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たかじんのそこまで言って委員会 6月9日放送分です。
関東ではご覧になれないので、ご視聴をお勧めいたします。 日支関係はBで4:00 ぐらいから始まります。 日朝関係はDで討論されています。 日支関係は必見です。 6月9日 たかじんのそこまで言って委員会 A 6月9日 たかじんのそこまで言って委員会 B 6月9日 たかじんのそこまで言って委員会 C 6月9日 たかじんのそこまで言って委員会 D 6月9日 たかじんのそこまで言って委員会 E [END] ご視聴ありがとうございました。 |
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2013年06月09日
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松山・道後鷺谷(さぎだに)秋山大将墓地
「永仰(えいごう=永遠にあおぐ。尊敬する)遺光(いこう=消えないであり続ける光)」の碑は、昭和7年、秋山大将没後三回忌に松山在郷将校有志等が設立したもので、有志の人によってきれいに清掃が行き届き、毎日日章旗が掲げられています。
今日の御国の繁栄はご歴代の天皇陛下の御稜威の下、先人、先祖が築きあげてきた精華であって、今日の我々が私物など何もないのです。 現世の日本人が忘れ去ったものは、先人、先祖に対する、永仰遺光の精神ではないでしょうか? 秋山好古大将、多美夫人
日露戦争で騎兵第一大隊長。後に騎兵学校長となり明治陸軍揺籃期の騎兵科を捜索伝令用だけでなく「戦略機動集団の騎兵」として強化発展させ、"騎兵の父"と仰がれました。 秋山大将の日露戦争での功績は、多くのブロガー様が記事とされています。投稿文字数制限の関係上、拙稿では割愛させていただきます。 秋山大将は日露戦争後、宮城(皇居)の守衛および儀仗の任に当たった近衛師団の団長を経て、大正5年陸軍大将、朝鮮駐箚(ちゅうさつ=役人が他国に派遣されて滞在すること。駐在)軍司令官、教育総監(陸相・参謀総長と並ぶ地位)、軍事参事官の陸軍要職をつとめ、大正12年予備役になる。 久松定謨伯爵(ひさまつ さだこと。1867〜1943;軍人;松山藩主久松【松平】定昭の養子となり家督をつぐ)や井上要(かなめ=1865〜1943。明治から昭和時代前期の実業家、政治家。伊予鉄道の社長となり、伊予水力電気、松山電気軌道などの合併に尽力。松山商工会議所会頭などを歴任)ら請われて当時、「不良少年養成所」とまでいわれていた北予中学(現松山北高)の校長(従2位勲1等功2級の陸軍大将が田舎の中学校の校長になることなど当時としては考えられなかったできことでした。 就任に際し。秋山大将は次のように述べられました。 「こんな老いぼれで役に立つんなら、何でも奉公させてもらうよ。欧米では高官が退職後に社会貢献するのは当たり前になっておる。日本人は少し地位を持って辞めると恩給で遊んで暮らそうという輩が多いが、わしはそういうのは好かん」 この時、秋山大将65歳。校長在任は6年3カ月に及び、その間、一日も休むことはありませんでした。 「前途のため郷里から有能な人物が出るように国のため郷里のために尽くす」。秋山大将の最後の奉公は教育でした。6年間一日も休まず登校し、生徒を見守る姿は街中に知れ渡り、時計よりも正確といわれた時間厳守の姿勢はルーズだった街の人々の意識さえ変えました。「無言の教訓、無為の感化は誠に大きいと言はねばならぬ」と北予中理事の井上要は書き残しています。 秋山 真之海軍中将
秋山大将の実弟が秋山 真之海軍中将であることは衆知のとおりですが、秋山中将は大正6年5月に虫垂炎を煩って箱根にて療養に努めたが、翌大正7年に再発。悪化して腹膜炎を併発していました。 小田原の山下亀三郎別邸での臨終の枕元には親族や海軍士官二十名程が座り、遺言が始まりました。その内容は殆ど国防に関する事でした。秋山中将の三男の秋山中さんはその時の事を次のように語っています。 「子供ですから、難しい事はわかりませんでしたが、これからの戦争は飛行機と潜水艦の時代になる。だから諸君は、飛行機と潜水艦の研究をされたい。それからアメリカと事を構えると日本は苦境に追い込まれる。苦しい息をつぎながら叫ぶ様に言い残しました。おそらく父は後世を読んでいたのでしょうね。それが原因かどうかはわかりませんが、海軍はアメリカと戦争するのが嫌で、最後までアメリカと戦争したがりませんでした」と・・・・。 秋山中将は、山下亀三郎に「世話になった」と礼をいい「後を頼む」が最後の言葉となり、2月4日亡くなられた。 山下汽船社主の山下亀三郎は当時の金で百万円(飛行機125機分)の寄付で飛行機の製作に資金的援助し秋山中将の遺言に答えたのです。 「サネユキキトク」の電報が福島・白河に出張していた秋山大将に届く。北予中学校(現愛媛県立松山北高)の校長に就任する6年前の大正7年2月3日。当時秋山大将は陛下の軍事顧問を務める軍事参議官でした。
周囲が帰京を勧めるが、「すでに弟とは今生の別れのあいさつをしておる」とそっけなく、「イカヌヨロシクタノム」と返電させる。4日早朝には「サネユキセイキョ」の至急電が配達されても「官命を帯びての任務遂行中であり、肉親の死であろうと、私事で帰京はできぬ」と言い放ち、何事もなかったかのように公務を続ける。見かねた部下が陸軍省人事局長と掛け合い、任務交代の陸軍大臣命令が出される。渋々、帰京しました。
兄秋山大将は、中将逝去4カ月後の6月15日に開かれた追悼会の席上中将について次のように述べています。
軍人時代秋山大将は、「わしは松山に家があるから東京には要らん」といって借家暮らしを続け、生涯家を持たなかったという。軍人が畳の上で死ぬことを潔しとしなかったのです。 持病の糖尿病が悪化し、昭和5年4月校長を辞任し、同年11月71歳の生涯を閉じられました。 秋山大将は脱疽という筋肉が壊死する病気で、松山から東京に帰ってきた秋山大将はこの病気で大腿部から切断するという大手術を受けました。 「手術はノコギリみたいなもので足を切ってパッと持って行ってしまいました。しかし切ったところが浅かったのか、毒が上のほうへ廻って、それから2〜3日で叔父は危篤になりました。」 叔父は死ぬとき「馬曳けーっ」といって逝ってしまいました。満州の荒野を駆ける夢でも見ていたんじゃないかと思います。その最後の言葉を言うとグッと倒れました。大往生でした」と秋山大将の臨終に立会った姪が述べています。 日露戦争の黒溝台会戦での活躍が有名な秋山大将は、同時に日本陸軍騎兵の実質的な創設者でもありますが、そのお墓は、とても日本を代表する人物のそれとは思えないほど質素なものです。 晩年は自らの功績を努めて隠し、校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢する事はありませんでした。 筆者は秋山大将、中将のみならず、多方の明治の軍人はそうであったように思います。 「永仰遺光」 現世に生きる我々は、消えないであり続ける光である先人・先達に思いを馳せ、永遠にあおぎ、尊敬し、生きる規範とする。 それが、日本人ではないでしょうか? |
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