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君が代
謹んでお伝えいたします。 畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては29日、宮城(皇居)宮殿におかれまして、来日中のインドのシン首相夫妻と懇談あそばされた。
懇談時間は約15分間。シン首相がデリーに整備された地下鉄などを例に日本の経済協力に謝意を示すと、畏くも陛下は「インドの発展と国民生活の質の改善に役立っているというお話を聞いて、うれしく思います」と叡慮を述べられた。
また、インド側の招待で今秋以降に両陛下の訪印が実現する見通しになったことに関し畏くも、陛下は「ご招待をありがとうございます」と叡慮を述べられた。
両陛下は懇談後、シン首相夫妻を御所でのご昼餐にもお招きになられた。
皇室外交の大切さ
平成24年5月19日、上毛新聞より引用
天皇訪英インタビュー 福田元首相に聞く また昨年の春の園遊会に招かれた、馮寄台(フォン ジータイ)氏(台湾の代表機関・台北駐日経済文化代表)は平成24年5月16日付け 読売新聞 「論点」で次のように述べていまので一部抜粋します。
先月、赤坂御苑で開かれた「春の園遊会」に招かれ、天皇、皇后両陛下から「台湾ありがとう」とお言葉をかけていただいたことは、私の外交官人生における最高の栄誉だった。日本人は強くたくましい民族である。大震災を必ずや乗り越えるものと固く信じている。 天皇陛下の叡慮によって、民主党政権の外交的失態をカバーされたのは周知の事実です。ほんとうに皇室外交によってわが国は何度救われただろうか。この大きな存在がなかったら日本の外交はどうなっていただろうか? いま日本には何があって何がないのか、再考すべき時なのです。
わが国にはまだ海外から尊敬の目で見られる「格や権威」というものがある。これはいくらカネがあっても、大国であっても買えるものでない。まして数年、数十年単位で作られるものではないのです。 皇室を大事にしないで日本人はどうするのでしょうか?。
どこを堅守せねばならぬのか自ずと分かるでしょう。 我々の祖先はそれを熟知、周知徹底していたのです。 保守とは、平沼赳夫氏が言われるように、「皇室」を崇め、お護りしていくことです。
天皇陛下、皇后陛下はじめ、皇族方がいつまでもお健やかであられることを、臣民の一人として祈念します。
皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・
天皇陛下、皇后陛下 萬歳 萬歳 萬歳
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2013年05月29日
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坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず、正字: 坤輿萬國全圖)とは、かつて作られた世界地図の一種でイタリアの宣教師マテオ・リッチが作成した漢訳版世界地図であり、地球球体説を基にして六枚一組にして、卵型の図形の中心に支那を描き、他に天文図なども含んだ。当時の中国人の世界観に大きな影響を与えました。わが国では徳川家康に将軍宣下(1603年)、つまり徳川幕府が開かれる前年、明国の万歴帝として知られる万歴30年、1602年に北京で刊行され、鎖国時の日本にも輸入され、世界についての知識の典拠となった地図です。 わが国では現在、宮城県図書館及び京都大学図書館に数部が保管されており、宮城県図書館ではそのレプリカが常設展にて公開されています。 韓国が主張している朝鮮海、すなわち東海の記述はどこにも見当たりません。 画像にもあるように、朝貢屬國之首すなわち、属国の筆頭であることが記載されています。 明治開化期までのわが国と朝鮮 そもそも、朝鮮は昔から日本を軽蔑していたようである。表向きは豊臣秀吉の朝鮮出兵に対する怨みからそうなったと言っているが(江戸時代中期の儒者、雨森芳洲がその態度の傲慢さを批判したことに対する朝鮮通信使・申維翻の言葉)、また後に、旅行作家イザベラ・ルーシー・ビショップが朝鮮人から聞いた理由としてもこの事を述べています。実はこれは儒教に基づく価値観によるものなのです。 まずわが国は、華夷秩序上、海の向こうの夷狄(野蛮)の国であり、さらに朝鮮が正式な文字とする「漢字」以外に「ひらがな」や「カタカナ」を使う。これは、朝鮮からはハングル文字と同様に愚民の為の文字とされてきました。さらに日本には儒教そのものがそれほど浸透しておらず、学問や政治に少し取り込んだぐらいで、それが朝鮮人からするととても野蛮に見えたのでしょう。今日でもよく知られた徳川時代の朝鮮通信使なども朝鮮側の記録を読むと日本人を内心では軽蔑していたことがよく分かります。 江戸幕末の頃、朝鮮は西洋列強が清国を侵略していることを知って攘夷を決定しました。 慶応2年(1866)3月には、朝鮮国内で布教するフランス人神父11名を含むキリスト教徒数千名を処刑し、それを怒ったフランスは2度にわたって艦隊を送ったが、朝鮮は2度とも撃退しました(但し、朝鮮政府から幕府への書簡の中での言で、実際にはフランス艦隊は海岸部分を一時占拠し、その後撤退している。これらも捏造です。)、また同じく9月には、大同江を行く米商船シャーマン号を焼き払った。 朝鮮政府は書簡を以ってその事を日本に知らせたが、徳川幕府はその後に、仏米両国が連合軍を整えて朝鮮を問責せんとしているのを知り、幕府は仏米に調停役を申し出、また対馬の宗氏を以って、朝鮮政府に対して事態を憂慮していることを知らせ、またそのことで幕府使節を長崎に送って朝鮮に渡海したい旨を報じた。 慶応3年(1867年)1月に清国広州の新聞『中外新聞』に掲載された、「八戸順叔」なる香港在住の日本人が寄稿した征韓論の記事がきっかけとなり、日本と李氏朝鮮および清国との間の外交関係を悪化させた事件が起きました。八戸事件です。 この事件はその後も10年近く尾を引き、後の江華島事件における両国間交渉にまで影響を及ぼしたのです。 八戸事件の実際は、誤情報でした。 明治元年(1868年)、明治新政府は朝鮮に使節を送って新政府の樹立を告げて新たな国交と通商を求めました。当初その使節となったのは、従来から朝鮮との折衝にあたってきた対馬の宗氏でした。 「王政一新萬機親裁ノ旨ヲ朝鮮国ニ通達セシム」と宗氏をして朝鮮通信使などの300年来の親交ある朝鮮に知らせ、従来どおりの勘合貿易と海難事故による漁民や商人の漂流民の保護などを確認したいだけのことでした。 しかし朝鮮は、儒教の礼義にかなっていないと、書簡「皇政維新の書契」受け取りを拒否したのです。 礼義にかなっていない文字が使われ、印鑑がいけない、文字の位置も違うという。どこがどうかと言えば「天皇」の「皇」の字がいけない、「天朝」なども使ってはいけないと難癖をつけてきたのです。そこで、朝鮮通信使時代の朝鮮側の文書にも「天朝・皇朝・朝臣」という文字を使っていたことなどを、日本側が示して追及すると、朝鮮の外交官は急に「病気」になったりして話し合いが引き延ばされたのです。 もうわけが分からない状態でした。これは宗氏から外務省が直接に折衝するようになってからも同じでした。 当時の朝鮮との交渉の記録を読むと非常に興味深い。(公文別録・朝鮮事件 公文別録・朝鮮始末 公文別録・朝鮮尋交始末、その他) わが国は繰り返し繰り返し何度も何度も話し合いを進め、朝鮮側に配慮して文章を変更しました。 これがまた半端な数ではなく、当時の史料を見ると、書き直しにつぐ書き直し、案件につぐ案件、印章も作り直したり、どの文章がいつの書契なのかよく分からないような量と手数の多さなのである。書記官たちは同じような文章をいったい何度書かされたのか、現在の日韓外交を鑑見ても実に同情にたえません。 しかし日本側のそのような譲歩にもかかわらず、明治元年から7年経っても朝鮮側は断固受け取り拒否したのです。 朝鮮の外交官僚の態度は日本人から見るとたいへん不誠実に見えます。まるで、嘘・ごまかし・公私混同の弁明・仮病・突然の前言翻し、など虚々実々の駆け引きのオンパレードです。それに対して、わが国はというと、ただひたすら辛抱強く粘り強く正論をもって交渉したのです。馬鹿正直なほどに・・。そこには日朝の文化、民度の違いが感じられます。 当時、日本外交官と折衝した府使や訓導らは、理由あって初めから詐偽を以って日本側に対応し続けており、後にこのことを知った朝鮮国王は激怒して彼等を斬首刑に処しました。 当然、日本国内ではだんだんと怒りの声が沸騰してきました。 曰く、「痛憤骨ニ至リ」「屈辱」「非常ノ無礼」「朝鮮ノ傲慢無禮」と。(各地からの建白書より)政治家、新聞社、士族、軍人、庶民までが、いわゆる「征韓の議論」をやり始めたのです。 西郷隆盛肖像(キヨソネ画) 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵
「征韓論」というと直ぐに西郷隆盛が代表し、朝鮮侵略、植民地化を狙ったものである、などと言う者があるが、これは大きな間違いです。
学校で教えていることは誤りです。
事実は、 西郷隆盛は「初めから軍隊を派遣すれば、朝鮮を無用に刺激して、まとまる話もまとまらなくなる。私が使節として単身、朝鮮に行こう。そして、誠意をもって説明すれば、きっと朝鮮政府は交際の必要性が分かるはずだ。もしそれで交渉がまとまらず、相手側が怒って万一私を殺すようなことになれば、それを理由に武力に訴えるのもよかろう」と反論したとあります。
一般に、西郷隆盛は征韓論を唱えて朝鮮侵略の口火を切ろうとした人だと考えられているが、それは、「日本は、明治の初めからアジア侵略の野望をもって行動してきた」と考える偏った歴史観にあわせて作られた虚像なのです。
「征韓の議論」とは、要するに、怒っているのである。そのために、「けしからん、いっそのこと軍隊を送って征服せよ」「いやそんなことをしては国家の財政が破綻する」「しかしこのまま黙っておれるか」「その気持ちは分かるがここは辛抱するしかない」「いや、これ以上皇国に対する無礼に堪えられるか」などなどの議論が国を挙げて百出したのである。つまりは朝鮮を征服したいというよりも、懲らしめたいのである。言葉としては「征韓論」なのであるが、その内容は感情的なものであったのです。 これらの嫌韓感情は今日と酷似していると筆者は思います。 明治9年に「日朝修好条規」が結ばれて交際が正常化すると、あれほど激しかった「征韓論」は国内からすっかり消え去りました。もし「征韓論」が、朝鮮を征服したいとの「日本の野望」から生じたものであるなら、たとえ国交はなっても、相変わらず盛んに議論されたであろう。否むしろ、釜山、元山、仁川の居留地が出来たことから、いよいよ征服の足掛かりが出来たと、益々声が大きくなったのではなかろうか。しかし、事実はそうではなかった。それどころか、日本人はやがて朝鮮の実情を見聞するにしたがい、朝鮮が清の属国の地位に甘んじ、貧国弱兵の国となっていることから、これを開明に向かわせ、独立国として、また中立の立場をとる富国強兵の国として発展することを強く望んだのでした。 続く |
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