日 朝日新聞

 
1人は日本軍のテントに連れていかれ慰安婦にされたとしており、もう1人は性被害を受けたという。2人とも日本兵かは定かではないが、言語と顔つきがインドネシアのそれと違うことから「日本兵だと思った」と話しているとのこと。

韓国人元慰安婦と同じで証拠はないのか^^
 
1942年に日本軍がオランダからインドネシアを解放したのに、なぜ「テント」の慰安所があるのでしょうか?
 
当時は日本国民だった朝鮮人もインドネシアにいたので、性的暴行を加えたのは朝鮮人軍属ではないのでしょうか?
 
朝日新聞が2人の女性にインタビューをしたのは7月なのに、なぜ11月になってから報道したのでしょうか?
 
そして、この2人の女性は、日本軍に強制された慰安婦ではなく、現地の戦時売春婦だったのではないのでしょうか?
 
日本軍人がインドネシアでオランダ人女性を慰安婦にしたという白馬事件でも、秦郁彦は、判決で被害者のオランダ人の全てが強制とはされなかった事、慰安所に連行される以前に売春婦であった女性が存在した可能性について述べています。
 
そもそも、大東亜戦争当時、日本軍はインドネシアの人々から解放軍として迎えられ、民間経営による慰安所があり、日本軍人相手の慰安婦がいたのです。
 
3月8日の衆院予算委員会の質疑で、中山成彬衆議院議員は日本の朝鮮統治について事実を述べました。
 
・日本の朝鮮統治は朝鮮の近代化に貢献したこと
・創氏改名は自由であったこと
・慰安婦の官憲による強制連行は無かったこと(朝日新聞の捏造)
 
【関連記事】
 
 
つまり、中山成彬衆議院議員が「記事にするのは恥ずかしいような証言だ。どうしても日本を悪者にしたいらしい」と指摘したように、朝日新聞による捏造記事です。
 
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朝日新聞は、大東亜戦争でオランダからインドネシアを解放した日本軍人と、大東亜戦争終結後もインドネシア独立のために戦った日本軍人を侮辱しています。
 
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インドネシアには、古くから伝わる「ジョヨボヨ王の予言」(12世紀前半、東ジャワのクディリ王国のジョヨボヨ王が書き記したバラタユダの一説)という伝承がありました。
 
『我らが王国は、白い人びとに支配される。彼らは離れたところから攻撃する魔法の杖を持っている。この白い人の支配は長く続くが、空から黄色い人びとがやってきて白い人を駆逐する。この黄色い人びとがいるのは、ジャゴン(トウモロコシ)が育つのと同じくらいの期間だ。』
 
1602年のオランダ東インド会社設立頃より、350年間に渡ってインドネシアはオランダの植民地にされました。
 
1930年前後からインドネシアにも独立を希求する民族運動が発生しましたが、オランダはこれを厳しく弾圧して徹底した愚民政策で、インドネシア全土を植民地支配しました。
 
オランダは、多数の部族を互いに敵対させ、オランダ人に従順な一部の部族を警官とし、経済は華僑を利用して、統一言語ができると抵抗運動がおきるので部族間の言葉はそのままにさせました。
 
オランダの植民地政策は、道ばたで3人以上のインドネシア人が話していると処罰するほどの徹底した奴隷支配でした。
 
1941年、日本が大東亜戦争を開戦すると、インドネシアにも日本軍がやってくるらしいという噂が流れ始めました。
 
ある日、インドネシア人が爆音に空を見上げると、空にはいくつもの白い花が咲き、戦士達が降下してきました。
 
これが、「空の神兵」と呼ばれた日本軍の落下傘兵でした。
 
『これこそが、ジョヨボヨ王の予言にある空からの黄色い人々ではないか!』と、 インドネシア人は驚き、そして日本軍を歓迎し、日本軍に協力をしました。
 
1942年1月11日、日本軍はセレベス島のナドへの攻撃を皮切りにジャワ島を目指し、スマトラ島では幽閉されていたスカルノ、ハッタ、シャフリールら、当時のインドネシアの代表的な指導者を解放しました。
 
今村均中将率いる陸軍16軍は、3月1日にジャワに上陸して、わずか9日間でオランダ軍を降伏させました。
 
インドネシア人は、自分たちを350年も支配して来た白い人びとを、わずか9日間で駆逐してしまった黄色い人びとが現実となり、これはまさに「ジョヨボヨ王の予言」の実現であることを知ると共に、白人が決して全能の神ではなく、アジア人が彼らの奴隷ではないことを確信しました。
 
日本軍政下に置かれたインドネシアでは、国名は蘭印からインドネシアに、オランダ名だった首都バタヴィアは、古インドネシア王国のジャヤカルタに倣ってジャカルタに改称されました。
 
日本によりオランダ語が廃止され、新しくインドネシア語(当時はジャワ語の分かる日本人がいなかったので、特務機関で学習されていたマレー語を採用)が作られました。
 
日本は、将来のインドネシア独立の方針を推し進め、インドネシア人の若者による「郷土防衛義勇軍」(PETA)を組織し、日本軍式の軍事教練を施しました。
 
このPETAはインドネシア独立戦争の中心戦力となり、後のインドネシア国軍の母体となったので、今でもPETA出身の軍高官は、「日本精神のおかげでオランダに立ち向かうことができた」と語っています。
 
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日本は、1945年3月にインドネシアの独立準備委員会を発足し、8月19日にスカルノ、ハッタ、ラジマンによって、独立宣言をするという方針を決定・承認していました。
 
しかし、1945年8月15日に大東亜戦争終は終結しました。
 
日本の軍政は3年半であり、これも「ジョヨボヨ王の予言」にあるトウモロコシが育つまでの期間と同じでした。
 
1945年8月17日、後の初代大統領スカルノによって独立宣言文が読まれました。
 
この宣言文の日付は「17805(05年8月17日)」と、西暦ではなく日本の「皇紀」(2605年)で書かれています。
 
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日本軍はポツダム宣言受諾以降、連合軍が来るまで現地の治安維持と、武器の管理を命じられていました。
 
しかし、日本軍は秘密裏にインドネシア人に武器の流しなどをして、自らが育てたPETAを支援しました。
 
ある日、武器庫の番をしていた日本軍兵士が暴徒化したインドネシア人に殺された時、自らの血で『インドネシアの独立に栄光あれ』と壁に書いて息絶えました。
 
このような日本軍将兵の姿勢は、インドネシア人に衝撃を与えました。
 
そして、インドネシアの独立を認めずに、再びインドネシアを植民地支配するために、イギリス軍とオランダ軍が侵略してきました。
 
しかし、日本の統治によってインドネシア人は猫から虎に変わっていました。
 
2000人以上の日本軍将兵は現地に残り、PETAと運命を共にし、4年にも及ぶ独立戦争を戦い抜いたのです。
 
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残った日本軍将兵の動機は様々でしょう。
 
彼らは玉音放送における、「朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」(私は日本と共に、終始東アジアの解放に協力してくれた諸盟邦に対してすまなく思う)との、昭和天皇の大御心を代わりに果たして、インドネシアの独立の礎となったのです。
 
1949年12月のハーグ円卓会議で、インドネシアはオランダからの独立を承認されました。
 
インドネシア独立のために戦い散った日本軍将兵は約1000人で、英霊達の御霊はジャカルタにある「カリバタ国立英雄墓地」に祀られています。
 
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毎年、8月17日のインドネシア独立記念日には、盛大な独立記念祭が行なわれ、インドネシアの人びとは日本の軍歌を歌いながら行進し、インドネシア国軍のパレードで使われているのは「PETAマーチ」です。
 
パレードのクライマックスにはインドネシア人の男女2名と、日本陸軍のふん装をした男性による3名で、インドネシアの国旗を掲揚します。
 
「郷土防衛義勇軍(PETA)マーチ」(斉藤守氏訳)
 
1、
アジア すでに敵に向かい 蜂起せり
己を捨てて 全力を尽くす 連合国を粉砕せんと
玉散ることもいとわず 進め進め 義勇軍
アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
 
2、
古きアジア 不幸に苦しむ列しき圧制に 
幾世紀も忍ぶ 大日本 雄々しく立てり
アジアを救い 我らを守る 進め進め 義勇軍
アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
 
 
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スカルノ インドネシア元大統領
「インドネシアの独立戦争では、約3,000名の日本兵がインドネシアの為に戦ってくれました。私たちはその『心』を大切にし、同じアジアの民族として伝えなければなりません。その『心』は日本とアジアばかりではなく、世界の平和にも繋がるのです。
ところが、インドネシアの独立で通じ合った日本の犠牲的精神を、今の日本の若い人達はほとんど知りません。残念でたまりません。私達の独立の為に戦ってくれた日本兵の事を、きちんと日本で語り継いでほしいと思います。
そしてインドネシアに来られたら、ジャカルタの英雄墓地に眠る日本兵の奥城にお詣りして下さい。その墓標には、みなイスラムの名前と日本人の名前が彫られています」
 
サンパス 元復員軍人省長官
「特にインドネシアが感謝する事は、戦争が終わってから日本軍人約2000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれた事である。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけで済むものではない」
 
アラムシャ 元第3副首相
「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である」
 
ブン・トモ 元情報相
「日本軍がアメリカ・オランダ・フランスを我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。それなのに全て日本に背負わせ日本を滅亡寸前まで追い込んでしまった。申し訳ない」
 
インドネシア サンバス長官
「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ(アウンサン)、ラウレル、アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」
 
インドネシアの独立の礎となった日本軍将兵は、インドネシアをオランダによる350年の植民地支配から解放し、インドネシアは『ムルデカ(独立)』したのであり、これが大東亜戦争の真実です。
 
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【動画】
 
ムルデカ 17805
 
中山議員が「記事にするのは恥ずかしいような証言だ。どうしても日本を悪者にしたいらしい」と指摘したように、朝日新聞はインドネシア解放・独立のために戦った日本軍人を侮辱しています。
 
朝日新聞は廃刊しろ!
 
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転載元転載元: 近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』

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