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出光佐三翁 平成二十四年も大晦日を迎え、今日一日を残すのみとなりました。
年を追うごとに日本のよき伝統が失われ、現世の我々は「日本のこころ」まで置き去りにしてしているように筆者は思います。 多くの同胞の尊い命を奪い、美しい国土を襲い、未曾有の大災害となった一昨年の東日本大震災。
平成の国難と言っても過言ではありません。 その同じ年の六月、出光興産は新聞紙上に次の広告を記載しました。 「日本人にかえれ。」 昭和の国難と言われた大東亜戦争。
先帝陛下の「ご聖断」で終戦となったその2日後の昭和20年8月17日、佐三翁は社員20名を前に次のように訓示します。 「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」 さらに「海外から引き揚げてくる社員は一人もクビにしない!」と宣言しました。
当時の出光の全従業員数は、約一千名、約800名が、外地からの復員者でした。 終戦前の出光興産は満鉄を経由して朝鮮、台湾に進出し、さらにシナ事変の拡大と共に、シナ本土が拠点でした。 外地で力を伸ばした企業が、その外地の販路をすべて失い、資産もなく、事業もなく、膨大な借金が残っただけだったそうです。 出光興産は、復員者してくる社員のクビを切らないため、ありとあらゆることをやりました。 ラジオも売り、醤油も売り、酢も売り、畜産や養鶏、思いつく限りのことに手を出し復員してくる社員の為に頑張りました。 勿論、佐三翁も私財はおろか借金までして、給料を払い続けました。 昭28年3月、出光興産は、石油を国有化し英国と抗争中のイランへ、日章丸二世を極秘裏に差し向けました。同船は、ガソリン、軽油約2万2千キロℓを満載し、5月、大勢の人の歓迎を受けて川崎港に帰港しました。 これに対し、英国アングロ・イラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、出光を東京地裁に提訴。この「日章丸事件」は、法廷で争われることになりました。裁判の経過は連日、新聞でも大きく取り上げられ、結局、アングロ・イラニアン社が提訴を取り下げたため、出光側の勝利となりました。イラン石油の輸入は、その後、イランにおいてメジャー(国際石油資本)の結束が再び強化され、昭31年に終了しました。 しかし、この「事件」は、産油国との直接取引の先駆けを成すものであり、日本人の目を中東に向けるきっかけになりました。また、敗戦で自信を喪失していた当時の日本で、国際社会に一矢報いた「快挙」として受け止められたことも歴史的事実です。 昭和56年、出光佐三翁は波乱万丈の生涯を辞世されました。 佐三を支え続けた側近の一人石田正實は、安らかに眠る佐三の横顔を見ながら、 「この人は、生涯ただの一度も私に『金を儲けろ』とは言われなかった。 40年を越える長い付き合いだったのに……」と呟いて落涙したそうです。 出光佐三翁は生涯、「社長」でも「会長」でもなく「出光商会」の一介の「店主」を押し通されました。 晩年、出光佐三翁は次のように語られています。 「私は70年にわたって事業を営んできたが、その根底を成したのは終始 一貫して人間の尊重、人間本位のやりかたを貫いたことにある。本来、日本人は金銭のためにのみ働くのではなく、どの民族にもみられぬ協和の精神を持ってい る。この美徳が敗戦によってぶち壊され、今の世の中は金のみがすべてという風潮になり下がっておる。戦争前にもそんな輩(やから)はウヨウヨいたが、そん な連中はしょせん一時の徒花(あだばな)、長く続くものではない。出光が志向したことは、事業人として、また出光人として、この乱れた世の中に清廉の花を 咲かす。それを体現することにより、国家社会に大いなる示唆を与えたい・・・自分の一生はそのためにあったようなものです」 出光興産のモットーは、「人間尊重」「大家族主義」「黄金の奴隷たるな
かれ」「生産者から消費者へ」である。 出光佐三は常々語られています。 「君達、店員を何と思っておるのか。店員と会社は一つだ。家計が苦 会社は、ひとつの家族。地域も家族。国家も家族。
それが日本流の考え方です。 かって日本の企業はほとんどが終身雇用でした。 かっての日本企業は今日と違い、逞しく、頼もしい限りでした。 企業は、資本家(無産階級)と労働者(有産階級)の闘争の場である、と説いているのは、共産主義です。 経営者が(CEO)と称して巨利を得、景気が悪くなると生産調整と称して簡単にクビを切るのが、外国の企業であり、今日の日本企業の多くもこれを追従している有様です。 日本の流儀は違います。 日本人にとって、会社は「家族」です。 欧米の資本主義でもない。共産主義でもない。 古来より、日本の商家の考え方は、「社員は家族」という考え方です。 暖簾分けなどはその最もたる証左です。 なにごとも欧米かぶれ、追従するのではなく、わが国の先人に学ぶべきです。 出光佐三翁は、皇室を崇敬することが極めて篤く、また出光興産の東京本社には佐三翁の郷里の氏神である宗像神社が祭られています。 佐三翁が逝去したおり、先帝陛下(昭和天皇陛下)は、佐三翁に次の歌を賜っています。 国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思ふ (出光佐三逝く 三月七日) 筆者は常々思うのです。スイッチ一つで湯を張ったり、ご飯を炊いたりできる生活は便利ですが、機械任せの生活では、考えることも工夫することも必要なくなります。生活が一つ便利になるたびに、私たちは大切なものを一つずつ失っているような気がしてなりません。
筆者の生家はもちろん、戦前の日本では3世代同居が当たり前でした。夜は薄暗い電球の下、大家族がそろってラジオや普及間もないテレビの声に耳を傾けたものでした。分からないことがあれば、その場で大人に聞けました。テレビも一部屋1台の現代、パソコンや携帯メールの利用も増え、同じ部屋にいてさえ、顔を見て会話をすることは少ないという人が多いと聞きます。使われない言葉が廃れるのは当然ですが、カタカナ語やメールの絵文字の普及で言葉が崩れ、若者の思考まで単純化しつつあるのではないかと危惧しております。
高齢者は、先祖から受け継いだり長年の経験で身につけたりした知恵を持っています。核家族化が進み、お年寄りを施設にまとめてしまうような今の日本には、高齢者が若者と交流する場所がありません。せっかくの知恵、精神、魂が次の世代に引き継がれないのはもったいないと筆者は残念でなりません。
農耕民族である日本人は、昔から季節の移り変わりに合わせて生活してきました。「海の日」が制定されるまで6、7月には祝日がありませんでした。田植えを終えても草取りで忙しいこの時期、農家は休む間もなく働きます。その代わり暑い8月は休んで盆の行事をし、コメの収穫を終えた秋に盛大な祭りをしたわけです。6月の結婚「ジューンブライド」は、5月に麦の収穫を終えて一息つける欧米ならではの習慣です。近ごろは、日本のコメ文化が欧米のムギ文化に負けているのが残念でなりません。
人間だから忘れることもあります。忘れたものは思い出せばすみますが、捨ててしまったものは二度と取り戻せません。取り返しがつかなくなる前に、忘れかけているものをもう一度、引っ張り出してみることが必要ではないかと思います。
出光佐三翁は後世の我々に語りかけておられます。
「日本人にかえれ」と・・・
拙記事が本年最終の更新となります。
拙ブログへご来訪、ご支援、コメント等頂いた皆様、本年もありがとうございました。 来る新年が、わが国、同胞にとって安寧であることを願ってやみません。 来る新年が皆様にとって、日本國同胞にとって素晴らしい年であることを祈ります。 天皇 彌榮(すめらぎいやさか)
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2013年12月31日
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