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杉坂史跡(杉坂峠)
杉坂峠は播磨(兵庫県南西部)と美作(岡山県)を結ぶ交通の重要な場所で鎌倉時代には関所が置かれていたところです。
元弘の変(鎌倉幕府の滅亡〜建武政権の樹立に至までの内乱)の失敗で後醍醐天皇は、隠岐(島根県)に流されることになり、児島高徳という備前の武士が天皇を救出しようと杉坂峠(作東町)についた時には、後醍醐天皇はもう院の庄(津山市)に入った後でした。高徳が成し遂げようとして成し遂げられなかった無念の地が杉坂峠(すぎさかとうげ)です。 杉坂峠には、もうひとつ、あまり知られていませんが「涙の杉坂峠」という物語があります。 岡山県落合町鹿田 ( おかやまけんおちあいちょうかった ) にある 太平寺 ( たいへいじ ) の 境内 ( けいだい ) に、 石黒小右衛門 ( いしぐろこえもん ) 翁の 碑 ( ひ ) があります。 石黒小右衛門は、 元禄 ( げんろく ) 二年(一六八九年) 美濃国 ( みののくに ) (現在の岐阜県)に生まれ、 寛延 ( かんえん ) 二年(一七四九年)六十歳のとき鹿田代官に着任し、自分の身を 犠牲 ( ぎせい ) にして住民のためにつくしました。当時の日本では数少ない代官でした。 石黒代官が第四代鹿田代官として着任して七年目の 宝暦 ( ほうれき ) 五年(一七五五年)の九月、中国地方一帯を 襲 ( おそ ) った集中豪雨は三日三晩降り続き、中国山地を源に 瀬戸内海 ( せとないかい ) に流れる 旭川 ( あさひがわ ) は大洪水を引き起こし、各地に被害が出ました。特に 向津矢村 ( むかつやむら ) (現在の落合町向津矢)は、三七戸のうち二戸を残しただけで、ことごとく流されてしまいました。収穫間近の田畑も全滅し、村人や家畜もその多くが命を奪われました。 石黒代官は、領内の 被災地 ( ひさいち ) を見て回りましたが、家や田畑、家畜などの生活 基盤 ( きばん ) のすべてを失い一番大きな打撃を受けた向津矢村については、幕府の救いを求める以外に方法がなく、急ぎの使いを江戸に送り、指示が来るのを 一日千秋 ( いちじつせんしゅう ) の思いで待っていました。 いろいろ検討した末幕府が命じた内容は「向津矢村を 復興 ( ふっこう ) することはあきらめて、村民全員が遠く離れた 日本原 ( にほんばら ) へ移住せよ」というものでした。 この知らせを聞いた村民はひどく落ち込み、 先祖 ( せんぞ ) が眠り、長い間耕し守り続けてきたこの土地を捨てるにはしのびないとして、口々に向津矢村の復興を石黒代官に訴えました。 近隣 ( きんりん ) の村々からの 救援物資 ( きゅうえんぶっし ) も底をつきかけ、わずかな 余裕 ( よゆう ) もない状況になっており、村民の並々ならぬ決意を聞いた石黒代官は幕府の命令に 背 ( そむ ) いて向津矢村を復興することを決断します。 石黒代官は向津矢村の 結 ( むすび ) 神社 ( じんじゃ ) へ村民全員を集め、代官所が全責任を負って向津矢村の復興を何としても成しとげること、復興へのめどが付くまで 租税 ( そぜい ) を半分 免除 ( めんじょ ) することをいい渡しました。 さらに、働くことは一村一家をもう一度立て直すための原動力であり、真に家業に精を出せば神は必ず守ってくださると 訓示 ( くんじ ) し「心だに誠の道に 叶 ( かな ) ひなば祈らずとても神や守らん」という歌を書いて村民に渡しました。 石黒代官の取ったこの行動に村民は感激し、昼も夜も問わず 精魂 ( せいこん ) 込めて復旧作業に取り組みました。そのおかげで、約一年後には荒れ果てていた農地もほぼ被災前の姿を取り戻しつつありました。 しかし、石黒代官の行動は幕府の許可なしに行ったものでしたから、その事情を幕府に報告して改めて許可を受けようと江戸に向かいました。その結果はというと、 越権行為 ( えっけんこうい ) (許されていた権限を越えて事を行ったこと)として、幕府は厳しい処分を下したのです。 望みがかなえられないまま 帰途 ( きと ) についた石黒代官の乗ったかごが 播磨 ( はりま ) (現在の兵庫県)と 美作 ( みまさか ) (現在の岡山県)の国境にある 杉坂峠 ( すぎさかとうげ ) に差しかかったとき一台のかごが追い抜こうとしました。 呼び止めて行き先と用件をたずねると、他の代官に鹿田代官の仕事も兼務させるという内容の幕府の命令を伝えに行くところだとの返事がありました。 石黒代官が行なったことは、たとえそれが善行であったとしても、おかみの命に背いたとあれば、それは処罪にあたります。 もしかすると事情を賢察し、更迭で済むかもしれない。 しかし、たとえ更迭であったとしても、自分をとりたててくれた京都所司代土岐丹後守にご迷惑をおかけすることになる。 あるいは、後任の代官によって、おかみの命が年遅れでそのまま実行せられるかもしれぬ。 そうなれば、せっかく自分を信じて村の復興のために必死に働いてくれた村人たちの努力を水泡に帰させてしまう。 かくなるうえは、自分の一死をもって全責任を負う他はない。 これを聞いて自らの運命を 悟 ( さと ) った石黒代官は、かごのなかで 自害 ( じがい ) (自ら命を断つこと)したのです。 石黒代官の亡きがら( 遺体 ( いたい ) )は、 遺言 ( ゆいごん ) のとおり鹿田村の太平寺に手厚く 葬 ( ほうむ ) られました。この知らせを聞いた向津矢村の村民も、石黒代官の厚い恩に 報 ( むく ) いるべく結神社の 境内 ( けいだい ) に 末社 ( まっしゃ ) (神社に付属する小さい神社)として石黒神社を建て、村の 守護神 ( しゅごしん ) として 参拝 ( さんぱい ) を欠かしませんでした。その後この結神社は、明治四十二年(一九〇九年)、 垂水神社 ( たるみじんじゃ ) と一緒にまつられるようになりました。 鹿田においても自分の命をかけてまで領内の民を救った石黒代官の 偉業 ( いぎょう ) は、三〇〇年の歴史を持つ鹿田踊りの一節にも歌われ、現在まで語り継がれています。 石黒小右衛門末社
2012鹿田おどり 一昨年、わが国を未曾有の惨事とも言える大津波が関東から東北にかけて、美しい国土を襲い、多くの同胞が亡くなりました。 時の政権が右往左往し、被害をことさら大きくしてしまいました。 しかも、被災地の復興は遅々として進みませんでした。 被災地の復興を願い、死をもって責任を貫いた、石黒小右衛門は天界で、現世の官吏(かんり)をどう見ているでしょうか? |
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2013年05月15日
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橋下氏はアジア諸国に対する反省とおわびを表明した村山談話については
「日本は敗戦国。敗戦の結果として、侵略だと受け止めないといけない。実際に多大な苦痛と損害を周辺諸国に与えたことも間違いない。反省とおわびはしなければいけない」と指摘。(2013.5.13 朝日新聞)
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日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は14日、旧日本軍の従軍慰安婦を容認する自身の発言をめぐり「当時は世界各国の軍が慰安婦制度を活用していた」などと反論を展開した。与野党幹部からは批判が続出。政府は歴史認識問題の拡大を警戒、沈静化を図る構えだ。
安倍晋三首相は参院予算委員会で「慰安婦の方々が大変つらい思いをされたことに心から同情する」と表明。一方で「歴史認識は政治、外交問題にするべきではない」と述べ、問題を早期に収束させるべきだとの考えを示した。 これに関し橋下氏は「もっと日本人は歴史を勉強すべきだ」とツイッターで持論を繰り返し、強気の姿勢を強調。(2013.5.14 西日本新聞) -----------------
軍は慰安婦があることによって戦地での強姦をなくすことに役立っていたことは事実でありましょう。日本軍の場合は性病だけを衛生兵がきちんと管理していましたが、商売にはかかわっていません。
橋下市長の意見に対して批判は多い。
民主党の海江田代表は「女性の人権を無視した発言」と言いました。
当時は貧しくてやむを得ない面もあったであろうし、それによって家族に仕送りして助かっていた面も否めません。お金を貯め込んだ女性もいるでしょう。
それを現在の目線の見方をするから女性の人権無視と言う言葉が出てくるのでしょうが、そういう見方は歴史をゆがめてしまいます。
問題はこの発言です。
「日本は敗戦国。敗戦の結果として、侵略だと受け止めないといけない。実際に多大な苦痛と損害を周辺諸国に与えたことも間違いない。反省とおわびはしなければいけない」。そして「もっと日本人は歴史を勉強すべきだ」と言う。
もっと勉強すべきは橋下市長でありましょう。
我が国はたとえ敗戦して主権のない占領下で歴史を歪められても、占領を解かれて主権を回復した時には、お国のために命を捧げた先人たち、つまり日本国を白人の侵略・植民地から守るために戦った英霊たちの正義の戦いを、侵略とか植民地支配とかいう濡れ衣で貶められた名誉を回復しなければならないのです。
しかもアジア諸国は日本が戦ったおかげで独立を果たしたのです。アジア諸国は日本に感謝しています。感謝していないのは現地で白人たちといい思いをしてきた華僑など、日本軍によって現地人を搾取して苦しめてきたのを蹴散らされた連中です。
また橋下市長は日本人が正しく歴史を学べと言いますが、学べない要因として近隣諸国条項などがいつまでもあるのも問題なのです。文科省は近隣諸国は一度しか意見がついていないから問題ないと言っていますが、意見がつかなくても、条項があること自体、正しい歴史を書けないのです。
唯一、近隣諸国条項が発令された1991年の中学教科書検定では、「過去に迷惑をかけた歴史を忘れてはいけない」との記述に対して、「配慮がなされているとは言い難い」と意見が付き、「迷惑をかけた」を「堪え難い苦しみをもたらした」に変更されたのです。こういう状態で正しい歴史を学ばせるのは不可能であるのです。
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