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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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明治大帝 御真影



「降る雪や明治は遠くなりにけり 」

昭和58年に亡くなった俳人、中村 草田男(なかむら くさたお)氏は明治生まれでした。昭和の時代を目の当たりにして、雪が降るという季節の節目に立ち、母校の小学校を尋ねた際に作った句だそうです。
生まれた時代を振り返って、明治という時代が遠くになったものだな、と言う感慨を句にしたものと思います。
年は、明治大帝崩御されてから100年の年でした。
平成時代に生きる私たちには身近に想い出すこともない過ぎ去った時代です。
しかし、現今の日本が大変な国難にある時、先人たちの誠と精神にもう一度倣うべきであるように感じます。
明治の御代は明治大帝の即位に始まり、明治大帝の崩御によって終わりました
現代と比較にならないほど、江戸時代末期から明治維新を迎えようという激動期、国の内外から押し寄せる難問題を乗り越えて近代日本が誕生するかどうか、先人たちはどんなに難儀したことでしょうか。
激動の時代に崩御された孝明天皇の後を継承されたのが、御年わずか16歳(満14歳)の明治大帝でした。

わが国の幸いは、英明なる明治大帝を戴いたことでした。
明治大帝は、天地神明に誓う形で「五箇条の御誓文」をもって国是とされさらに明治3年正月に「神霊鎮祭の詔」を示されました。

そこに、若くして皇位を継がれたお覚悟を明らかにされました。
それは、連綿と受け継がれた、天を仰いで祈りつつ政治を行なうという国柄を護って、新しい日本の国を発展させることにありました

曇りのない鏡が真に物事を映すことができるように、国家の大本がいつも清くあり、
天意を受けることができるようにと願われたのです

大御歌(おおみうた
【 受けつぎし 国の柱の 動きなく 栄えゆく世を なほいのるかな 】

神霊に加持されて国づくりを始めた神武天皇以来の古の道、惟神の大道を国民に示そうとされたのです。

大御歌(おおみうた 
【 おのが身は かへりみずして 人のため つくすぞ人の つとめなりける 】

「我が身のことは顧みず、世のため人のために尽くす。それこそが人間の大切な責務である」というこの大御歌は、明治大帝が最も大切にされた「日本人の魂」であり、
また明治大帝のお姿そのものでもありました。

幕末動乱の時代にご降誕され、お若き頃より明治日本の中心となられた明治大帝は、やがて欧化に流れ、西洋の文物ばかりが価値あるものとされる世の風潮に疑問を抱かれました

「伝統あるわが国のかたちとは、いかなるものか。そして新しき世に、天皇はいかにあるべきなのか」その内なる問いかけに真摯に御心を砕かれ、到達されたご境地が、先の
大御歌に象徴されるものでした。

「洋才も必要ではあるが、日本人には長い歴史と伝統に育まれた、世界に比類なき
『和の心』『まことの道』というものがある。
それを変えることなく、大切に守るべきではないか。

そしてそのためには日々心を磨き、国民に向けて、日本人のあるべき姿を体現できるよう、自ら率先して努めねばなるまい」

そうしたご決意のもと、明治大帝は常に「公」を思い、「私」を無にして、国家の規範としての憲法の制定や、国民の道徳訓としての教育勅語を発せられ、日本と日本人を導かれたのです。

そうした明治大帝のお姿は、日本人にとって、困難な時代に行く手を指し示してくださる光明を見る思いであったことでしょう。


「至尊」〜 大正天皇陛下、皇太子殿下時代の御歌(明治29年)

至尊九重内   至尊九重ノ内
夙起見朝廷   夙起朝廷ヲ見ル
日曜無休憩   日曜休憩無ク
佇立負金瓶   佇立金瓶ヲ負フ
萬機聴奏上   萬機奏上ヲ聴キ
仁慈憫生霊   仁慈生霊ヲ憫レシム
余暇賦国雅   余暇国雅ヲ賦シ
諷詠不曽停   諷詠曽テ停メズ
日晩始入御   日晩始メテ入御
聖体自安寧   聖体自ラ安寧
  
(大意)
皇居に住んでおられる天皇陛下は
朝早くおきて公務に就かれ
日曜日でさえお休みは無く
金屏風を背にお立ちになったまま
政府役人のたくさんの報告を聞かれ、
愛情深く国民をいつくしまれる
時間があれば和歌を詠む事を心がけ
これを決してやめられた事は無い
夜も遅くにはじめて御所に戻られる
それでもお身体には何のお障りもなく
安らかにおられる

明治大帝の日常を詠まれたものです。

明治12年「教学聖旨」作成し、政府の中枢を担っていた伊藤博文に下付された。

「一時、西洋の優れたるところを取り、進歩の効をあげたが、その弊害で仁義忠孝を後(あと)にし、いたずらに洋化を競うばかりでは将来が不安である。
ついには君臣父子の大義も知らない状況に立ち至るのではないか。
それはわが国の教学の本意ではない」と・・・(抜粋現代語訳)

明確に、伊藤たち新政府の欧化主義の行き過ぎと、道徳の荒廃に警鐘を鳴らす内容です。
「教学聖旨」作成の問題意識が、そのまま明治23年の「教育勅語」に結実したのです

日本人が古来、和歌を尊んできたのは、心の奥深い動きや自然の美しさの本質を
三十一文字の中に凝縮することによって、単に心の感動を写すのではなく、善悪・美醜を一瞬で判断する美的感覚の鋭さを培うためと筆者は考えます

歴代天皇も、祈りを捧げ、和歌を詠むことによって、日本の「精神的規範」を体現
してこられたのです。
明治大帝がご生涯で十万首ともいわれる大御歌をお作りになったのは、まさに、このような皇室の伝統を重視されているからこそなのです。
この文明観を持たない限り、わが国の歴史、明治は理解できないでしょうし、天壌無窮、万世一系の皇室というご存在がなぜ2673年も続いてきたのかもわからないでしょう。

明治大帝は、明治41年に次の大御歌を詠んでおられます。

大御歌(おおみうた
【 ともすれば うきたちやすき 世の人の こころのちりを いかでしづめむ 】

【 おもふこと あるたびごとに つくづくと あふぐは天(あま)つ みそらなりけり 】


この年は、日露戦争の勝利(明治38年)から3年が経っています。
戦争に勝利した安堵とついに世界の大国と肩を並べたことへの驕慢と頽廃が 日本人の心と社会に満ち始めていたのです

明治大帝はこれを憂慮され、この年(明治41年)、
「戊申詔書」を発布されました。

「現今、人類は日進月歩、東西相寄り文明の複利を共有している。私はさらに外国との友好を深め、列国と共にその恩恵に浴したい願う。
しかし、文明の恩恵を共有するためには、自国を自らの力で発展させねばならない。日露戦争後、まだ日も浅く、政治全般をますます引き締め直さねばならない。
上下心を一つにし、忠実に業につき、勤倹を旨とし、信義や人情を重んじ、華美を退けて質実を重んじ、荒んだ暮らしや怠惰を互いに戒め、たゆまず努力を
続けるべきである」(抜粋現代語訳)

明治大帝はこれらの憂いを他に責任を転嫁せず、ご自身の問題として受け止められ、真摯にわが身に引き寄せて考えておられたのです。

大御歌(おおみうた  
【 目に見えぬ 神にむかひて はぢざるは 人の心の まことなりけり 】

この大御歌こそ、明治大帝の国家指導者の原点といえるでしょう。

明治大帝は、明治41年に、次の大御歌も詠んでおられます。


大御歌(おおみうた
【 われもまた さらにみがかむ 曇(くもり)なき 人の心を かがみにはして 】


明治大帝は、まさに社会を映し、時代を照らす「鏡」のようなご存在でした。
しかも、どこまでも磨き上げられた鏡でした。

明治大帝が体現された、あくまでも「公」を重んじ、「無私のまこと」を遥かな
高みまで追い求める精神こそまさに日本史上に燦然と輝く「明治の精神」の核心でした

大御歌(おおみうた
あさみどり澄みわたる大空の 広きをおのが心ともがな

この大御歌(おおみうた)は明治の人々に一番愛唱されました

※一点の雲もなく、浅緑に晴れわたった大空のように、清くそうして広いこころを、わたしはもちたい・・・という大意です。
この大御歌が明治の人々に愛唱されたのは、そういう澄みきった広いこころを明治大帝と共有したいとの明治人の願いでもありました。
ここに明治という時代精神における国家元首と国民の一体感が垣間見れます。

混迷を極める現世の日本。
明治大帝の下、協進努力で新時代を築き、明治日本を築いた先人たちの願いは、「道義ある理想の国へ」・・・何よりも原点に立返ることではなかったでしょうか?
明治人の気概、日本人としての矜持、を先人に学ぶべきではないでしょうか?
先人はきっと仰せでしょう・・・
-明治大帝に聚まれ- と・・・・

明治のこころに学べと・・・

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54日、インドを訪問中の麻生太郎財務相は経済関係者との会合で出席者から、「中国の海洋進出が激しい」と問われてこのように答えたという。
「過去、長きに渡り(日本と)中国との関係がスムーズにいった歴史はない。我々はどううまくやるのか常に考えないといけない。陸軍大国だった中国が、いま海軍力を伸ばしつつある。東シナ海でも日本海でも同じ状況。自分の領土は自分で守るコンセプトをもたないといけない」(朝日新聞)。
 
明治維新では当初、陸軍の強化を優先させ、海軍は後回しにされていました。
しかし、それが変わるきっかけとなる事件が起きました。
明治198月、当時、東洋一でもあった清国の北洋艦隊が「定遠」「鎮遠」という巨艦を擁して長崎にやって来たのです。無断で上陸したシナ水兵が日本人に乱暴狼藉を行いました。この「長崎事件」は明らかにシナ側に非があったにもかかわらず、強大な軍事力を持って日本を威圧するシナに日本政府は手も足も出せず、日本国民は大変悔しい思いをしました。
 
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こうしたことから日本はシナに対抗できる海軍を持つこと、さらに日本近海の沿岸防備を固めることが大切であると痛感し、国家として取り組もうとしました。
しかし、海軍の予算は軍艦の建造費しか賄えず、沿岸の防備にはとても予算がつけられる状況ではありませんでした。
 
そこで長崎事件を危機と感じた明治天皇は「防海の備えを一日も緩くしてはならない」と仰せられ、御自ら皇室費を節約して30万円を下賜されたのです。
明治天皇が率先して国防費を下賜したことは広く知れ渡り、政府が国民にその献金を呼び掛けると、すぐに200万円(現在換算で約80億円)が集まったのです。
如何に国民が危機感を持っていたかを知ることが出来ます。これにより日本各地の沿岸に大砲を備え付けることが出来ました。
 
さらに明治247月。シナは北洋艦隊「鎮遠」「定遠」以下、主力6隻を率いて横浜に来航してまたも日本を威圧しました。国民も日本政府も危機感を募らせ、第二次伊藤博文内閣は海軍拡張計画を立てますが、帝国議会は軍艦の建造費を認めませんでした。このままではシナの強大な軍事力に対抗できず、余計シナをツケ上がらせる結果となるのではないかと心ある国民は憂えました。
 
すると、明治天皇は勅語を下されます。
「国家の国防は1日怠れば、100年の悔いを残すことになる。朕ここに軍艦の建造費に当てるために6年間にわたり毎年30万円、総額180万円を下付する。自分はそうするから文武の官僚もこれにならって、各自の棒給を10分の1拠出して製艦費に充てよ」
 
この勅語により帝国議会も動き出し、海軍拡張計画が可決され、さらには貴族院では自発的に年棒の4分の1を製艦費に上納することを決議しました。
そして翌年、ついに日清戦争が起こるのであります。
 
日本にとってシナは昔から傍若無人に振る舞う迷惑な国でありました。
シナとの関係がスムーズになるというのはシナの属国を意味することでもあります。
「自分の領土は自分で守る」「我々はどううまくやるのか常に考えないといけない」という麻生財務相の言葉はシナの軍事力増大は結果何をもたらすのか、歴史から学ぶべきであります。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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