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蒙古襲来経路図
朝鮮とは・・・
本編に入る前に、朝鮮とわが国の古代、中世での関わりを検証してみたい。 朝鮮は日本とは古代から交流ある国であり、江戸時代には将軍が変わるたびに朝鮮通信使を送って来てよしみを結んでいた。また鎖国政策をとっていた朝鮮が、宗主国である清を除いて唯一交易をしていたのが日本の対馬藩である。朝鮮は対馬を通して、銅、陶器、ミョウバン、紅絹(紅花染料で染めた絹布)、海気(絹の平織物)、砂糖、菓子、素麺、葛、紅粉(べにとおしろい)、唐木綿(西洋高級木綿)などを輸入し、輸出品としては、乕(虎)皮、豹皮、熊皮、犬皮、綿布、鱶鰭(ふかひれ)、北魚(スケトウダラ)、牛皮、牛角、牛馬骨、牛毛草、海蘿(ふのり)、朝鮮人参、熊胆、黄芩(オウゴン・漢方薬材)、牡丹皮(ボタンピ・漢方薬材)、山茱萸(サンシュユ・漢方薬材)などがあり、年間(明治8年の価格で)30万円ほどの取引があった。(「黒田弁理大臣使鮮日記 正本/1 明治8年12月9日から明治9年1月29日」p18) しかし同時に朝鮮はその位置から、冒頭の画像のように、例えば「元寇」に代表されるように日本侵略の拠点となりうる地であるのです。 百済の白村江の敗戦で唐の侵攻に怯えた古代、二度に亘る蒙古襲来に見舞われた中世、日清・日露の宿命的な戦争を戦った近代、北朝鮮の暴発と中共の横暴を恐れる現代と、古来より朝鮮半島は地政学的に日本の弱点だったのは歴史が証明しています。 日本が外国勢から侵略を受けるのは、「元寇」が初めてではありません。 わが国の記録によれば(『太宰管内志(大宰府管内誌)』『類聚三代格』『日本三代実録』『百練抄』『日本紀略』『扶桑略記』等)、それまでたびたび侵略を受け、九州北部はもとより薩摩大隅にまで及んでいたことが記録されています。 その大半は、朝鮮半島からのものでした。数隻の賊船によるものがほとんどであったが、中には、45隻2500人の新羅の者が来襲し、これを捕らえて問いただすと「王の命令を受けて略奪に来た」と述べたことがあった。(『扶桑略記』) 国籍がどこの国か定かではないが、最大規模のもので、承徳元年(1097年)、異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せ、大宰府官兵・九州軍士が賊船を撃破し賊徒数万を海没させた、という記録が残っています。 九州大宰府は古代から日本外交の窓口の役割を果たしてきたが、同時にそこは国家防衛の拠点でもあったのです。 「蒙古國牒状」 南都東大寺尊勝院所藏 東大寺宗性筆 写し
大宰府に蒙古の国書と高麗の副書を携えた高麗の使者が到着したのは、文永五年(1268年)正月でした。 上記画像の現代語訳 天のいつくしみをうける 大蒙古国の皇帝が、書を 日本国王に奉る。朕が思うのに、昔から小国の君主で 国境を接しているものは、音信を交わしあい、仲よくするよう努めている。まして我が祖宗は、天の明命を受けて天下を領有している。 その威を恐れ、徳を慕ってくる遠い異国のものたちは数えられないほどである。朕が即位した初め、高麗の無辜の民が久しく 戦争に疲れていたので、兵を引き揚げ、国土を還し 老人子供を帰らせた。高麗の君臣は感激して来朝した。義は 君と臣の関係ではあるが、父子のように仲が良い。思うに (日本)王の君臣もまたすでにこれを知っているであろう。高麗は朕の 東の属国である。日本は高麗に近接し、日本の開国以 来また時に中国とも交通をしているが、朕が即位してからはまだ 一度も使いをもって和交に通じることをしていない。なお恐れるは (日本)王国がこれを知るかはまだ審らかではないことを。故に特に使いを遣わし、書をもって朕の志を布告させる。願わくば今よりは問うて好を結び、 以って親睦をしたい。且つ、聖人は四海を以って 家とする。互いに通好しないことにどうして一家としての理があろうか。 兵を用いるを、いったい誰が好もうか。 (日本国)王よ、これを図れ。不宣 至元三年八月 日 当時の日本人が冒頭のくだりを読んで、まして文体として、「上天」はともかく、「大蒙古国」と「(蒙古国の)祖宗」が台頭書きしてあり、次の日本国王は一文字下げており、つまり初めから日本を格下としていることなどからも、普通に対等の国交を求める友好の文章と受け取る者はまずいなかったです。大国意識を露わにした、しかも日本を最初から下位の国と見なす「無礼」の書と我々の先人は解釈したのです。 「朕が即位した初め、高麗では無辜の民が久しく戦争に疲れていたので、兵を引き揚げ、国土を還し、老人子供を帰らせた。高麗の君臣は感激して来朝した。」 と、高麗を侵略して征服したことの意味にとれる文があり、 「兵を用いるを、いったい誰が好もうか。」 と、わざわざ結びの言葉に兵を用いることに触れているところに、友好の書どころか武力を背景とした威嚇の文面であることは明らかでした。後に日本からの返書案作成に臨んだ菅原長成もこのことを指摘しています。 結びの「不宣(文末に用いる語。述べ尽くさないの意。上下関係のない対等の友人などに対して使う)」から臣としない意味の友好の書である、などと我々の先人は解釈しませんでした。 しかし、今日ではそんなことを言う頭の可笑しい学者がおり、さらにそれを元に、だから返書をしなかった日本に非がある、という趣旨の番組を作った日本の公共放送局が存在するのです。 蒙古国使が次々と派遣されてきました、何らかの返答をするべきとして、実際に草案が作成されたが、文永七年(1270)正月付けのこの文書案にも、 『欲用凶器。和風再報、疑冰猶厚、聖人之書釈氏之教、以済生為素懐、以奪命為黒業。何称帝徳仁義之境、還開民庶殺傷之源乎。』 「(貴国は)凶器を用いたいという。聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と称して、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。」 と記して、まさに武力を背にしての交渉であることを痛烈に指摘しています。 「聖人・・・」のくだりは「聖人は四海をもって家となさん。」の文を受けての言葉である。 つづく結びの文章は現在と違い日本人の気骨を表しています。
『凡そ天照皇太神天統を耀かしてより、日本今皇帝日嗣を受くるに至るまで、聖明のおよぶところ左廟右稷の霊得一無弐の盟に属せざるなし、百王の鎮護はなはだあきらかに、四夷の脩靖みだるるなし、故に皇土を以て永く神国と号す、知を以て競うべきにあらず、力を以て争ふべきにあらず、一二を以て乞い難きなり、思量せよ。』 現代語訳に変えると、 「天照皇太神の天統にはじまり今日に至るまで、日本皇帝の聖明は国の果てまで及んで属さぬものなく、代々の王の徳の護りは行き渡ってどこも乱れるところがない。ゆえに天皇の国土を昔から神国と言うのである。知をもって競えるものでなく、力を持って争うことも出来ない、唯一のものであるから、よく考えよ。」 当時の日本人の思想・気概がよく分かる文章です。鎧袖一触の気魄と言うか、まことに勇ましいものがあるが、古代から幾度も外敵をはねのけて来た日本として、まして鎌倉武士政権ならではの気骨が垣間見れます。
結局、日本の運命は、蒙古との通交を受け入れれば、属国にされて蒙古の尖兵として戦争に駆り出されるか、それとも通交を拒否して、蒙古の侵略を武力で防ぐか、いずれにしても戦いは避けられないものだったのです。
『高麗伝』から 後には、蒙古の屯田兵のための用地の確保、牛馬の用意、食料の準備も整えねばならなかった。 文永の役の時にも、そのための戦艦九百艘の費用、その造船工匠役徒ら3万5千名に供給する食糧の調達、8千名の軍兵の提供と、その負担は計り知れず、さらには次のような献上も要求されたのです。 ・元宗十五年(1273)三月、元使が高麗を訪れて「南宋の軍人が妻を求めているので、夫のない婦女百四十人を献上するように」と命じた。督促は秋に至るまで激しく行われた。『高麗史』 ・高麗に駐在する元の役人もまた良家の婦女を求め、美女を選んで強制的に結婚した。高麗王は、何も言わなかった。『高麗史提綱』 ・忠烈王元年(1274)十月、処女を元に献上する時期が近づいていたので、国中で結婚が禁止された。『高麗史』 ・忠烈王二年(1275)閏三月、元使が高麗に至り、帰附軍のため妻となる女を献上するよう求めた。高麗王は寡婦処女を選別するための監督に金応文ら五人を諸道に派遣した。『高麗史』 これが当時の属国の実体である。浅薄な平和論者が元寇のことを語るなら、上記の史実を知っているのであろうか? 文永の役の時に次のような残虐行為がなされたことが記録されています。 『日蓮註画讃』 『二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。徹手結附船。不被虜者。無一人不害。』 「壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし。」 『一谷入道御書 建治元年五月八日』にも 日本人を拉致してきたことは、高麗側の記録にも残っている。
驚くことなかれ、現代においてもそれが彼の国には残っていることが韓国の新聞に報道されています。 朝鮮日報によれば、2002年4月16日に中朝国境付近の中国側で、北朝鮮の保安員(警察)が脱北者100人余りの集団を連行する姿を、あるアメリカ人が目撃したという。脱北者たちのほとんどは30〜40才代の男性で、20代の女性や年寄りの女性や子供も何人かおり、彼らは、手に針金を突き通され、さらに鼻にリングを刺してそれも針金に通された姿だったと言う。保安員等はトラックの荷台に彼等を乗せ、その時、針金をトラックに結わえ付けていたという。
日本人からすれば、想像するのも寒気がする光景ですが、拉致と残酷行為は、朝鮮の文化なのででしょうか?。 |
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2013年05月28日
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軍神 伊舍堂用久
沖縄のマスコミといえば『沖縄タイムス』と『琉球新報』の反日シナ寄りの左翼新聞でありますが、そういう中でも公正な報道を通しているのが『八重山日報』であり、その編集長の仲新城誠さんであります。声の大きな反日左翼闘争の巣窟である沖縄でよく頑張っておられます。また、同じような考えを持った沖縄と国を憂う有志の方たちも頑張っていると聞きます。
日本を正すということは、今まで正しいと言われてきたことを否定し、反日左翼勢力に屈せずに主張して行くことです。これには相当な困難が伴います。それでも目覚めた人からやっていかねば日本がどんどん悪くなっていくばかりであります。自分は知らない、という無関心ではいられないのです。
今、尖閣はじめ沖縄は危機と言えます。しかし尖閣のある石垣島にも立派な先人たちが日本を守るために命を捧げたことを知り、語り継いでいくことは非常に大切なことであります。以下、仲新城誠さんの記事をご紹介させて頂きます。
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特攻敢行した沖縄の軍神 戦争、軍事を否定する風潮は日本人の魂奪う
靖国神社の遊就館に石垣島出身の「軍神」とうたわれた人の写真(上)がある。
1945年3月26日、沖縄戦の特攻第1号として部下とともに石垣島から10機で出撃、慶良間諸島沖で米空母に体当たり攻撃した伊舍堂用久中佐(いしゃどう・ようきゅう、当時24歳)だ。自らの運命を予見するかのように空を仰ぐ姿は、当時の新聞に掲載されたものだという。打ちひしがれていた当時の国民に、沖縄の軍人が敢行した特攻は強いインパクトを与えた。
伊舍堂中佐は小学校まで石垣島で過ごした。陸軍士官学校を卒業後、航空隊で中国戦線を転戦し、45年、「誠第17飛行隊」の隊長として石垣島の基地に配属された。「自分の故郷は自分で守る」と意気込んでいたと伝えられる。 関係者の回想によると、まれに見る部下思い。地元に住む家族が手作りのごちそうを持参して会いに来ても、「部下の手前、忍び難い」と拒み通したという。 家族思いの一面もあった。自らが指揮する編隊が台湾に向かうため石垣島上空を通過した際、航空機を生家の上空で旋回させ、通信筒を投下。中には父宛てに「お元気で」と記した手紙があった。 特攻を前にした中佐の辞世の句を紹介する。 「指折りつ 待ちに待ちたる機ぞ来(きた)る 千尋(ちひろ)の海に散るぞ楽しき」 典型的な日本の武人として、故郷を守るため従容として死地に赴いた。戦死時の階級は大尉。特攻後、2階級特進した。 現在の石垣島、さらには沖縄で、中佐はほとんど忘れ去られている。 中佐のおい、伊舍堂用八さん(75)は「沖縄ではみんな『軍人は悪』というイメージしか持たない。沖縄戦の特攻を知らない人も多い」と話す。
沖縄戦が終結した6月前後に石垣島の各学校で行われる「平和教育」は「戦争の悲惨さ」を強調するだけだ。 米国同時多発テロの当時、用八さんは居酒屋で「特攻隊はテロリストだ」と観光客が話すのを聞き、「そうではない」と口論になった。戦争や軍事に関係するものをすべて否定する風潮が、日本人から魂を奪い去りつつある。 しかし、石垣島では有志を中心に、終戦記念日をめどに中佐の顕彰碑を建立する動きが始まった。近く募金活動が始まる。尖閣諸島を抱え、安全保障の意識が高まっているのだ。尖閣の地名は中佐の出身地と同じ「石垣市登野城(とのしろ)」だ。故郷を守るために身をささげた中佐も、天から尖閣問題を憂えているに違いない。(2013.5.16 ZAKZAK仲新城誠) -------------------
昔の帝国軍人は自分のことより、家族や他人のことを優先し、部下思いの方が多いような気がします。その遺書や字の上手さを現在と比較しても、その教育の高さがうかがえます。
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