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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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参道を進む勅使=13日、奈良市春日野町の春日大社






奈良市の春日大社で13日、御国の繁栄を願う「春日祭」が、畏くも天皇陛下の使者、勅使(ちょくし)を迎えて営まれました。
この日、勅使の堤公長・宮内庁掌典職が、二の鳥居をくぐった祓戸神社で小さな御幣を振って身を清め、束帯(そくたい)姿で参道を進んだ。
 魚や穀物を盛り分けた御棚神饌(みたなしんせん)が本殿に供えられ、馬を引き回す儀式や勅使が喜びを表す拝舞(はいぶ)が行われた。


春日大社(かすがたいしゃ)は、奈良県奈良市奈良公園内にある神社です。旧称春日神社。式内社名神大社)、二十二社の一社で、旧社格官幣大社。全国にある春日神社の総本社です。
二十二社(にじゅうにしゃ)は、神社社格の一つで、国家の重大事、天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた。後朱雀天皇治世の長暦3年(1039年)に22社目の日吉社が加わり、白河天皇治世の永保元年(1081年)に制度としての二十二社が確立したとされています。
 
春日大社は当初、春日神社と呼ばれていました。
飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)に発布された改新の詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革。乙巳の変(いっしのへん)で活躍した中臣鎌足(なかとみ の かまたり)が臨終に際し、大織冠とともに藤原姓を賜ったのが藤原氏の始まりです。
 『藤氏家伝』によると、中臣鎌足の出生地は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)
で藤原という姓も出生地の地名から取られたものですが、『大鏡』では、大原(現在の奈良県明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説もあります。
天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った鎌足の次男が藤原 不比等(ふじわら の ふひと)です。不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と言われています。
中臣氏(なかとみうじ)は、古代日本において、忌部氏とともに神事祭祀をつかさどった中央豪族で、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。天児屋命(あめのこやねのみこと)を祖とし、(かばね)は(むらじ)、八色の姓制定後の姓(かばね)は朝臣(あそみ・あそん)。天児屋命は、天孫降臨の際瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴してきた神です。
妻は天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した神として知られています。
八色の姓(やくさのかばね)とは、天武天皇天武13年(684年)に新たに制定された「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、(おみ)、(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓の制度のことで、真人は主として皇族に与えられたので、朝臣は最高位に位置します。
 
春日神社は、藤原 不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命・タケミカヅチノミコト)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まります。社伝では、神護景雲2年に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取神の経津主命(ふつぬしのかみのみこと)と、枚岡神社に祀られていた藤原氏の始祖・天児屋根命・比売神(ひめがみ)を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としています。比売神は、特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神をいいます。春日神社では、上述の天美津玉照比売命です。
 
春日神社の御祭神である武甕槌命様・経津主命様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神々であり、また天児屋根命様は神事と政治を守り導かれる神として、比売神様、平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてまいりました。この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神と申しあげ、また、春日四所明神、春日大明神として祭祀され皇室・国家の守護神とされてきました。
神紋は下がり藤。武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたとされることから、鹿が神使とされています。


春日祭(かすがのまつり/かすがさい)は嘉祥2年(849年)に始まったと伝えられ、明治18年に明治天皇の旧儀再興の意向を受けて翌年勅祭に列せられ、今日の形式になり、3月13日に定められた春日大社の例大祭。維新以前は年2回、2月と11月の上の申の日が式日であったことから申祭とも呼ばれました。三大勅祭(葵祭、石清水祭、春日祭)の一つで氏神祭の典型。他の勅祭と異なる形態をとっています。

勅祭とは、天皇陛下の使者(勅使)が派遣されて執行される神社の祭祀のことです。特に近現代の用語で、勅使派遣が定例になっている神社を勅祭社といい、多くは各神社の例祭となっています。
また勅使は原則として宮城(皇居)での宮中祭祀に当たる掌典をあて、勅祭の内、旧儀保存の目的で古式を参照した特殊な内容を持つものを特に「三勅祭」という。三勅祭とは賀茂神社の賀茂祭(葵祭)、石清水八幡宮の石清水祭、春日大社の春日祭の3つである。これらは江戸時代以前の慣例による束帯を着た勅使が派遣されます。

帝都、武蔵国一ノ宮の氷川神社、国家の保護の篤い橿原神宮・明治神宮・平安神宮・靖国神社などの例祭も勅使が派遣される勅祭です。




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賀茂神社 勅使参向





御田植神事(おたうえしんじ)



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春日大社・林檎の庭・榎本神社階下・若宮神社前の3か所で、八乙女が松苗を植える所作を行う田舞が、神楽男の奏する田植歌に合わせて3月15日奉納されました。

御田植祭は、平安末期の長寛元年(1163年)より続く神事で、古来1月8日以後の最初の申の日が式日でしたが、明治5年から現在の日に行われるようになりました。当日、田主、神楽男、八乙女たち奉仕者は若宮神社前南庭でお祓いを受け、林檎の庭・榎本神社前・若宮神社前の3か所で田舞の奉納を行います。これは、田主が鍬を使って耕す所作を行い、牛面をつけた牛男が唐鋤や馬鍬を引いた後、神楽男の歌と楽器(笏拍子・銅拍子・神楽笛)に合わせて八乙女の田植舞が行われます。この際、早苗に見たてた松苗を用います(枚岡の神が春日の地へ神幸の途中、白毫寺の宅春日の地で松苗を用い、不作に悩む民を救われた古事に基づく)。この時、御巫(みかんこ)の手によって播かれた稲種は年中夫婦大國社で授与され、霊験あらたかな招福開運金運のお守り「福の種子(ふくのたね)」として授与されています。


(参考文献、春日大社HPより)









四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
。「予祝」とは、あらかじめ祝うことですが、古代日本では、お祝いはめでたいことが起きたからするものではなく、先にお祝いをして めでたいことが起きるのを 予め祝い、そのの結果として祝事が起きると考えられてきたのです。
農耕民族であるわが国は、五穀豊穣、民族の生命線である多産を祈ってきたのです。「祝福」とは、忌み嫌われる言葉を話すと良くないことが起こり、逆に祝福の言葉で状況が好転するというもので、災厄を避けることにもつながります。
我が国は、「言霊(ことだま)の幸(さきわ)う国」とも称されるように、言霊に対する信仰が見られます。言葉には霊力が宿り、口に出されて述べることにより、この霊力が発揮されると考えられています。


神をも畏れ、敬わない人々が増えた昨今ですが、かっての日本人はすべてのものに神が宿り、支配しているものと信じ、崇敬していました。
混迷の現代、日本人はかっての日本人への回帰こそ必要なのではないでしょうか?
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法隆寺金堂と五重塔




日本の「木の文化」に対し、西洋は「石の文化」といわれます。古今東西の建造物を見ていただければお解りいただけるでしょう。
エジプトのピラミッドやギリシャの神殿などのように、ヨーロッパや中近東では、石を用いて建築物や工芸品を作りました。建てたときは永久不滅のものだったのでしょうが、しかし、その多くが今では廃墟になっています。しかも、建物が壊れて廃墟になっただけではなく、それを作った技術は勿論のこと、さらには、信仰や精神も消滅しているのです。

往古の昔より、日本人は木の家に住んできました。木にはいのちがあり、日本人はその木のいのちに包まれて、生活してきました。そこには、自然との深い融合がありました。今日の日本人は、そういう伝統の中にある心を忘れているのではないでしょうか。
 平成7年に86歳で亡くなった明治生まれの気骨人、西岡常一氏ほどそのことを強く感じさせてくれる人は居ません。氏は、法隆寺の近くの宮大工の家に生まれました。昭和9年から始まった「昭和の大修理」で、氏は、現存する世界最古の木造建築である法隆寺の金堂や五重塔の解体修理を手がけました。



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西岡常一氏



西岡氏は述べています。
法隆寺は1300年もの間、立ち続けてきましたが、その材木について、氏は次のように語っています。
「……ただ建っているといふんやないんでっせ。五重塔の軒を見られたらわかりますけど、きちんと天に向って一直線になっていますのや。千三百年たってもその姿に乱れがないんです。おんぼろになって建っているというんやないですからな。
 しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、鉋(かんな)をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。これが檜の命の長さです」
「こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。(樹齢が)千年の木やったら、(用材として)少なくとも千年生きるやうにせな、木に申し訳がたちませんわ」
 
樹齢千年の桧(ひのき)なら千年以上もつ建造物ができる、と西岡氏は述べています。氏によると、千年ももつ建物を建てるためには、使う木の生育状況を見て、適材適所の使い方をしなければなりません。木は人間と同じで一本ずつみな違い、それぞれの木の癖を見抜いて、それに合った使い方をする必要があります。日の当たる場所に立つ木、当たらない場所に立つ木など、場所によって様々な木があるためです。そこで、宮大工は木を買うのではなく「山を買え」と言います。切り倒した後の木ではなく、山ごと買うことによって、一本一本の木の特性を見極めなければならないからです。また、一本の木についても日向側と日陰側によって用途が違ってきます。だから、木について知り抜いていなければ、宮大工は、まともな仕事はできないと西岡氏はいいます。
 
西岡氏によると、昔の日本の大工は、ただ木を材料と見、道具として使っていたのではありませんでした。木の持ついのちにふれ、そのいのちに心を通わして、木を用いてきたのです。
「木は物やありません。生きものです。人間もまた生きものですな。木も人も自然の分身ですがな。この物いわぬ木とよう話し合って、生命ある建物にかえてやるのが大工の仕事ですわ。木のいのちと人間のいのちの合作が本当の建築でっせ」
そして、氏は、続いて建築の際に行う伝統的な儀式のこころを語ります。
「わたしたちはお堂やお宮を建てるとき、『祝詞(のりと)』を天地の神々に申し上げます。その中で、『土に生え育った樹々のいのちをいただいて、ここに運んでまいりました。これからは、この樹々たちの新しいいのちが、この建物に芽生え育って、これまで以上に生き続けることを祈りあげます』という意味のことを、神々に申し上げるのが、わたしたちのならわしです」

法隆寺は7世紀前半飛鳥時代の創建。その時代の大工がどれだけ立派だったかを氏は先人の偉大さに賞賛されています。

たとえば、建機などの道具がなかったのにいかに仕事が早かったか。
さらに自然を見抜く力と、建築物の構造体の美しさ。

総重量1200トンの五重塔が1300年以上も朽ちずに建っているという事実。その技術がどれだけ優れているか。ところが時代が新しくなるにつれ、構造の美しさが失われてきている。
法隆寺の解体修理のときに飛鳥の釘、慶長の釘、元禄の釘と出てきますが、古い時代のものはたたき直して使えるが、時代が新しくなるとあかん。今の鉄はどうかというと、五寸釘の頭など10年もたつとなくなってしまう。今の鉄なんてそんなもんでっせ。』と・・・

建築基準法にはコンクリートの基礎を打回して柱を立てろと書いてある。しかし、こうしたら一番腐るようにできとるのや。コンクリートの上に、木を横に寝かして土台としたら、すぐ腐りまっせ。20年もしたら腐ります。(略)明治時代以降に入ってきた西洋の建築法をただまねてもダメなんや。(略)今のように、なんでも人間の思ったとおりにできるのがあたりまえと思っているのがおかしいのや。木も人間も自然のなかでは同じようなもんや。どっちか一方がえらいゆうことはないんや。互いに歩みよってはじめてものができるんです。それを全部人間のつごうでどうにかしようとしたらあきませんな。
と、今の方が科学が進歩しているからいいものが作れると考えている現代人に警鐘をされています。

現在跋扈する宗教にも述べられています。

仏教は慈悲心ということをいいますわね。母親が自分の子供を思う心、これが慈悲心やと言われてますわ。仏教はその慈悲心を自分の子供だけではなしに、生きとし生けるものに及ぼそうという考えですわな。御利益ばかり願う宗教はウソや。利益はひとつの方便ですわ。本当の仏教というものは、自分が如来であり、菩薩であるちゅうということに到達する。それが仏教ですわな。いずれにしても、自分の体の中に仏があるちゅうことを見つけ出す。これが悟りといわれてるんですわな。』と・・・・

荒廃した日本人の自然環境についても警鐘されています。

いまは太陽はあたりまえ、空気もあたりまえと思っとる。心から自然を尊ぶという人がありませんわな。このままやったら、わたしは1世紀から3世紀のうちに日本は砂漠になるんやないかと思います。』と・・・

氏の大工の腕は一流でしたが、自身はあくまでも法隆寺の宮大工であり、聖なる神社仏閣以外は造営しない掟を堅く守られていました。

宮大工は民家は建ててはいかん。けがれるといわれておりましたんや。民家建てた者は宮大工から外されました。ですから、用事のないときは畑作ったり、田んぼ耕しておりました。
と氏は述べられています。
自宅を改装する時もわざわざよその大工さんにやってもろた。という程の徹底ぶりでした。そのために収入が少なくても気にすることなく清貧に甘んじられていたのです。

西岡家の床の間には今でも「不東」と書かれた軸が掛けられている。玄奘三蔵法師が経典を求めてインドに旅立、途中で危険な西方に行くのを諌められた時、「志を遂げるまで唐には帰らない」と自らに誓った言葉で
同時に法隆寺の昭和の大修理、薬師寺白鳳伽藍復興工事に携わったが終生大事にした言葉でもあります


太古の昔から木を用いてきた日本人が、代々受け継いできた経験と知恵を、西岡氏は語ってくれます。その言葉には、自然に学び、自然と共に生きてきた日本人の精神を感じ取ることができるでしょう。



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