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靖国神社を参拝した安倍晋三首相(中央)=26日午前、東京都千代田区の靖国神社
安倍晋三首相が靖国神社に参拝しました。筆者はじめ、多くの国民、遺族の方々がこの日を待ち望んでいました。首相が国民を代表し国のために戦死した人の霊に哀悼の意をささげることは、国家の指導者としての責務です。安倍氏がその責務を果たしたことは当然とはいえ、筆者は率直に評価したい。
戦没者の慰霊と靖国神社を巡る問題は、今世間を騒がせている国会の諸問題よりも、日本という国の根幹にかかわる問題です。それほど大事なことなのです。
日本人は自分の国をどういう国でありたいと考えるのか?自主独立の国でありたいと考えるか否か?自ら自分の国を守ろうとする意思を持つか否か?世界最古にして、世界最長の国であり、常に国民と苦楽を共有される万世一系の畏くも天皇陛下を仰ぎ、一国一文明、独自の文化と歴史を持つ国として、その文化と歴史を継承・発展させていこうとするか否か? 単なる個人の寄せ集めではなく、一つの共同体としてまとまった国であろうとするか否か? 先祖と自分たち、そして将来を担う子孫との間に、生命と愛情の「絆」のある国であろうとするか否か? これらの問いに深く関係する問題なのです。
明治時代の啓蒙思想家、慶応義塾の創設者でもある、福沢諭吉翁の、「一身独立して一国独立」を読んでいただきたい。
国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶること能(あた)わず。その次第三ヵ条あり。
第一条 独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず。 独立とは自分にて自分の身を支配し他によりすがる心なきを言う。みずから物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵によらざる独立なり。 みずから心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財によらざる独立なり。 外国へ対して自国を守るに当たり、その国人に独立の気力ある者は国を思うこと深切にして、独立の気力なき者は不深切なること推して知るべきなり。 第二条 内に居て独立の地位を得ざる者は、外にありて外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず。 独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる「習い、性となる」とはこのことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり。 第三条 独立の気力なき者は人に依頼して悪事をなすことあり。 世間に外国人の名目を借る者はあらずや。余輩いまだその確証を得ざるゆえ明らかにここに論ずること能わざれども、昔日のことを思えば今の世の中にも疑念なきを得ず。こののち万々一も外国人雑居などの場合に及び、その名目を借りて奸(かん)を働く者あらば、国の禍(わざわい)、 実に言うべからざるべし。ゆえに人民に独立の気力なきはその取扱いに便利などとて油断すべからず。禍は思わぬところに起こるものなり。国民に独立の気力いよいよ少なければ、国を売るの禍もまたしたがってますます大なるべし。すなわちこの条のはじめに言える、人に依頼して悪事をなすとはこのことなり。 右三ヵ条に言うところはみな、人民に独立の心なきより生ずる災害なり。今の世に生まれいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わずまず自己の独立を謀(はか)り、余力あらば他人の独立を助け成すべし。 (福沢諭吉著「学問のすすめ」より一部抜粋) いかがでしょうか?
独立自尊の精神を持ち、国家主権を堅持しようとする国民は、自ら国を守ろうという意思を持つでしょう。他国への依存や隷従をよしとしない国民は、そのために努力を惜しまず、自国の文化や伝統を大切にし、それを継承・発展させようと考える国民は、先祖や先人に対し、感謝と尊敬を抱くでしょう。自分達の子供や孫、さらに将来それに続く子供達への責任と愛情を持つ国民は、先祖や先人への愛情を持つだろう。そういう意思を持つ国民は、過去の歴史において自国を守るために命を捧げた人々に感謝と尊敬を禁じえないでしょう。そして、国を挙げて、心から戦没者の慰霊を行うでしょう。
逆に独立自尊の精神を失い、自ら国を守ろうという意思を持たない国民は、過去の世代の貢献に対して鈍感となり、戦没者の慰霊に無関心となろ、それによってますます独立心を失い、国家主権を保とうとする意志の弱い国となるでしょう。祖国の文化を粗末にし、歴史を忘れ、単に自分達の世代の快楽や繁栄をのみ追い求める国民は、先祖や先人に恩義を感じることがなくなるだろう。こういう国は、諸外国の圧力によって、平時からじわじわと溶解、退化していきます。一旦、戦いとなれば、侵略者に対してあっけなく敗れ、占領・支配され、下手をすると亡国にいたる。それが現在の日本という国の姿ではないでしょうか?。
過去において我々の先祖や先人が国のために命を捧げたということは、自分の命を犠牲にしてまでも、国を護ろうされたのです。自分の家族やその時代の国民のためだけではない。これから生まれてくる子孫や、将来の祖国・国民のためでもあったのです。しかし、戦後のわが国では自分を犠牲にして国のために尽くした人々の行為が正当に評価されず、名誉も与えらず、だとすれば、今後、国民が窮地にぶつかった時、評価されることもなく、誇りも名誉もない死とわかっていながら、誰が貴い生命を賭けて国を護ろうとするでしょうか? そして、自分が命を賭けてでも守る値があると感じるのでなければ、この国の文化や精神を本気で守ろうとする人はどれほどいるでしょうか?。
戦没者の慰霊という問題は、過去に亡くなった人たちの慰霊という問題だけではなく、現在、そして将来に渡って、自国をどのように国を維持し、発展させていくかという問題につながるのである。
わが国では、大東亜戦争後、くだらない憲法により、公より私、全体より個人を尊重する考えが大勢を占めています。個人主義・利己主義が蔓延し、長年にわたり倫理道徳が低下してきた。この傾向の背後・根幹には、国のために命を捧げた人々の存在への軽視があるのです。
わが国は、幕末の危機を乗り越えるために明治維新を成し遂げ、明治大帝の下、近代国家を建設し、主権国家として国際社会を歩んで来る過程で、多くの人々が尊い命を国の将来のために捧げた。その人々への感謝や恩義が忘れられていることが、国民道徳の崩壊の要因となっている。国民道徳の究極の拠り所を失ないつつあるからである。
靖国神社は、こうした国事に命を捧げた人々を追悼するための施設です。だから、靖国神社への正しい理解なくして、日本という国のあり方を根本的に考えることはありえません。それとともに、日本人の公共心、社会道徳の再建もありえません。
戦没者の慰霊と靖国神社を巡る問題とは、日本という国が、一つの共同体であろうとするか否かという大きな問題でもあるのです。すなわち、日本国民が共通の先祖を持ち、その先祖から受継いできた生命を共有し、独自の文化と歴史を継承してきたことを自覚し、今後とも生命と文化と歴史を共有する社会であり続けようという意思を持つか否かという、「国のかたち」を為す問題なのです。
慰霊と靖国という問題は、国家、主権、道徳、生命、文化、歴史、伝統等が結集する国家・国民の重要問題である。言い換えると、日本人が互いを結ぶ「絆」に関わる問題なのである。
日本人が、国と国民を結ぶ「絆」、アイデンティティーをも否定する、国が決してしてはならないことです。
前述した、福澤翁は、、「貧富強弱の有様は、天然の約束に非ず、人の勉と不勉とに由って移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」 と、日本人があるべき姿を説いておられます。 護国の神々(英霊)が望まれているのは、この精神ではないでしょうか? 動画は是非ご覧いただきたい。
動画に出演されておられる楊素秋さんは、著書『日本人はとても素敵だった』の終章に、「日本は私の故郷です。私には日本と台湾、祖国が二つあります。どちらが私の心を余計に占めているかというと、どちらとも言い難い。どちらも同じです。半分半分です」と書かれ、
「日本時代は私にとって、素晴らしい時代であり、私の人生の道標をこしらえてくれたと言っても過言ではありません。 私の心の中には、いつもとても綺麗な日の丸の旗が翩翻とはためいています。」と、締められています。 楊素秋さんは、今を生きる日本人には、「もっとしっかりしてほしい」と苦言を呈しています。それが、『日本人は素敵だ』ではなく、『日本人は素敵だった』である所以です。「素敵だった」のは、楊素秋さんにとっては、日本の統治に接した日本人なのです。 今の日本人に、どういう点でしっかりしてほしいかというと、第1に、今の豊かさと幸せを当たり前のものだとは思わず、豊かな国を築いて生き、そして死んでいった先人と、豊かさを与えてくれる母国に感謝して生きてほしい、第2に昭和20年に敗戦した戦争には「東亜開放」という面もあったことを忘れず、罪障観を持つばかりではなく、誇りも持ってほしい、ということです。そして、よりよい日本を築き、世界のリーダーとなり得る気概を持ってほしい、楊素秋さんは望んでおられるのです。
「日本の若者よ、背筋をシャンとしてお立ちなさい。そして自信と誇りを持って前に進みなさい!」と叱咤激励もしていらっしゃいます。思わず、子どもの頃、姿勢が悪いと言って、両親に物差しで打たれたことを思い出して欲しい。 楊素秋さんは、42歳で初めて来日され、ずっと行きたいと思っていた靖国神社に、何を差し置いても一番にお参りされました。「なぜなら、国のために惜しげもなく命を投げ出した御霊(みたま)にすくなくともありがとうと言いたかった」から、と・・・・。 |
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2013年12月27日
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世界各地でシナ民族の入植者や移民が問題となっています。
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在日中国人が犯罪に走る理由は「精神疾患」
華字紙・中文導報は21日、在日中国人が犯罪を起こしてしまう主な原因は、「精神疾患」だと報じた。在日中国人の「精神疾患」問題は非常に深刻だ。文化や習慣の異なる環境で、ストレスがたまりやすくなっているのだろう。周りの日本人がどんなに優しくしてくれても、彼らは自分自身が経済的、文化的に劣っているという「劣等感」に悩まされる。こうした劣等感や焦りが自尊心を傷つけ、何かあると過剰に反応したり、落ち込んだりといった精神状態に陥ってしまう。「精神疾患」を原因とする在日中国人による犯罪は、珍しくない。
2006年2月には、滋賀県在住の主婦・鄭永善が長女とその友人の園児2人を車で幼稚園まで送る途中、車内で園児2人を刺殺。 2005年6月には静岡日本語教育センターで、職員の李志忠が石原康彦理事長を包丁で刺殺するという事件も起きている。 今年3月、広島で中国人研修生が研修先の社長を殺害した事件も記憶に新しい。 こうした残酷な事実は、在日中国人たちに精神面のケアの重要性を呼びかけている。どうしても気分の落ち込みなどの症状に悩まされるようだったら、悲劇が起きる前に、どうか専門家の門をたたいてほしい。(2013.5.22 XINHUA.JP) ------------------
在日シナ人が日本に慣れずに精神疾患を起こして犯罪になるという記事です。ならばシナに帰れば治るのではないかと思えますが、その原因はシナにあるのです。
2009年にシナ共産党と国務院の出したシナ人民の健康調査報告書を見て胡錦濤と温家宝は驚愕したそうです。特にシナ人の精神疾患は深刻であったという結果です。『月刊中国』によると5000万人以上の精神疾患が存在し、半分近くは重症患者だというのです。しかしこれは医療機関で把握されている数であり、実際は病院に行けないシナ人も多いのでもっと多いそうです。この人数が毎年500万人ずつ増加しており、この精神病患者の起こす刑事事件が30万件以上に達しているということです。シナ社会が生んだ病です。
シナ国内の問題であればせいぜいシナ進出している企業の日本人には気をつけて下さいということですが、日本政府によるシナ人観光客を呼び込んで日本経済回復にしていこうという観光拡大政策やシナ人留学生の大量受け入れなど、この精神疾患者がどんどん日本に入国しているのです。
上の記事には日本に来て精神疾患になって犯罪を起こしているとありますが、実際はシナ自体で精神疾患者が増加して、そういう人間が日本に入国して、日本で殺人事件や凶悪な事件を引き起こしているのです。
しかも日本で犯罪を犯しても精神的疾患による刑事的無責任を訴えて罪を問われなければ、このシナ人の再犯率が高いのは目に見えています。
常に日本人が被害に遭い、やられ損の死に損であり、それがやがて知らないうちに日本のシナ化、つまり世界各国で問題になっている犯罪大国になっていくことになるのです。しかも日本政府がこのことに対して対策を立てていないのです。
すでに凶悪な犯罪が増えている日本で精神疾患のシナ人を無警戒に入国させていることも問題ですが、精神的疾患というだけで責任を追及できない日本の司法もおかしいのです。大体、犯罪者というのは精神状態が不安定で異常であるから犯罪を起こしているのです。その責任を問えないというのは逃げ口上を許すことになり、あまりにも加害者擁護し過ぎです。犯罪者の立場に立って人権擁護している日本の異常さがこのような矛盾を引き起こし、被害者ばかりが報われない社会をつくり出してしまっているのです。
今やどこに行っても外国人観光客、特にシナ人が多くてどこの国かと錯覚してしまうほどシナ語が飛び交っています。日本政府観光局は「観光客1000万人記念まんじゅう」でお祝いしているよりももっと現実を見て頂きたいものです。
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