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大礼服に勲一等旭日大綬章を着用した尾崎行雄
民主主義とは、デモクラシーの訳語であることはご存知だとおもいます。
デモクラシーは、「民衆が権力に参加する政治・制度」を意味しますが、戦後教育では米国から輸入したもののように教えています。
しかし、これは、戦後初めてわが国に移植されたものではなく、明治天皇による「五箇条の御誓文」に、既にデモクラシーは打ち出されています。以後、明治・大正・昭和とわが国のデモクラシーは発達を続けていました。
この三代を生きた日本的デモクラシーの旗手がいます。それが、「憲政の父」と仰がれる政治家・尾崎行雄です。
尾崎氏は、日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。正三位勲一等(昭和21年)5月4日付返上)。伊勢神宮内宮前・合格神社の祭神としても知られています。
95歳まで衆議院議員を務めたのは日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も同じく日本記録です。
尾崎氏は、若くして自由民権運動に参加し、大正期には大正デモクラシーの指導者の一人となって活躍しました。尾崎氏にとって、デモクラシーとは、「五箇条の御誓文」で示された、日本の伝統に基づく国是でした。
「世論公議を尊重する政治形体、すなわち独裁専制の反対で、明治天皇が御即位の初めにあたり、『万機公論ニ決ス』と誓わせ給いたるわが皇道政治と異語同質のもの」、それがデモクラシーだと尾崎は述べています。
明治大帝は議会を開き、憲法を定めあそばされた。そして、明治から大正・昭和と、憲法のもと国民が選挙によって代表を選んで政治を行う制度が定着・発達しました。
ところが、昭和の戦前期に、軍部が政治に関与するようになると、わが国の指導層から、明治大帝が示されたデモクラシーの精神は見失われていきました。それは、日本人が日本の伝統の精神を見失っていくことでもあったのです。尾崎氏はそのことを強く憂いました。
大東亜戦争の開戦後、尾崎氏は、米国や英国を「鬼畜米英」とののしり国民の戦意を煽るマスコミに対し、武士道に反するものと痛烈に批判しました。尾崎氏は、軍閥による強権政治に敢然と抵抗したのです。
東条氏がファッショ的な翼賛選挙を推進すると、尾崎氏は昭和17年4月、『東条首相に与えた公開状』をもって東条を批判しました。『公開状』で尾崎は、翼賛選挙は「一種の選挙干渉」であり、議会を官選に等しくする「非立憲的動作」であるとし、すみやかに選挙干渉を止めるように要求したのです。
そして、尾崎は氏立候補の趣旨説明で、自分が選挙に立つ目的を明らかにしました。
『最後の御奉公につき選挙人諸君に御相談』と題された一文で、尾崎は次のように述べています。「明治大帝が畢生(ひっせい)の御心労を以て、御制定遊ばされた憲法政治のために、身命を擲(なげう)つのが、最善にして、かつ最後の御奉公だと信じます」、さらに尾崎氏は、帝国憲法は臣民の権利を保証しており、「自由主義の憲法だと申しても差し支えないのです」と述べ、東条氏らのように「口をきわめて自由主義を悪罵することは、明治大帝や大正天皇を誹謗する事になりはしますまいか」と問いかけたのです。
尾崎氏は、自由主義の代議士・田川大吉郎の応援演説に立ちました。この演説は「尾崎行雄の天皇三代目演説」と呼ばれ、尾崎氏はこの演説で、明治大帝から三代目となる先帝陛下の御代になって、ますます日本は良くなったと天皇陛下の治世を称えています。ところが、この演説は東条氏らをひどく怒らせたのです。演説の中で、尾崎が東条氏を痛烈に批判したからです。尾崎氏は、東条は翼賛体制によって実質的に憲法を棚上げし、ファッショ的な独裁政治を実現しようとしており、それは天皇を棚上げするに等しいと指摘しました。この点が、東条氏の怒りをかったのです。東条氏の指示で、尾崎氏は不敬罪で起訴され、一審で有罪判決を受けました。尾崎氏は昭和天皇陛下を称えているのですから、不敬罪とはおかしな話ですが、為政者の都合による全く不当な政治的判決でした。
この当時、近衛氏や東条氏らが企図した大政翼賛会は、「幕府のようなものだ」と先帝陛下は強く危惧されました。
先帝陛下は、「五箇条の御誓文」と明治憲法を篤く尊重したことで知られます。先帝陛下は、明治大帝がお示しになられた日本の伝統に基づくデモクラシーを堅く守ろうと努められたのです。先帝陛下と、デモクラシーの政治家・尾崎は、ほぼ同じ見解であったことが推察できます。
東条氏は、先帝陛下と同じく日本的デモクラシーを守ろうとする尾崎氏に弾圧を加えました。東条氏の行ったことは、先帝陛下の意志に反するものであったことが明らかです。東条らの戦争指導者は、独伊のファシズムを模倣して、日本の伝統に基づくデモクラシーにそむき、諸外国の挑発に乗せられたと言っても過言ではありません。
戦後、尾崎氏は「憲政の父」として讃えられ、国民的な人気を獲得しました。憲政会を離党してからの尾崎氏は、無所属議員となりのち30年あまりを無所属で通した。無所属になったことは政界での尾崎の出世の妨げとなり、二度大臣となっただけで、総理大臣になることはできなかった。昭和29年に尾崎氏が亡くなるとと、国会はその業績を記念するため、尾崎記念館の建設を決議しました。現在の憲政記念館です。しかし、戦後の日本人は、尾崎氏が身を張って守ろうとしたものを正しく継承しえたでしょうか。
憲政記念館
先帝陛下は、昭和21年年頭、「新日本建設に関する詔書」を発した真意について、昭和52年8月23日、記者団に次のように叡慮を賜わりました。
「民主主義を採用したのは、明治大帝が思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもとになって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要が大いにあったと思います」と。
この言葉の意味を最も良く理解し得る日本人の一人が、尾崎氏でした。
現世の我々は、米国が押し付けた戦後民主主義ではなく、明治以来の日本的デモクラシーを発展させ、『五箇条の御誓文』の精神に立返り、継承すべきであると思います。
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2013年03月18日
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