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昨日、神宮参宮させていただきました。 ※二見興玉神社→神宮(外宮)→神宮(内宮) ご神恩、皇恩に感謝申し上げ、日本国の隆昌・安寧、皇室の彌榮を奉告させていただきました。 第一鳥居(外宮)
神宮・春の神楽祭 作曲は藤原忠房、舞の振り付けは敦実親王と伝えられています。内宮神苑に設けられた特設舞台で、神宮楽師らによる舞楽の一般公開がされました。
日本人は世界各国から「忍耐強い」「礼儀正しい」と賞賛されていますが、まさにそのとおりです。
多くの参宮者で溢れるご神域では、正しく歩き、誰も押し合う事なく騒がず静かに順番守っており、老若男女を問わず、正しい参拝の作法をほとんどの参拝者が心得ています。 心無い人の姿は見たことがありません。 改めて日本人の素晴らしさを再確認した次第です。 ※天照大神の御杖代として皇大神宮を現在の地に定め、神宮の基盤を築かれた倭姫命のご神徳を仰ぎ、毎年5月5日と11月5日には倭姫宮で神恩に感謝を捧げる例大祭が執り行なわれます。
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2013年04月29日
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昭和天皇陛下、香淳皇后陛下 御尊影
今日は昭和の日、先帝陛下の誕生日にあたります。
かって我国は、畏くも天皇陛下の誕生日を「天長節」皇后陛下の誕生日を「地久節」として国家挙げて祝い慶びました。 戦前の祝祭日は、根拠、目的、由緒がはっきりとしたものでしたが、戦後の祝日法によって定められた祝日は、目的、由緒が漠然としており、これでは何の為の祝日かわかりません。 昭和の日を「昭和節」文化の日を「明治節」とし、皇室祭祀にまつわる祭日も本来に戻すことこそ愛国心を涵養し、今の日本にとって大事なことです。 過去にご紹介させていただいた、先帝陛下のエピソードですが、先帝陛下の御遺徳を偲び、「大御心」に常に護られている国民として、感謝の意を捧げ、国旗を掲揚し、声高らかに、聖寿萬歳を唱えるものです。 公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王殿下
――昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?
■[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸/松崎敏弥殿下 二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたいことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。その時の記憶で特に鮮明なのは、陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と淡々とおっしゃったことでした。一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を言上(ごんじょう)したわけで、いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。
またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。 ――昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。 殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(信子妃殿下は麻生太郎元首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。 義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、 「太賀吉は元気でおるか?」 とおっしゃったのです。 実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。 ――国民に対するお気遣いも有名でした。 殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。 ――今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか? 殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。 ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、 「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」 とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。 また、伯父様はこうもおっしゃっていました。 「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」 まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。 当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。 後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。 ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「五つの佳話」/加瀬英明
天皇は敗戦の年の昭和20年12月に、松村謙三農林大臣を皇居に呼ばれてこういわれた。 「戦争で塗炭(とたん)の苦しみを受けた国民に、このうえ餓死者を出すことは自分には耐え難い。政府が要請をしたのにもかかわらず、アメリカは食糧を与えてくれないという。だが、考えれば、当方に代償として提供すべき何物もないのだから、いたしかたがあるまい。 それで聞けば、皇室の御物(ぎょぶつ。天子の所有物、あるいは皇室の所蔵品)のなかには、国際的に価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡して食糧に代えて、国民が飢餓を一日でもしのぐようにしたい」 そして帝室博物館の館長に命じてつくらせてあった皇室御物の目録を農相に渡された。天皇の意向は幣原喜重郎首相(在任昭和20年10月〜21年5月)を通じてマッカーサーに伝えられた。しかし、マッカーサーは「それは皇室の人気取りだ。そのようなものは必要ない。私が責任を持って、かならず本国から食糧を輸入する方法を講じよう」といって、緊急食糧を日本に放出するようワシントンに求めた。 昭和54年8月、宮内庁記者団とのご会見のときに、記者団から当時のことについて質問が出された。 「そういうことがあったのは事実です。しかし、自分のしたことですから、あまり公にしたくはありません」 これが天皇のご返事であった。 ※昭和24年から東宮御教育常時参与となった小泉信三博士は、皇太子(今上天皇)の教育係を引き受けるに当たって、昭和天皇に拝謁した。 そのときに、「陛下の御態度は、侍臣のおすすめ参らせた結果によるものでしょうか、あるいは古の聖人の書や明哲の伝記などをお読みになって、そういう習慣を御身につけられたのでしょうか」とうかがった。 すると、天皇はいとも簡単に「それは人のすすめによったものでもなく、読書の結果でもない。これはわが家の伝統である」とお答えになった。 ※天皇は酒を飲まれなかったし、美食を好まれることもなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。 ※皇太子が学習院初等科を卒業された昭和21年3月、天皇はお祝いに写真機を贈ることを思いつかれた。侍従に「市場にあるものは、闇市でたかいことだろう。(宮内省)写真部に中古はないか」と写真部から中古品を一つ取り寄せられた。 「これでよろしい。皇太子にはこれが手ごろだよ。あまり立派なものや、高いものを与えては、将来のためにならない」 といわれた。今上天皇のカメラ好きはこのときに始まる。 ※昭和のはじめ、陸軍大演習のため名古屋地方へ行幸された際、演習終了後に名古屋市内にある愛知時計電機の工場を視察されたその夜、30名ばかりの地方の民間功労者を晩餐(ばんさん)に招かれた。 時計が話題となった。すると陪食(ばいしょく)を賜(たまわ)った一人が、チョッキから金鎖を手繰(たぐ)り、金時計を取りだし、得意げに「陛下、これは外国製で御座居ますが、実によく合います。国産のものはどうしても不正確で、まだまだとうてい外国製には及びません」と申し上げた。 天皇はそれを聞かれると、ご自分の右ポケットから懐中時計を取り出された。 「わたしのこの時計は12円50銭の国産品だけどもよく合うよ」 と嬉(うれ)しそうに示された。その時計は侍従が天皇にいわれて東京・銀座のシチズン時計店で買ってきたものだった。高価な外国製時計よりもはるかに安価だったが、天皇はお使いになって外国製に負けないことを心から喜ばれていたのだった。 ※昭和天皇の即位式である即位大礼が行なわれたのは、大正天皇の諒闇(りょうあん。天子が父母の喪に服する期間)が明けた昭和3年11月だった。天皇は27歳。 翌月の15日、東京の皇居前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の諸団体から、青年男女約8万人が参加する大礼奉祝の式典が行なわれ、天皇が御親閲されることになった。天皇は大会の開催に同意されるとともに、天候を心配された。 「もしも当日、雨が降ることがあったら、青年たちに雨具を着用させるようにしてほしい。また、いかような大雨になっても、わたしが立つ場所に天幕を張ってはならない」 とお命じになった。当日は早朝から大雨であった。そこで、御座所の位置の上に天幕が張られた。宮内大臣をはじめ側近たちは天皇のご健康を思いやってのことだったが、天皇は「天幕を取りに除いてほしい。司令官も時と場合によっては第一線にたつことがある。今日はわたしのいうことに従ってほしい」と要望された。 午後2時、天皇は雨のなかを二重橋正門から自動車で式場に到着された。天皇が下車されると、侍従がすぐにうしろから雨用のマントをおかけした。だが、お立ち台の上でマントをお脱ぎ捨てになった。広場を埋め尽くした青年たちが篠突(しのつ)く雨のなかを雨具もつけずに全身を濡らしているのを、ご覧になったからだった。 やがて、青年たちが御前で分列行進を開始すると、天皇はずぶ濡れになられながらも繰り返し、挙手の礼をもって答礼された。多くの青年たちは感動して、涙が雨にまじって顔を濡らした。 天皇は式典が終わる1時間20分のあいだ、軍帽や軍服から水をしたたらせながらお立ち台に裁ち続けられた。 当時の代表的なジャーナリスト、徳富蘇峰は翌日の「国民新聞」に、式典の天皇の姿に感動して「真に感涙が溢るる」という文章を寄稿した。 |
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平成19年、安倍総理はカルカッタ市内のチャンドラ・ボース記念館に行き、歓迎を受ける中このように語りました。
「イギリス統治からの独立運動を主導したボース氏の強い意志に、多くの日本人が深く感動している」
これに対し、ボース将軍の姪クリシュナ・ボースさんはこう言いました。
「日本の人々がボースの活躍を覚えていてくれるのなら、私たちもボースがイギリスの植民地支配に抵抗するためにインド国民軍を組織したことを支援してくれたのが日本だったことを忘れることはない」・・・・・・。
昭和18年6月、東京に来たインドのチャンドラ・ボースは日本国民に向けてこのような挨拶を送りました。
「日本の皆さん、今から40年前、私がようやく小学校に通い始めた頃、一東洋民族である日本が世界の強大国のロシアと戦い、これを大敗させました。
このニュースが全インドに伝わり、興奮の波がインドを覆いました。いたる所で旅順攻撃や奉天大会戦の勇壮な話で持ちきりでした。
私たちインドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を敬慕し、尊敬しました。元帥や大将の写真を手に入れようとしてもそれが出来ず、その代わりに市場から日本の品物を買ってきて、日本のシンボルとして家に飾ったものでした。その間、インドの革命家たちは、なぜ日本が強大国をやっつけることが出来たのか、日本を訪問し始めました。
日本はこの度、インドの旧敵イギリスに対して宣戦しました。日本は私たちインド人に対して、独立のための絶好の機会を与えました。
私たちはそれを自覚し感謝しています。一度この機会を逃せば、今後百年以上訪れることはないのでしょう。勝利は我々のものであり、インドは独立することを確信しています」
この年の10月にチャンドラ・ボースは「自由インド仮政府」を樹立し、英・米に対して宣戦布告します。そして、同年11月5日に開催された大東亜会議に「自由インド仮政府」としてオブザーバーで参加します。
その後、インパール作戦でインド国民軍(INA)は日本軍とともに戦い、兵力6千のうち4百名が戦死したりして2千6百名となりました。
日本軍がインパールの南西の2926高地まで進撃した時、日本兵の赤い血を流した丘としてここをレッド・ヒルと呼んでいます。結局、日本軍は補給なく、戦死が続き、撤退やむなきに至ります。
昭和52年、現地の人たちでレッド・ヒルと名付けたこの丘のふもとに日本兵の慰霊塔を建てました。この慰霊塔建立を推進したロトパチン村のモヘンドロ・シンハ村長はこのように言いました。
「私たちは日本兵が、インドの解放のために戦ってくれたことをよく知っていました。私たちは食料や衣料を喜んで提供しました。
ところがイギリス軍がそれを知って阻止しました。日本軍は飢餓に追い込まれましたが、勇敢に戦い、次々に戦死してゆきました。この勇ましい行為はすべてインド独立のためだったのです。
私たちはいつまでもこの勇戦を後の世まで伝えていこうと思って慰霊塔を建てました。この塔は日本軍人へのお礼と独立インドのシンボルにしたいのです。そのため村民で毎年慰霊祭を行っています」
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このほど産経新聞で「国民の憲法」要綱を発表しました。
占領憲法の改正という“日本を貶める偽りの自由と平和と平等と民主主義の上塗り”ではなく自主憲法であります。
憲法というのは日本の慣習や国柄に基づいて制定されるべきであります。
そのためには正しい歴史認識に基づかなければ日本に合わないものになってしまいます。
大日本帝国憲法を起草した井上毅は起草のために国史を研究し、特に古事記や日本書紀から研究することであることに気付いたのです。それは不文の皇室の存在と天皇陛下の皇位継承でありました。日本には女系はない、見事に万世一系の男系男子の継承をなされていました。これをきちんと成文するために皇室典範が必要であると感じたのです。我が国の歴史を学ぶことで気付いたことでありました。
それに比して占領憲法は、GHQの憲法作成に影響を与えていた唯一の歴史家ハーバート・ノーマンの歴史観、つまり「戦前の日本は帝国主義の暗黒封建社会である」ということ、そしてその上に立ってケーディスら日本国憲法草案者は日本の封建主義を除去しようとします。つまり歴史観が間違っている者が作った憲法はその国民には合致しないということであります。
産経の「国民の憲法」には「日本は立憲君主国と国柄」を明記しています。これは非常に重要なことであります。特に現在の学校で使う公民教科書には「立憲君主国」という言葉は使ってはいけないということであります。これを使うと文科省から検定に意見が付き、「象徴天皇」と書くように強要されるそうであります。これは首相公選制、つまり左翼が望む天皇陛下を無くす「共和制」への一里塚ともいえるでしょう。ですから「立憲君主国」と憲法できちんと書かれていることが重要なのです。これによって教科書検定に意見がつかなくなるでしょう。
また「家族の尊重」もあります。これも公民教科書の平成20年からの学習指導要領には「家族」という言葉が消えたといいます。家族崩壊の日本にあって家族の大切さを教えないなどあり得ないことであります。(以上、新しい歴史教科書をつくる会の公民教科書担当の小山常美理事のお話より)
さて、この産経の「国民の憲法」に対して安倍総理と維新の会の橋下共同代表のコメントがあります。
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安倍晋三首相「言論界が憲法について自分たちの考え方、そして改正原案を世に問うことは有意義だ。オピニオンリーダーたる産経新聞としての見識を、世に問うことにもなる。憲法については、何と言っても国民的な議論を高めていくことが大切であり、その意味で、このように一石を投じたことに大きな意義があったと思う」
橋下徹日本維新の会共同代表「全文改正するのは不可能だ。自分の思いだけを出したような憲法案は国民に通らない。感覚的に中央集権体制丸出しの憲法になっている。朝日と産経の中間くらいを目指していくべきでは。僕はあんな産経の憲法が通ったら日本を脱出します。自治体に(国への)協力義務を課し、国民にも価値を強要している。(一方で)朝日の憲法試案もみたいですね」
(2013.4.27 産経新聞)
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「日本を脱出します」というのは「日本を捨てます」ということです。日本を簡単に捨てると発言すること自体、日本人ならば考えられないことであります。
明治の「維新」は中央集権国家にして日本を世界の一等国にまで築き上げました。
国家のために義務を果たすのは国民として、また自治体としては当然であり、国がなくなれば国民も自治体もないのです。
「維新」の意味することも理解せず、ただ単に名前をパクっただけであろうことは想像に難くありません・・・。
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