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三宅 雪嶺(みやけ せつれい)
明治の日本主義者にとっては、ナショナリズムとインターナショナリズム、あるいは伝統的な精神文化とデモクラシーの総合が理想であり、また目標でもありました。この理想・目標は、混迷、迷走する今日の日本、21世紀を生きる我々にとっても、共通のものです。明治の日本主義を振り返ることは、今日の私たちが日本人はどうあるべきかを教えてくれています。
今日の下らない新聞とは違い、明治時代の言論界を代表する新聞『日本』には、三宅雪嶺、陸羯南、古島一雄、杉浦重剛、一流の言論人たちが多く集結し、格調高い論説新聞として大きな影響力を持っていました。
正岡子規もそのうちの一人であり、新聞『日本』の記者として同紙の文芸欄を担当し、ここを通して俳句・短歌の革新を進めました。
子規の墓の子規直筆による銘碑には、「日本新聞社員タリ」と記されています。
新聞『日本』創刊号
三宅雪嶺は、明治の中期から昭和前期まで活躍した精神的巨人です。国際的な視野を持つジャーナリストであり、哲学者、歴史家でもありました。万延元年、石川県金沢の加賀藩家老、本多家の儒医の家系に生まれ、昭和20年85歳で没しています。
明治21年、後藤象二郎の大同団結運動や条約改正反対運動など自由民権運動に関わる政府の条約改正案や欧化政策に反対して、志賀重昂らとともに政教社を設立し、雑誌『日本人』を創刊しました。
当時使われた「国粋」という言葉は、ナショナリティの訳語で民族性・国民性を意味します。そして、「国粋保存」という言葉が広まりました。しかし、雪嶺はこのことを残念がります。「国粋保存」は適当でない、「国粋顕彰」や「国粋助長」が良いというのです。実際、政教社の人々は、日本固有の制度や風俗習慣を、ただそれだけで保守しようとしたのではありません。欧化であれ国粋であれ、本当に価値があるかどうか十分考慮したうえで、取捨選択すべきだという合理的態度を良しとしたのです。
明治22年5月、雪嶺は『余輩国粋主義を唱導するあに偶然ならんや』を発表します。この中で、雪嶺は次のように書いています。
「たとい欧米の風俗を採用するも、たとい旧来の習慣を打破するも、日本在来の精神はこれを保存せざるべからず、これを顕彰せざるべからず、これを助長せざるべからず。ある部類の人士のごとく、その心志を英に化し、その精神を独に変じて、自ら得たりとするは、日本人にして日本人にあらざるなり、言を換えて言えば、泰西(=西洋)の利機はこれを採用するも、泰西の智識はこれを利用するも、各自『日本人』たるの精神はこれを喪亡せざるべしとすること、これなり」
雪嶺は東西の哲学を検討し、わが国における最初の自覚的な哲学書『哲学涓滴(けんてき)』(明治22年)を書きました。その緒論で次のように述べます。「東洋といひ西洋といへば、優劣自ら判然たるが如なれども、マルコ・ポロの元の世祖に仕へし時は、恐くは東洋を以て西洋に超越すと為せしならん」と。つまり、彼はかつては東洋が西洋にまさっていた時代があった、近代のヨーロッパの優越は相対的なものであると認識していました。「一盛一衰は自然の勢いのみ。盛なれば貴ばれ、衰ふれば賎(いやし)まる。(略)嗟吁(ああ)東洋果して永く下劣を甘んじて、西洋果して常に秀憂を誇るか。時あり、勢あり、資質奚(なん)ぞ異ならん」。彼は、やがて東洋が再び西洋にまさる時が来ることを、歴史的に予想していたのです。
雪嶺は、当時ほとんど顧みられなくなっていた東洋哲学を、世界の思想の中で、西洋哲学と並ぶものとして位置づけます。そして、東西両哲学の総合をめざします。「我国儒教を伝ふる久し。仏教を伝ふるも久し。若し泰西(たいせい=西洋)の哲学を注入し、混然和合して新に進化開達するに及ては、東海において宇内(うだい=世界)第二十世紀の哲学界を支配するを得ん」。雪嶺は、東西の思想が相補って世界の文明を進展させるべきだと考えました。この課題は、21世紀の東洋人の大きな課題でもあります。今から110数年前、明治維新後、わずか20年あまりの時代に、かくも雄大な思想が胚胎されていたことは、驚嘆に値しましょう。
雪嶺は、西洋白人種が支配する世界において、東洋アジア人が目覚めるべき時が来たことを感得し、日本人の個性と役割を自覚しました。彼は次のように書いています。
「その実力の薀蓄(うんちく)ひとたび暢達(ちょうたつ=発揮)せば、世界史のふたたび蒙古種の紀事に充たされんこと、けっして疑いを容るべからず。…東洋の問題に矻々(こつこつ=努力)するはまさにこれ蒙古人種を因睡(いんすい=眠り)より醒起(せいき=目覚めさ)して、重大なる任務のあるところを知らしめ、それをしてアリアン(=アーリア人種)と馳駆(ちく=奔走)して世界の円満なる極処を尋求せしむるのみ。二十世紀より後はけだし蒙古種に取りて好望の世なり。しかして日本人に取りてまたもっとも好望の世なり」
『真善美日本人』
雪嶺は、こうした主張を、続く著書『真善美日本人』において、大きく展開するのです。
三宅雪嶺の名を不朽のものとしているもの、それが、明治24年、わずか32歳で世に問うた名著『真善美日本人』です。
巻頭、雪嶺は次のように記します。「自国の為に力を尽すは、世界の為に力を尽すなり、民種の特色を発揚するは人類の化育を裨補(ひほ=補う)するなり、護国と博愛と奚(なん)ぞ撞着すること有らん」と。ここにおいて、雪嶺は、国家に尽くし民族の特色を発揮することが、世界のため、人類のためになる、愛国心と人類愛は矛盾しないと述べています。彼は国家と世界、民族と人類の間の共存調和を揺ぎない確信として語っているのです。
続く第1章は「日本人の本質」です。ここで雪嶺は「日本人とはなんぞや」と切り出します。まさに日本人論です。明治維新後、ひたすら西洋文明を志向してきた欧化の風潮に対して、雪嶺は、日本人にとって必要なことは、まず日本人自身が何であるかを知ることであると主張します。そして、日本人のアイデンティティの発見を訴えます。
注目すべきは、ここで雪嶺が、日本人の本質を、人類の進化という観点に立って自覚しようとしていることです。雪嶺は、人類進化の目標は、真・善・美という普遍的な価値の極致に至ることであるとします。そして、日本人にはこの理想の達成に貢献できる能力があるとし、西洋白人種が文明を独占していた当時の世界で、日本人は東洋アジア人として果たすべき使命をもっており、日本が覚醒した意義は大きい、と堂々たる見解を明らかにします。
続いて雪嶺は、真・善・美の三つの領域における「日本人の能力」と「日本人の任務」を追求します。「真」に関して強調されているのは、日本人は、大いに西洋に学んで科学的国家になるとともに、東洋に関する学問を興すことです。「善」に関しては、列強の圧力に抗し国家としての独立を維持しながら、人権・公徳の実現をはかり、進んで正義を行なうべきことが力説されます。「美」に関しては、日本人は美的感覚に優れているが、その美は繊細な美に偏っているので、東洋や西洋の諸国に学び、もっと壮大な美をめざすべきだ、と主張しています。そして、こうした考察の下に、雪嶺は、日本人には「大に其の特能を伸べて、白人の欠陥を補ひ、真極り、善極り、美極る円満幸福の世界に進むべき一大任務」があると主張します。日本人が自らの本質を自覚し、その能力を発揮すれば、西洋白人種の欠陥を補って、人類の進化に貢献し、真・善・美の価値を実現した世界に進むことができるというわけです。
こうした雪嶺の精神は独善主義を許しません。雪嶺は『真善美日本人』を公刊すると、同じ年、直ちに『偽悪醜・日本人』を世に出し、日本人の欠陥も厳しく指摘しました。本書と『真善美日本人』とは、一対をなしているのです。
本書で雪嶺が述べているのは、日本と日本人の現実に対する厳しい批判と反省です。日本の近代化とともに現れてきた腐敗への、彼の憤りの深さが感じられます。すなわち、日本人の果たすべき使命の実現には、徹底的な日本の浄化が必要であり、積年の偽・悪・醜を一掃しなければならない。「偽」については、日本の学問は官僚の支配下にあり、学者自身も曲学阿世や私利私欲の徒が多いので、その弊害から脱すべきこと。「悪」については、社会の腐敗の根源は紳商(社会的地位の高い商人)・政商の跋扈(ばっこ)にあるので、彼らを一掃すべきこと。「醜」については、西洋の美の模倣から脱して、力強い日本の美を生み出すべきこと、を説いています。
こうして雪嶺は、日本人の長所・短所、美点・欠点を総合的に把握し、そのうえで、日本人の世界史的使命を説いたのでした。個性の発揮を通じて、普遍的な価値を実現するーーそこに、日本古来の精神を発揚する意義があることを、雪嶺は今日の私たちに訴えています。明治の国粋主義あるいは日本主義は、独善的・排外的ではなく、国際的・人類的なスケールを持ったものだったのです。 余談になりますが、妻の三宅花圃(みやけかほ、旧姓:田辺)は小説家・随筆家・歌人。本名は龍子。元幕臣で後の元老院議官・田辺太一の長女として出生し、中島歌子の歌塾・萩の舎などで学ぶ。萩の舎の同門、樋口一葉の文壇デビューのきっかけを作った。著作に『藪の鶯』『花の趣味』などがある。樋口一葉と同門だった小説家、歌人。衆議院議員・中野正剛は娘婿。
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2013年03月23日
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昭和11年の二・ニ六事件で青年将校として連座した小川三郎という熊本男児がいました。まったく語られることのない日本男児をこのまま消すのは惜しいと思い、「輝かしい日本の発掘」としてここに記しておきます。
大東亜戦争でシンガポールが陥落する直前、タイのバンコクに岩畔機関(いわくろきかん)という特務機関が出来ました。この機関はインド義勇軍を組織して対インド独立工作を進めるというのが主な任務でした。
その機関員に小川三郎という少佐が配属されてきました。
機関長の岩畔豪雄大佐がその考課表を見ると、
「陸士第三十八期生卒業 序列が尻から二番目二・二六事件に連座して停職六カ月」
という豪の者で、機関長はどんなポストに使うべきか一寸迷っていました。
ある晩、夕食のとき、機関長は単刀直入に小川少佐に聞いてみました。
「君は陸士の卒業序列が尻から二番だがあまり勉強しなかったんだろう」と言うと、
小川少佐はすかさず「実に残念でたまりません」と答えた。
機関長はてっきり勉強もしてみたが不成績に終わって残念だという風に、ごく普通の解釈をした。ところがそうではなかったのです。
「私は陸士卒業の時、ぜひビリで卒業したいと努めたが、惜しくも念願がはずれて、尻から二番に止まり実に残念無念でした。ビリの卒業というのはなかなか難事中の難事ですね」と笑って答え、さすがに剛腹の機関長も呆気にとられたといいます。
大東亜戦争が進んでインドの志士チャンドラ・ボースをドイツから迎えてインド義勇軍の首領とし、小川中佐はその連絡に任じていました。
当時、インパール作戦後のビルマの日本軍は戦勢利あらず、後退に後退を重ねていました。サルウィン河畔に踏みとどまっていたチャンドラ・ボーズに対し小川中佐は言いました。「早く後方の国境山脈まで退られよ」と。
しかし何といっても聞き入れぬので、これ以上やせ我慢すべきではないと諌めた。
するとボースは言いました。
「約100名の女子義勇軍をラングーンに残していながら男の自分だけがどうしておめおめ後退できるか」
小川中佐はこれに応じて、
「わかった。私も日本人だ。日本軍人だ。誓って私が責任を以て女子義勇軍を救出し、貴方の膝下に連れ帰るから安心して後退せられよ」、と言うなり方面軍の後方担当参謀のところにやって来て、
「最小限4台のトラックを融通してくれ」と頼みこみました。参謀は「1台もない」と言う。
何とか工面してくれと迫ったが「ない袖は振れぬ」と言う。
小川中佐は厳然として、
「ない袖を振るのが参謀の真の役割だ。ある袖を振るのなら誰でもできる」
続いて言った。
「自分はインドのボース首領に誓ったのだ。ラングーンに残された女子義勇軍は日本人の面目にかけても断じて救出すると。今度の大戦はあるいは敗戦の破局を迎えるかもしれぬが、たとえどんな、どん底に陥っても日本人は嘘をつかなかった。どんな逆境に立っても日本の軍人は最後まで信頼できるとのイメージをインドの人たちに残して死にたい。
形の上の戦争ではたとえ敗れても心の上の戦争では敗れておらぬ証拠を世界の人々に示すべき絶好の機会だ。4台のトラックはこのため何とかしてくれ」
と熱情をこめて言い放ったのです。
黙々としてその言葉を聞いていた参謀は何も言わず、どこからか4台のトラックを工面してきました。
小川中佐は喜んでこれを受け取るとまっしぐらに包囲化の首都に駆けつけて無事、女子義勇軍約80名を救出し、ボース首領の手元に連れてきました。
その後、小川中佐は南ビルマの戦闘で戦死した。インパール作戦はまれにみる凄惨な戦いでありました。退却の戦闘で最も困難とされるのは「しんがり部隊」の行動です。その困難である「しんがり」を自ら買って出たのが小川でした。
退却する友軍を安全な地帯まで後退させるため、小川は幾多の困苦欠乏に耐え、
苦心惨憺の結果、その任務を十分に果たし得たのです。
もうこれで大丈夫、と思われる地点までたどり着いた時、小川は突然、踵(きびす)を返して、今来た方向に逆行して、ついに消息を絶ってしまいました。
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二・二六事件に連座した大蔵栄一氏は著書『二・二六事件への挽歌』でこのように書いています。
「私達の同窓にこんな誇り高い男がいたと言うだけでも肩身の広い感じがする。
たとえ日本の陸軍が滅びても、また熊本幼年学校はなくなっても、こんな物語だけは後の世にぜひ残しておきたいものである。日本の中にこんな考えの男がいたことを永久に残したいものである。」
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