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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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服部ケサ
 
 
 
東日本大震災でも多くの方々が自らの命を犠牲にし、多くの方の命を救われました。
人が誰かの為に、自らの命を捨てること・・・
これ以上の至上の愛があるでしょうか?

「人。その友のために生命を捨てる。これより大いなる愛はなし」。わずか40歳という短い人生を、この言葉どおりにハンセン病患者への献身的な治療に棒げた、熱心な女医・服部ケサは、福島県須賀川に生まれました。
須賀川といえば、一昨年「憂国」の志半ばで亡くなられた敬天愛人さまの地元でもあります。
ケサの兄・躬治は、歌人で国文学者、また妹・てい子は、水野仙子の名で知られる女流作家で、ケサとともに「服部3兄妹」として、その名を今日に残しています。裁縫学校を出てからの ケサ は、縫い物ばかりの仕事に疑問を持ち、妹と同じように文学の道に進みたいと、歌人で国学者である兄の影響を受け、文学を志し上京。与謝野鉄幹と晶子の主宰する「明星」や、河合酔茗の「女子文壇」に投稿するなど、早熟な文才と情熱には、目を見張るものがあったと言われています。
しかし、もともと体の弱かった父、母、姉が次々と病気になりました。ケサは、ふるさとの須賀川に戻って一生懸命看病していましたが、看病しながら日増しに「医者になりたい」と思うようになりました。
ケサは思いきって父に打ち明けました。
「それもよかろう。けれどケサ、もっとも重い患者の友となるのでなければ医者としての値打ちはない。人にまねのできない医者になれ。私もできたら医者になりたかったのだよ」
父はこういって喜び励ましてくれました。
それからのケサは、医学校に入るため昼も夜も一生懸命勉強しました。入学したのは二十一歳、明治三十八年八月のことでした。ケサは、成績もよく、校内の新聞づくりでも文章が上手で友だちを感心させました。ところが、二十五歳のとき ( 赤痢に かかってしまいました。そればかりか、心臓、腎臓まで次々と悪くなってしまったのです。
「ああ、せっかく志を立てたのに、このまま死んでしまうのか」
ケサは苦しい息のなかで何回もつぶやきました。幸いにも家族や医学校の先生、友だちの寝ずの看病で奇跡的に助かります。クリスチャンであるケサは、人の優しさや神の愛を強く心に感じて、「人、その友のために生命を捨てる。これより大きな愛はなし」という言葉を心のなかに刻み付けました。
ケサは、医者の資格を持ちながらも東京の慈善病院に看護婦として勤めました。看護婦の仕事は、病人のためには、医者以上に大切な仕事と考えたからです。そして、この病院で多くのハンセン病患者と出会ってハンセン病の人のために一生をささげる決心をしたのです。
ハンセン病、その病気は、ノルウェーのハンセンという人が発見に由来します。そのころの人はハンセン病に冒されるとなおることのない病気だと思っていました。また、ハンセン病は「遺伝(いでん)」する病気だといやがっていました。だからハンセン病患者のいる家では、人に知られないように遠くの病院に入院させたり、隔離施設などに入れさせていました。
 ハンセン病がひどくなると、ひふや骨をくさらせ、鼻がおちたり、目のまわりがくずれたり、かみの毛がぬけたりします。そうなると、男女の区別もつかないみにくい顔になってしまいます。「人には見られたくない。」「見るのもこわい。」と思われる病(やまい)を治りょうする医者になろうと決心したことは、「ふつうの医者になるな。」という父の言葉が、いつもケサの心に根強くあったからです。
 
 
 
 
 
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看護婦の ( 三上千代子(みなかみちよこ) ) ともめぐり会いました。千代子はケサより少し年下で、ハンセン病患者のために何かをしてあげたいと思っているクリスチャンでした。二人の間には心に通じるものがありました。二人は生きる希望をなくした患者に、
「神が、あなたを守っています。そして、私もあなたの友だちなのです」
といって、患者の手を握って励ましました。
ある年、イギリスのコンウィール・リーという女性が日本を訪れ、自分のお金で、草津にハンセン病の病院を建てました。けれど、山奥ということもあり、医者も看護婦も来てくれません。リー婦人は困りました。そうこうしているうちに、草津で働くことが使命と考えた千代子が行くことになりましたが、看護婦の知識だけで多くの患者を治療することは無理です。千代子は医者の資格を持つケサに助けを頼んだのです。
「草津よいとこ一度はおいで……」の歌があるだけに、草津はよい温泉でした。戦国時代、戦いできずついた武士は、温泉でなおしたといわれます。特に、武田信玄は、家来たちに、この湯をつかわせたと伝えられています。九十度以上のあつい湯は、きずばかりでなく、ハンセン病にもよくきくといわれ、遠い不便なところからどんどんハンセン病患者が集まってきました。
 
ケサはすぐに草津に向かいました。草津で汽車を降りたケサは、病院がある 湯  の 沢まで山のなかを四〇キロメートル歩き続けました。これから先のことを思って弱気になったケサが顔を上げると、そこには雄大に 噴煙を上げる 浅間山がそびえていました。

「そうだ、あの山のように、大きな心を持とう…」
ケサは新たに心に誓ったのでした。
ケサは、毎日百人以上の患者を診ました。患者から若いけれど腕は確かだと頼りにされ、どこへでも往診に出かけました。雪の日は特に苦労しました。五キロメートル程度の往診は当たり前で、ときには一〇キロメートルも離れたところに、往診かばんやお産用具を持ってかごに揺られて治療に駆け付けました。
ケサの仕事は多くなり、休む 暇 もありませんでした。心臓の弱いケサは、ついにぜんそく発作のため倒れてしまいます。その上、妹のテイや両親が亡くなり悲しみでいっぱいでしたが、休もうとはしませんでした。どうしてもハンセン病患者の 憩 いの村をつくりたいという夢を実現させたかったのです。
大正十三年ケサは千代子と見たスズランの咲く土地に夢にまで見た病院を建て、鈴蘭病院の看板をかけました。
しかし三週間後、突然 心臓発作 を起こし、病院ができたのもつかの間、うそのように神様のもとに召されてしまいました。大正十三年十一月、四十歳の若さでした。
患者たちは、戸外にあふれ、家の周りを七重にも八重にも囲んで悲しみました。
かつてケサが千代子と遊んだ草津の 滝尻原 に十字架が建てられました。降りしきる雪のなか、墓前にひざまずいた千代子は、自分の体が雪にうずもれていくのも分からないほど泣き続けました。
 そしてこの鈴蘭病院は、昭和6年に国立療養所・栗生楽泉園となり、その後も、ケサの願いとともに、ハンセン病医療に大きく貢献しています。

 
 
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須賀川市の公立岩瀬病院の正門を入るとすぐ左がわに、三つの大きな碑(ひ)が立っています。そのまん中の碑には、女の人の顔と、その上に「頌徳(しょうとく)」の文字がきざまれています。
 碑の後ろにある、柿の木になったまっ赤な実が、秋の夕日に照(て)らされ、いっそう美しく輝(かがや)きます。女の人のほおも、夕やけにそまりながら、ふるさとにつつまれたようなやすらいだ顔にみえます。
 
「人。その友のために生命を捨てる。これより大いなる愛はなし」服部ケサの人生を讃えて・・・
 
 
三上千代子はケサ亡き後、全生病院に戻るが、再び草津で「鈴蘭園」を開設。その後東北で事業開始もいずれもうまくいかず、国頭愛楽園の初代婦長となる。戦後は、多摩全生園看護婦長となり、後にナイチンゲール賞を受賞。
 
永きにわたり、皇室がハンセン病の患者・回復者に心を配られてきた歴史は日本をおいて他国にはなく、古くは奈良時代・聖武天皇の后・光明皇后がハンセン病の救済施設として「悲田院」や「施薬院」を建設されたのが始まりと言われている。それは明治、大正時代にも受け継がれ、昭憲皇太后陛下、貞明皇后陛下もハンセン病の救済に大いにご尽力された。
貞明皇后陛下はその救済に心血を注がれ、皇后はご自身の誕生日である6月25日を『ハンセン病予防の日』とされ、差別や偏見のない社会を作るために積極的にご活動になり、これが皇室と福祉のかかわりの礎となりました。
現在、国立療養所は全国に13ヶ所、民間施設が2ヶ所に約1500名、平均年齢80.9歳の方々が生活を続けています。

全国の療養所には、天皇・皇后両陛下をはじめ、皇室の方々が慰問された折の記念植樹の木々がたくましく成長しています。皇后陛下もその伝統を引き継がれ、すでに11か所のハンセン病療養所をお訪ねになり、一人ひとりの手を握られ、激励と慰問の旅を続けておられる。
民間では日本財団の笹川陽平氏が亡父・良平氏の遺志を継ぎ、ハンセン病制圧活動に尽力されています。
人が誰かの為に、自らの命を捨てること・・・
これ以上の至上の愛があるでしょうか?
そして、それらに思いを寄せ忘れぬこと、語り継ぐこと、顕彰すること・・・
現在に生きる日本人の忘れ物ではないでしょうか?
 
 

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                   日本人慰安婦は決して名乗り出ない。
 
 
「慰安婦はいたが、従軍慰安婦というのはなく言葉すらなかった」
これは日本兵だった方に聞けばすぐわかることであります。
当時、慰安婦を「ピー」と呼び、「ピー屋」と呼んでいたと答えるでしょう。
なぜなら、慰安婦というのは軍属ではないので「従軍」という言葉がつくわけがないからです。
 
従軍慰安婦を初めて使われたのは戦後しばらく経った昭和48年、元毎日新聞記者の千田夏光が書いた『従軍慰安婦』の中で作った造語でありました。
その後、日本共産党の吉田清治が朝日新聞としんぶん赤旗で、自身の戦争体験で従軍慰安婦を書いて「勇気ある告白者」ともてはやされましたが、後に「人権屋に騙された」と白状して従軍慰安婦は嘘であったのがバレてしまいました。
さらに、朝日新聞の韓国特派員の植村隆が従軍慰安婦の記事を書き、この記事を韓国の新聞に取り上げられ、韓国で従軍慰安婦に火がつき、それが従軍慰安婦問題となりました。しかし記事には辻褄の合わない誤りだらけにもかかわらず朝日新聞は訂正もしなかったのであります。ちなみに植村隆の妻は韓国人で、その母親は太平洋戦争犠牲者遺族会の常任理事で日本政府から補償金の詐欺容疑がかけられているほどの人物でありました(上写真)。
 
これほど明確な嘘である“従軍慰安婦”を日本政府の公式見解として談話を出し、しかも学校の教科書で教えるとは、一体何を考えているのか、ということであります。
どうせ教えるならば、慰安婦も戦地で日本兵とともに日本のために命を捧げたことを教えるべきでありましょう。
 
パラオのペリリュー島の戦いは日本軍が全滅の壮絶なる戦いでありました。
この戦いの前に400人ほどの島民と慰安婦たちをパラオ本島へ疎開させており、その中に沖縄出身のある日本人女性の慰安婦がいるはずでした。
彼女は親に身売りされコロール島で美人で評判の22歳の慰安婦・久松でした。
彼女は独立歩兵第346大隊長と恋仲となり、ついに部隊がペリリュー島へ行く時に、「ともに死にたい」と言い、疎開せずに、髪を切り、軍服をまとい、サイズの合う軍靴がなかったので地下足袋をはいて同行したのでありました。
 
しかし、ペリリュー島北部で水戸山陣地を守った約600人の独歩346大隊は全滅。そして彼女もついに孤立し、三方から米軍に包囲され追い詰められました。女性とわかれば輪姦されて殺されるのは見えています。
その時、彼女は機関銃を乱射して抵抗し、米軍の死傷者は86名となったという。
手を焼いた米軍は決死隊を募り、戦車の援護射撃で彼女の注意を引いている間に背後に迂回してやっと射殺したということであります。
米兵が死体を見ると乳房が確認され女性であることに気づいたのでした。
その後、島民の証言で久松、本名・梅田セツであることが確認されました。
 
ペリリュー島で最後まで戦った彼女はお国のために命を捧げたともいえる死に方をされましたが、慰安婦であるために靖国神社に祀られることもなかったのであります。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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