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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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現代社会では、自分が生まれ育ったふるさとを離れて、慌しい日常を送る大人たちも多く、ふるさとへの誇りや愛着といったものが希薄になりつつあるのではないでしょうか。筆者が子供の頃、おじいちゃんやおばあちゃん、あるいは学校の先生から、ふるさとの発展に貢献した偉人伝の類を語り聞かされて育った子供たちも多かったと思いますが、いまはそのような機会も少なくなっているのではないでしょうか?


前川定五郎(まえかわさだごろう) 天保 てんぽう三年(一八三二年)十一月九日、 鈴鹿郡甲斐村 すずかぐんかいむら(現在の 鈴鹿市甲斐町 すずかしかいちょう)の農家の三男として生まれました。定五郎は貧しい少年時代を過ごした後、十八歳のとき 前川定八 まえがわさだはちの養子となりました。しかし、養子となった家も裕福ではなく、その四年後、養父が亡くなったときには多額の借金を抱えていました。そのため、昼間は宿でお客や荷物を馬に乗せて運ぶ仕事をし、夕方からは田畑で夜遅くまで働いて借金を返済しました。そんな毎日をおくるうちに、時代は明治を迎えていました。
 定五郎の住んでいた甲斐村には 鈴鹿川 すずかがわ の 渡 わた し(川を渡るところ)がありました。そこは江戸時代から東海道の宿場として栄えた 石薬師 いしやくし や 庄野 しょうの の町から近く、東西をつなぐ重要な場所で人の 往来 おうらい が盛んでした。しかし、橋や舟もなく、人々は歩いて川のなかを渡っていました。
定五郎は子どものころ、この川で遊んでいて川をよく知っていました。ですから、ここを通る人が安全に川を渡ることができるように気を配り、通学する児童が渡るときは一緒に川を渡りました。特に増水の恐れがあるときは、村の小学校へ 傘 かさ を持って迎えに行くなどして父母や児童から大変感謝されました。
明治二十九年(一八九六年)に大洪水が起こり、川底の土砂が流されて深くなり歩いて渡るのが困難になりました。そのため定五郎は私財で漁師から小舟を買いました。舟の代金は五円五〇 銭 せん で、これは当時としては大変な金額でした。
定五郎は川の両岸に 杭 くい を打ち、綱を張り、綱をたぐり寄せるようにして舟を進めて人を運びました。渡し賃はいっさい受け取りませんでした。しかし、人の往来が多いため舟では限界を感じてか、橋を 架 か けるための寄付金を集め始めました。そうして一五円集めて、明治二十九年十一月に川の 中洲 なかす をつないだ板橋を架けました。


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当時の定五郎橋の様子




 この橋は川底に杭を打ち込んで板を並べたもので、とても壊れやすいものでした。そのため、水かさが増したり風が吹くと 甥 おい の 利平 りへい と一緒に水の流れを変えるために川底を掘ったり、板を 荒縄 あらなわ でしばったりしました。それでも一ヵ月後の大雨による大増水で流されてしまいました。
定五郎はもっと丈夫な橋をつくろうと決心し、昼間は舟で人を運び夜は 寄付 きふ 集めに回りました。寄付集めは近くの村だけではなく山のふもとから海岸付近の村まで出かけました。こうして集めた寄付金一七〇円と自分の田畑を売って得た六〇円を加えた二三〇円で、明治三十年(一八九七年)十一月に二回目の橋をつくりました。こうしてできた橋は長さ一二〇メートル、幅一メートル二〇センチで、車や馬も通ることができました。
橋が完成してからも、定五郎は毎日橋に出かけて壊れたところを修理したり、通学児童に気を配ったりしました。往来する人が増えるにつれて、定五郎はより 堅固 けんご で幅の広い本格的な橋が必要と感じ、村や県の役人に橋の必要性を説いて回りました。橋のふもとに 土下座 どげざ をして橋を通る人に寄付を募りました。橋を渡る人には、快くお金を出す人もいましたが、なかにはお金を放り投げていく人や、見ないふりをしていく人もいました。



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前川定五郎の偉業をたたえて建てられた碑


 あるとき、鈴鹿郡の郡長が通りかかり、詳しく事情を聞くために、自宅へ来るよういいました。翌日、郡長が家にやって来た定五郎から話を聞いた後、昼食をごちそうするというと、
「郡長さん、わしはごちそうなどいりません。そのお 志 こころざし があるなら、その分だけ、せめて五銭でも寄付のほうに恵んでくだされ」
といって、定五郎は 土間 どま で持参した梅干しが入っただけの麦飯おにぎりをうまそうに食べました。その姿を見て感動した郡長は、すぐに県庁へ出かけ知事に橋の必要性を説きました。その結果、県からも資金を出してもらうことができ、また近隣の村や町からも寄付金が集まりました。そして三回目の橋を架ける工事が始まり、明治四十一年(一九〇八年)十一月に本格的な橋が完成しました。この橋は長さ二四五メートル、幅三・三メートルありました。郡長は定五郎の功績をたたえて「定五郎橋」と名付けました。定五郎は橋が完成してからも、毎日橋に出てその 維持管理 いじかんり に努めたといいます。
前川定五郎をここまでさせたのは何だったのでしょうか?
今ではあまり語られなくなった「滅私奉公」の精神、現在より少しでもよい郷土、よい国にして次の世代へ繋ぐ、「日本精神」だったのです。
 定五郎は、大正六年(一九一七年)五月十六日に八十六歳で没しました。定五郎橋の名が付いた橋は今でもその形を変えて、多くの人が行き交う架け橋となっています。


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現在の定五郎橋の様子





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現在の定五郎橋の様子



筆者がいつも悲しく思うことは同じ日本人でありながら本当に同じ日本人なのかと考えさせられる時です。この国に生まれ、この国の恩恵によって生かされ、守られている人生の現実を思う時、先人たちの血と涙と汗によって築かれて来た歴史の重さを感じざるを得ません。どれだけ多くの犠牲と苦労の上に私たちは今日があるのでしょう。
多くの方々が故郷で、実家でお正月を迎えられることと思います。
かって日本は大家族主義でした。皆が仲良く同じものを食し祝い、今年が良き年であることを念じ、祈り、正月をともに過ごしました。そこに家族が共にあることを喜んだのです。戦後、家族制度の崩壊で家族が散り散りになりました。
正月や8月のお盆や何かの行事には、「どんなことがあっても生まれ故郷へ」という回帰性を持ち、「故郷を思うこころが、御国の為に」祖国日本を思う心に通じてほしいと筆者は願ってやまないのです。
明らかに現代日本人は指標を失い迷走しているように筆者には映ります。
道に迷った時には、歩んできた道を戻れといいます。
原点回帰こそが日本人に今必要ではないでしょうか?
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集団的自衛権見直し 韓国国会が中止求める決議案採択

【ソウル聯合ニュース】韓国国会は19日の本会議で、日本政府が集団的自衛権の行使容認に向け憲法解釈の見直しを進めていることについて懸念を表明し、行使容認の動きを止めるよう求める決議案を採択した。

 決議案は「日本政府は集団的自衛権の行使容認を通じ、北東アジアで日本の影響力拡大を試みてはならず、韓国政府の容認や同意なしで朝鮮半島内で集団的自衛権を行使できない」とした。

 また、「日本政府は集団的自衛権の行使容認の前、過去の歴史を否定して美化し、歪曲(わいきょく)することがあってはならない」と指摘。「特に、戦時の慰安婦に対する人権蹂躙(じゅうりん)行為に関する明確な反省と賠償があるべきで、過去の侵略行為や靖国神社に合祀(ごうし)されている第2次世界大戦の戦犯に対する美化行為を止め、韓国の領土である独島に対する侵奪意図を放棄しなければならない」と強調した。
2013/12/19聯合ニュース
http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2013/12/19/0800000000AJP20131219003600882.HTML


 
>韓国国会は19日の本会議で、日本政府が集団的自衛権の行使容認に向け憲法解釈の見直しを進めていることについて懸念を表明し、行使容認の動きを止めるよう求める決議案を採択した。
 
日本に難癖を付けている場合なのか^^
 
北朝鮮は19日に国防委員会名義で、「予告なく打撃を与える」と韓国を威嚇する電話通知文を、韓国の大統領府・国家安保室に送りました。
 
これに対し、韓国政府は軍の通信線を通じ、「万一北朝鮮が挑発するならば、断固として懲らしめる」という内容の返信を送ったということです。
 
韓国は日本の領土である竹島を侵略している敵国であり、日本が集団的自衛権を行使し韓国を守る必要はありません。
 
仮に、朝鮮戦争が再開され朝鮮半島有事となった場合、日本政府が国民に対して果たすべき義務は、北朝鮮に拉致されている日本人と、韓国にいる日本人の救出です。
 
>「日本政府は集団的自衛権の行使容認の前、過去の歴史を否定して美化し、歪曲(わいきょく)することがあってはならない」
 
>「特に、戦時の慰安婦に対する人権蹂躙(じゅうりん)行為に関する明確な反省と賠償があるべきで、過去の侵略行為や靖国神社に合祀(ごうし)されている第2次世界大戦の戦犯に対する美化行為を止め、韓国の領土である独島に対する侵奪意図を放棄しなければならない」
 
韓国こそ日韓併合期の歴史の真実を改ざんするな!
 
日韓併合期まで日本国民だった韓国人は、「日本軍が20万人の朝鮮人女性を性的奴隷にした」など、日本軍が極悪非道な振る舞いをしていたと歴史を捏造しています。
 
日清戦争より大東亜戦争までの日本軍は、世界一規律正しい軍隊であり、日本軍人は「敵を敬う」という武士道精神をもっていました。
 
当ブログ読者の中には、「敵兵を救助せよ 封印された奇跡」での、駆逐艦「雷」(いかずち)の工藤俊作艦長のお話をご存知の方もいらっしゃるでしょう。
 
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私の祖父、近野信雄は昭和19年に戦死した海軍少将で、祖父にとって工藤俊作艦長は海軍だけではなく、山形県の母校と海軍兵学校の後輩でした。
 
工藤俊作艦長は、上杉家の「義」を重んじる心と、海軍兵学校の「士官たる前に紳士たれ」との教えを受けた、帝國海軍の職業軍人でした。
 
※「米沢興譲館中学」(旧米沢藩の藩校として設立された。現在の山形県立米沢中学校)
※「海軍兵学校」(祖父は48期・工藤艦長は51期卒)
 
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃の2日後、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃、最新鋭の不沈艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と、戦艦「レパルス」を撃沈した。
 
駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。
 
さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしなかった。
 
1942年2月15日、シンガポールが陥落すると、英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダの艦船と合同して連合部隊を結成した。
 
2月27日から3月1日にかけて 、ジャワ島北方のスラバヤ沖で「日本艦隊」と「英米蘭の連合艦隊」が交戦(スラバヤ沖海戦)、日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。
 
日本海軍は優勢で、日本艦隊は多くの敵艦を撃沈し、敵連合艦隊は大惨敗した。
 
撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」駆逐艦「エンカウンター」の乗組員400名以上が救命ボートなどによる漂流を続け、20時間以上が経ち生存の限界に達していた時、目の前に日本海軍の駆逐艦「雷」が現れた。
 
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英国海軍フォール中尉は、「日本人は残虐」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと、英海軍の漂流者たちは「死」を覚悟した。
 
「雷」は海面に浮遊する多数の英国兵を発見した。
 
この時期には、米蘭の多くの潜水艦がジャワ海で行動しており、わが国の艦艇も犠牲になっていた。
 
3月1日には、この海域で輸送船「加茂川丸」が敵潜水艦の攻撃を受け沈没し、工藤の兵学校時代の教官であった、船長の清水巌大佐(海兵39期)が船と運命を共にしている。
 
それほど危険な海域なのである。
 
敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。まさに交戦中の危険な海域での出来事であった。
 
だが、「雷」艦長の工藤俊作少佐は海軍兵学校で学んだ「敵を敬う」との武士道精神を見せ、「敵兵を救助せよ」と発令。
 
兵士達は、自分たちより数の多いイギリス兵を助けることに戸惑った。
 
しかし、工藤艦長の海軍兵学校の頃から教育されてきた武士道。
 
敵とて人間、弱っている人間を相手にフェアな戦いはできないのだ。
 
兵士達もこの考えに従うことになった。この命令により「雷」は、「救難活動中」を示す国際信号機を掲げ、英国兵の救助に当たったのである。
 
しかし、長時間の漂流で体力を消耗している英国兵を、海面から拾い上げる救助作業は難航した。
 
そこで工藤艦長は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」との命令を発し、船内総力を挙げての救助に当たるよう指示したのである。
 
ほぼ総員に近い兵員と、はしご、ロープ、竹竿、さらには、海中に飛び込んでまでの敵兵救助、魚雷搭載用のクレーンまで使用可能なすべての装備を投入した救助であった。
 
「燃料が不足する」との進言を受けても、工藤艦長は「漂流者を全員救助せよ」「漂流者は1人も見逃すな」、工藤艦長のさらなる命令により、「雷」は進行しては止り、すべての英国兵を救助したのであった。
 
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その数は実に442名であり、まさに「雷」の乗組員に倍する人数であった。
 
「雷」の兵員は、重油で汚れた英国兵士の身体を、アルコールと木綿で丁重に拭き取り、貴重な水と食料を提供したのであった。
 
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救助した英国兵の中から将校たちを甲板に招き、工藤艦長は次の言葉を発している。
 
You had fought breavely. 諸官は勇敢に戦われた」「Now, you are the guest of the Imperial Japanese Navy 諸官は日本帝国海軍の名誉あるゲストである」
 
工藤艦長のこの言葉に、英国将校たちは敬礼を以って感謝の意を表したのであった。
 
蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将は、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下した。
 
舷門付近で見送る工藤と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈った。
 
救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡された。
 
移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている「旭日の軍艦旗」に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにした。
 
工藤艦長は、1942年に「雷」艦長の任を解かれたが、「雷」は1944年4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦の攻撃を受け沈没し乗員は全員戦死した。
 
工藤艦長は、多くの乗組員が犠牲になったという自戒の念から、大東亜戦争終結後もこの救助事実を家族にも話さなかった。
 
昭和54年1月12日、工藤艦長は78歳の生涯を静かに閉じた。
 
工藤艦長は自らのことを何も語らずに亡くなったが、生前、一度だけイギリス兵について話したことがあるという。
 
彼がいつも持っている黒いバッグがボロボロだったため、姪が「なぜ新しいのに替えないの?」と聞いたところ、「イギリス兵にもらった大切なバッグなんだ」と語ったという。
 
工藤艦長の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。
 
工藤艦長は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。
 
この時救助されたフォール氏は英国に戻り、後にフォール卿となり外交官として活躍し、晩節に差しかかった1996年に自らの人生を一冊の著書にまとめた「マイ・ラッキー・ライフ」を執筆した。
 
その1ページ目には、この本を「私を救ってくれた日本帝国海軍の工藤俊作少佐に捧げる」と記している。
 
2008年12月7日、元英国海軍中尉サムエル・フォール卿(89)は66年の時間を経て、 埼玉県川口市 内の工藤俊作元日本海軍駆逐艦「雷」艦長の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えた。
 
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【動画】
 
これが日本人の精神 日本軍人 工藤俊作艦長の話
 
 
フィリピン
非常に感動的な物語だ・・・。
本来、人間はこうあるべきなのだ。
 
アメリカ合衆国(24歳)
この事実は、日本人が悪人でない事をはっきり示しています。
イギリスと日本に栄光あれ!
 
カナダ(54歳)
美しい話です。
溺れているイギリス水兵を救助するために、海に飛び込む日本水兵のシーンは非常に説得力があります。
戦時中に起こった全ての忌まわしい出来事に対して、ひとつの光をあてるものです。
 
アメリカ合衆国
非常に説得力があります。
こんな話はこれまで聞いたことがありませんでした!
 
タイ(46歳)
これは間違いなく賞賛に値する行動です。私は尊敬の念を禁じえません。
 
フィリピン(27歳)
とても感動的です・・・。涙が出てきました。
 
イギリス(35歳)
たとえ、戦いの中であったとしても、名誉と尊厳は存在するのだ。
 
アメリカ合衆国(31歳)
これこそ武士道です!!
原文
this is bushi-do !! 武士道
 
アメリカ合衆国
工藤俊作。この人はいい人だ。
 
オランダ
(上記のコメントに対して)
「いい人」って??
からかっているのか??
彼は偉大な男だ!!!!!
 
アメリカ合衆国
素晴らしい話であり、継承すべき物語です。
 
ドイツ(65歳)
ドイツから、この日本の勇士たちに最高の尊敬をこめて。
実際、ドイツには我々の歴史を通して、このように勇敢な同盟国は一度も存在しなかった。
私自身、元兵士として、この勇士たちに、尊敬をこめて敬礼を送ります。
 
ポルトガル
工藤艦長に敬意を表します。
 
オーストラリア(52歳)
素晴らしい話です。人間としての手本です。
ありがとう。
 
スウェーデン
彼に敬意を表します。
 
【告知】
 
 
日時・内容:
平成251223日(月)祝日
 
<日の丸行進>
13
30分 集合
【場所】常盤橋公園(地下鉄半蔵門線 三越前駅 の西、徒歩2分)
【一般参賀に参加された方】1230分 皇居外苑和田倉噴水公園集合
1400分 奉祝「日の丸行進」 出発
15
30分 奉祝「日の丸行進」 到着 日比谷公園
 
<大忘年会>
18
00分 開始(〜2100分)
【参加費】 3,500 ※ドリンク・食事付
【会 場】 サンライズビル東京 2F「ザ・グリーンホール」    
     ( 中央区日本橋富沢町11-12
      都営新宿線「馬喰横山駅」A3出口より徒歩3分)
【登壇予定】 田母神俊雄、三宅 博、赤池誠章、長尾たかし、三橋貴明、山村明義、片桐勇治 葛城奈海、濱口和久、佐波優子、三浦小太郎、伊藤祐靖、坂東忠信、鍛冶俊樹 タイラヨオ、永山英樹、三輪和雄、水島 総 ほか
主催:頑張れ日本!全国行動委員会
 
中韓を除く世界各国の人々は、「士官たる前に紳士たれ」との教えを実行した工藤艦長と、たとえ敵兵でも命を掛けて救助する日本軍の武士道精神を称賛しています。
 
日本軍は素晴らしかった!
 
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転載元転載元: 近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』

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韓国ソウルの日本大使館前では平成4年から「水曜デモ」なるものが行われています。民主党の岡崎トミ子が参加して問題になったあれです。これは従軍慰安婦への謝罪と賠償を求める抗議で「日本軍が朝鮮人女性を強制連行して従軍慰安婦にした」と言い、「歴史を忘れている民族に未来はない」というプラカードも掲げています。
 
歴史を忘れて未来がないのは日本はある意味ではそうでしょう。戦後の間違った自虐史観を持ち続ければ未来はないのです。
しかし、韓国人が声高にそれを言えるのか、ということです。従軍慰安婦を韓国が言い出したのは1990年頃です。しかもそれは日本から言われて「これはお金になるぞ」とわかってから言い出したのです。それまでは韓国で慰安婦と言えば「米軍慰安婦」のことを言い、韓国では触れてはいけないものだったのです。
 
韓国が慰安婦像まで建てて執拗に、無かった「従軍慰安婦」を言うならば、日本は実際に有った韓国のベトナムでの強姦虐殺をはっきり示すべきです。  
下の画像はベトナム戦争時の韓国軍の写真です。韓国人はこのベトナム人女性を全裸にして輪姦し、その後、拳銃で女性の顔面を撃ち抜いて殺害したのです。殺害しても笑って見ている韓国人の民族性は日本人には考えられないことです。
 
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20126月、セブ島で語学研修中の二人の日本人女性がリゾートホテルで二人組の韓国人男性と知り合い、バーでお酒を飲んでいたところ日本人女性のテキーラに薬物を混入し、意識を失わせ、そのまま近隣のモーテルに連れ込み強姦しました。強姦された日本人女性二人は陰部と肛門を裂傷する重傷で、警察が踏み込んだ時にはベッドのシーツが血で真っ赤に染まっていたとのことです。
通報を受けた現地警察は捜査を開始し、すぐに犯人逮捕に至りました。しかし、日本の新聞各社、テレビ各局は韓国人の残虐な犯行と被害者が日本人であるにも関わらずニュースにしませんでした。
 
日本人女性もマスコミに乗せられて韓国に行って喜んでいたら、そのうち取り返しのつかないことに巻き込まれる可能性が高いです。戦後、日本人女性は朝鮮人にどれほど強姦されてきたのか、民族性というのは変わらないのです。
我々日本人はこの事実をしっかり認識し、韓国人はそういう民族性であることを理解し、同じ目に合わないように、正しい真実を広めていきましょう。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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