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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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おわら風の盆




[開催地] 富山県 富山市
[会場] 八尾旧町・駅前地区
[日程] 平成25年9月1日(日)〜 9月3日(火)
[開催時間] 15:00〜23:00

筆者が一度は訪れてみたい「まつり」に越中八尾(えっちゅうやつお)のおわら風の盆があります。

初秋の風が吹き始める9月1日から三日三晩、富山市の南西部・八尾町で行われる「おわら風の盆」。哀愁漂う三味線と胡弓の音色、味わい深い唄に合わせ舞う編笠姿の優美な踊り子たちが、坂の町を練り歩きます。地方の民謡とは思えない洗練された祭りは、今も昔も多くの人を魅了してやみません。
この祭りを受け継ぐ八尾の人々は、一年を通じておわらの練習に励み芸を追求しています。おわらが暮らしの一部なのです。
富山はあいにくの雨模様で残念な初日となりました。

おわらがいつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません。
「越中婦負郡志」によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。
どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻りました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます。

二百十日の前後は、台風到来の時節。昔から収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願が行われてきました。その祭りを「風の盆」というようです。また、富山の地元では休みのことを「ボン(盆日)」という習わしがあったと言われます。種まき盆、植え付け盆、雨降り盆などがあり、その「盆」に名前の由来があるのではないかとも言われています。

古来より「豊葦原瑞穂國」と称された我が国は、稲をはじめ穀物が実り豊かに実る国として遠く神話の昔より日の神「天照大御神」を崇め、田の神、山の神、海の神を崇め、「和」を大切にし、自然に感謝し、、自然と共に文化・伝統を育んできました。
 
わが国は神の国と言われています。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしてきました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
「まつり」の語源は、動詞の「まつる」からきています。「まつる」とは、神さまのお出ましを「待つ」、神さまに供物などを「献(たてまつ)る」、神さまに従う「服(まつろ)う」などが考えられ、これを全部合わせると「神さまをお迎えして、神さまに物を捧げて、心から神さまに従う」という大意になります。このように、神さまにお仕えすることがお祭りの本義と言えましょう。

日本のまつり、それは、日本古来の文化の伝承です。
祭りを運営する人、参加する人、そして見る人。
すべての人がひとつになって夢中になれる唯一の文化といえましょう。
いま日本に必要なのは、そんな底知れぬ生命力に満ちた祭りの力と、一体感、人と人の心の絆、祖先・先人を敬愛し、皇室を崇め、天津神(あまつかみ)( 伊勢の大神宮)、国津神(くにつかみ)(氏神)、森羅万象を司る八百万(やほろず)の神々に感謝をし、よりよい日本を後世に残し、日本のこころを後世に伝えることではないでしょうか?




参考文献 わら風の盆 公式サイト
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「伊勢に行きたい伊勢路が見たい
せめて一生に一度でも
わしが国さはお伊勢に遠い
お伊勢恋しや参りたや」

と伊勢音頭で唄われたように、
昔から神宮参宮は日本人の憧れでした。

江戸時代は長旅には通行手形がないと関所を通れなかった。冒頭の画像は幕末のころ実際に使用された通行手形です。

差上申手形一札(さしあげまうすてがたいっさつ)の事
白須甲斐守知行所
武州幡羅郡原ノ郷村
名主 権左衛門組下
百姓 庄八
弟 龍三
当年三十五才
右の者壱人 今度(このたび) 伊勢参宮
罷(まかり)通り候(さうらふ)間(あひだ)
御関所 無相違(そういなく) 御通し被遊候(あそばされさうらふ) 仍て如件(よってくだんのごとし)
元治元年  右名主 権左衛門
子 六月   組頭 惣右衛門
七右衛門
横川御関所
御役人衆中様


昔の伊勢参宮の時期は、正月を過ぎ、稲の種蒔きが始まる前までの、新暦では1月から4月までの時期が多かったようです。


江戸時代、国民の6人に1人が神宮に参宮したと言われています。
日本人は元来伊勢神宮に対する崇拝心が強く、神宮参宮は、特別にご利益があるとされていました。
江戸からは片道15日間、大阪からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。岩手の釜石からは100日掛かったと言われています。
お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これがお蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しをうけることができた時期もあったのです。
江戸時代、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったのですが、神宮参宮に関してはほとんどが許される風潮でした。特に商家の間では、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていたのです。また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、神宮参宮をしてきた証拠の品物(お守りやお札など)を持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていました。
また、庶民の移動には厳しい制限があったといっても、神宮参宮の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参宮をすませた後にはや大坂などの見物を楽しむ者も多かったのです。
明和8年の群参のときから、広く「おかげまいり」と言われるようになり、それ以前の群参については「おかげまいり」と呼ばずに、前述していますが、「ぬけまいり」と呼んでいました。皇太神宮のお札が降ったとか、多くの人たちの伊勢まいりが始まったとかの噂が立つと、子は親に断りなく、妻も夫の許可なく、奉公人も主人に無断で伊勢参宮に出掛けました。その旅姿は、白衣に菅笠で一本の杓を持ったりもしました。また、彼らは多く集団を作って旅し、のぼりや万灯を押し立て、「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌い踊り歩きました。日頃の生活を離れて自由に旅ができ、十分な旅行費用を用意しなくても、道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれました。それを神のおかげとし、妨げると天罰が下るとされました。
山田三方会合所の記録や本居宣長の『玉勝間』によれば、宝永2年の群参は50日間で362万人に達し、京都から起こった群参の波は、東は江戸、西は現在の広島県や徳島県にまで及ぶほどでした。次の明和8年の「おかげまいり」の総人数は、不明確ですが、宮川の渡し人数から見ても200万人以上に達し、東北地方を除く全国に及んだと言われています。さらに、文政13年の場合は、約500万人が伊勢へ伊勢へと押し寄せています。
当時の庶民にとって、伊勢までの旅費は相当な負担でした。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難です。そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みである。「」の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利を失うため、「講」の所属者全員がいつかは当たるように配慮されていたのです。くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立ちました。旅の時期は、農閑期が利用されました。
伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いや新品種の農作物の種、松阪や京の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産を購入したのです。無事に帰ると、帰還の祝いが行われ、江戸時代の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組み、相互扶助
の精神が役立っています。
筆者の生まれ故郷では、つい近年まで伊勢講が存在していました。
お蔭参りに行く者はその者が属する集落の代表として集落から集められたお金で伊勢に赴いたため、手ぶらで帰ってくる事が憚るられ、当時の、最新情報の発信地であったお伊勢で知識や技術、流行などを知り見聞を広げるための旅でもあったのです。お蔭参りから帰ってきた者によって、最新の装束(織物の柄)や農具(新しい品種の農作物)がもたらされ、に代わって、手動式風車でおこした風で籾を選別する唐箕が広まったのです。
 
また迎える伊勢近辺ではどうだったでしょうか?
参宮人の宿泊を認めたお触書きが残存しています。
 
参宮人の宿泊を認めた触書き(駒田家文書「御用状写帳 二」)
 
 
伊勢別街道に近い久居藩領多門村(現芸濃町)の「御用留」閏3月14日付けの大庄屋から村への触れには、「参宮人が多く、旅籠屋での宿泊に差し支える場合は、宿続きの村方に宿泊させるようにし、難渋している者がいたならば、志のある者が宿泊させてもよい」とあり、同時に「火の用心」「農業の手抜きがないように」との記述が見られる。
また、藩から村への触れでは、「参宮人が多く、旅人や難渋者への施行は、奇特なことである。中には施行を進められ、やむを得ず行っている者もあるが、それは心得違いである。施行駕籠も異様な客には出してはならない。ただし、病人や足が痛く歩行困難な旅人に施行することはよい。もちろん、農業に差し支えないように心得るように」とある。多少、藩と大庄屋との間で村への触れの内容が違うが、いずれも困っている旅人への施行を認め、農業に差し障りがないように心がけることとしている。
また、伊勢国紀州藩田丸領でも、「銘々門に立つ者へ合力等を致すように」「宿に困る者については、明家を用意し無賃にて泊まらすように」「施行は心次第、多少によらず施すように」などの通達が見られる(『玉城町史』下巻)。一方で、田丸代官からの各村落への触れには、「参宮人が多く、往還筋の飯米が差し支えるため、領内での米の売買は認めるが、他領への米の移動は禁止」とある。ただ、同じ紀州藩尾鷲組大庄屋記録には、「お蔭参り」に関する記述は見られない。
これらのことから、同じ藩であっても、地域差によって参宮客への対応が異なったことがわかる。
これらを迎え入れる神宮領の資料を見てみると、閏3月ごろの記事に「参宮人で病気になり難渋している者は介抱すること」「宿がない難渋者に対する宿施行を行うこと」「旅籠屋の宿泊料を安くすること」「商人が諸色値段を高くしないように」などの触れが、宇治会合から各村に対して出されている。神宮のお膝元では、こうした参宮人を迎え入れるための準備を行っていたのである。
また大坂の豪商鴻池家は一人50文ずつ、計700万両を施し、空き家はすべて宿泊施設とし、伊勢路では各所で粥を炊いてお蔭参りの人々に奉仕したと言われています。
 
 
ござを丸めて、その先にひしゃくを背負う姿はお伊勢参りの定番のスタイルでした。
その姿をみた主要街道、伊勢路の人々は施行(おもてなし)を行い、無銭でお伊勢参りが可能にしました。


 
 
 
しかし、病気やその他様々な都合により、伊勢参宮に行きたくてもどうしても行けないという人もおり、そういった人達は、自分の代理として他の人に伊勢にお参り行って来て貰う事で、神宮に代参をしたのです。
そして、そのうちに、人間ではなく自分の犬に代参を託す人も出てくるようになり、近所でおかげ参りに行くという人に自分の犬を預けて連れて行って貰ったり、もしくは、道中の人々がその犬を伊勢へと案内してくれる事を期待して、犬一匹だけで送り出される事もあったようです。こういった犬のおかげ参りは江戸時代後期に流行り、おかげ参りをしている犬である事がすぐ判別できるよう、上記画像にあるように、犬には御幣や注連縄が付けられ、また、犬の首には道中のお金などがくくりつけられて送り出されました。
伊勢へと通じる道々では、そうした犬が来ると皆で餌をあげたり泊めるなどして、その分のお金を少し貰ったりもするのですが、逆に「これはとても立派な犬だ」と言ってお金を足してあげる人も多く、犬の首に掛けられている袋のお金が増えてくると、袋が重くて犬が可愛そうだと一枚の銀貨に両替してくれる人までいたそうです。当時の人々はとても信心深かったので、おかげ参りをしている犬からお金を盗むような人はなく、こうして犬は人々の善意に支えられながら伊勢へと送り届けられていったのです。
 
神宮の「おかげ参り」「参宮」に思いを馳せる時、いかにかっての日本人が大らかで、崇敬心が篤く、同じ日本人を労わるこころがあったかお解りいただけるでしょう。
神宮が「日本人」の「こころのふるさと」と言われている由縁です。
 


























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支那事変の最中の昭和13年、渡辺はま子は従軍慰問に明け暮れていました。その頃、日本では彼女の「愛国の花」「支那の夜」「蘇州夜曲」などがヒットしていました。
 
はま子は、貨車の上でも、戦闘機の前でも、美しい衣装を着て歌い、戦場の将兵たちには歌姫と言われ「これが私の戦争協力」と言って、はま子は歌い続けました。
 
そして、終戦後に帰国、日本では「あの戦争は間違っていた」と言う声が大勢を占めるようになり、戦争犯罪人として捕らえられた人々の家族は「戦犯の子」「戦犯の妻」と後ろ指を指されていました。
冗談じゃないわ。それじゃ国のために命を捧げて戦った人々が可哀想過ぎるわよ」と、はま子は巣鴨拘置所や、傷病兵、戦犯家族などを慰問して廻っていました。
 
終戦時にフィリピンには14万人の日本人捕虜がいましたが、昭和21年のフィリピン独立後にも150人の戦争犯罪容疑者がモンテンルパ刑務所に収容されていました。
そして、昭和26年1月19日には14人が突然、処刑されました。14人のうちの13人はセブ島でのゲリラ退治での村民虐殺事件で死刑宣告されていましたが、その半数近くは現地にも行ったことがない者ばかりでした。
日本軍の雑役夫だったフィリピン人が対日協力の罪を問われることを逃れるために、闇雲に「この人だ」と指をさして、無実の罪にしていました。
 
また、フィリピン政府は日本に対し80億ドルもの賠償を要求しており、この額は当時の日本の国家予算の4分の1でもあり、とても当時の日本に支払える金額ではありませんでした。
残された戦犯たちも希望を失い、「80億ドルの代わりになろうじゃないか。日本のために死ぬんだ」と叫ぶ者もいたといいます。
 
昭和24年10月にフィリピンに派遣されてきた僧正の加賀尾(かがお)秀忍は6ヶ月の任期も過ぎ、無給のままモンテンルパに留まっていました。
加賀尾が日本を出発する時、戦犯家族達は加賀尾にすがって泣きました。
この人たちを救わないで、どうして僧と言えようか
 
当時「異国の丘」という歌が日本中でシベリア抑留者のことを思い出させていました。「ここでモンテンルパの歌が出来たら、日本の人々に思いが通じるかも知れない
教誨師として戦犯者たちと起居を共にして何とか助け出そうと考えていた加賀尾は「歌を作ろう」と考えました。加賀尾は死刑囚の元憲兵である代田銀太郎に作詞を頼み、作曲はモンテンルパの中の教会でオルガンを独習して弾いていた元将校の伊藤正康に頼みました。この時、伊藤は≪行ったこともない土地で住民虐殺した≫という罪で死刑判決を受けていました。
 
加賀尾は出来上がった歌をはま子に送りました。はま子が早速、控え室でピアノを弾いてこの歌を歌っていると、ディレクターの磯部氏が入ってきてこの歌を聞いていました。「いいね、なんの歌。これ吹き込みしよう」と即決しました。
モンテンルパの無実の死刑囚達の作った歌は、はま子の歌としてレコード化されました。昭和27年7月「あゝモンテンルパの夜は更けて」が発売され20万枚を超える大ヒットとなりました。
 
はま子はフィリピン郊外マニラのモンテンルパで、100名以上の元日本兵たちが戦犯として捕らえられて、悲惨な状況にあることを聞かされました。そして、モンテンルパに慰問に行きたいと申し出ますが当時フィリピンとの国交はまだ回復していません。行けないことはないが、それは極めて危険な状態でした。
しかし、はま子は「フィリピンで捕まったらそのモンテンルパに入れるじゃないの。思う壺じゃない。行きましょうよ」それは決死の覚悟でした。
 
昭和27年12月24日、はま子は念願のフィリピン・マニラ郊外のモンテンルパを訪れました。『歓迎 渡辺はま子様』の横断幕。
モンテンルパの日本人死刑囚の前に出たはま子はこう言いました。
皆さん、渡辺はま子です。お国の為にお働きになった皆様が終戦となった今でも外地にてその罪を償う為、今ここにいらっしゃるこの現実を目の当たりにして言葉もありません。何かして差し上げたいと思う気持ちはあれど、ここに来るのが精一杯でした。そして私には歌う事しかして差し上げられません。心を込めて歌います。」(肉声テープより)
 
「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌う時となりました。ここの同胞である死刑囚たちが作詞・作曲した歌です。
 歌い始めると聴衆の中からすすり泣きが聞こえ始めた。そして一緒に歌う声、声、声・・・、大合唱となりました。
 
昭和28110日、モンテンルパから日本に持ち帰ったテープを全国放送で流しました。「あゝモンテンルパの夜は更けて」をはま子と合唱する日本人の同胞たちの声が全国へ流されました。これにより全国の日本国民はモンテンルパで無実の罪で刑の執行を待ち続ける怯えた我が同胞の存在を知ることになりました。
 
このテープの最後には加賀尾は声を震わせて、このように語りました。
祖国日本の皆様、家族の皆様、どうか苦しい、辛い、辛抱をしてこられたことでありましょう。しばらくの間、待っててください。そして祈ってください。祖国の土を踏むまでは、決して力は落としません
この放送により、日本全国で一刻も早く助命しようと嘆願運動が巻き起こりました。
 
元軍人でオルゴール会社を経営していた吉田義人さんは、はま子の歌を聴いて感動し、当時できたばかりのアルバム式オルゴールにこの曲を詰めました。吉田から富士山の蒔絵のオルゴール2冊を送られたはま子は1冊を加賀尾に送りました。
 
昭和28年5月16日、加賀尾はちょうどその時、外務省との度重なる交渉の末、フィリピンのキリノ大統領との初めての会見が許されました。
キリノ大統領は妻と3人の子供を日本軍に殺されており、「どうせ加賀尾も涙でも流して戦犯を釈放してくれと泣き落としにかかるのだろう。そんな涙には騙されない」と考えていました。
 
ところがキリノ大統領と会見した加賀尾は何も言いませんでした。そして黙ってオルゴールを置いただけでした。そのオルゴールを開いてみると中からは哀しいメロディーが流れてきました。
キリノ大統領は「悲しい曲ですね。何という曲ですか」と聞くと加賀尾は「モンテンルパの戦犯者が作ったものです」と言いました。そう聞くとキリノ大統領はそのメロディをじっと聞き入りました。
 
大統領は深く頷いて、聞き終わると、静かにオルゴールを閉じて言いました。
7月4日の独立記念日には日本人を二人釈放してあげましょう。二人というのは小池君と藤崎君です。戦争中、私が捕虜になっていた時、こっそりと庇ってくれたのです。この二人については早くから何とかしたかったのです
 
6月27日、大統領府からの連絡で「7月4日の独立記念日を機会に一部の者に恩赦、釈放の恩典を与えるので、それに値すると認められるものを指名せよ」とありました。そして一夜明けると、その決定がこうなりました。
死刑囚、無期刑囚を全員釈放する。死刑囚は無期に減刑して日本の巣鴨に送還する
 
キリノ大統領は周囲にこう語ったと言います。
加賀尾は言葉の代わりに音楽を持ってきた。その音楽が私の心の琴線に触れた。日本は戦争に負けたとはいえ、かくのごとく巧妙で、堂々たる外交ぶり、一同、よくこの日本人に学ばねばならないぞ
 
釈放前日、加賀尾と108名ははじめて仲間の墓に行きました。そして処刑された仲間17名の遺骨を掘り起こし、遺骨になった仲間に「皆と一緒に日本に帰ろう」と言った。
 
7月15日、帰国者108名が日の丸を掲げた白山丸(はくさんまる)で帰国します。
短い人で9年、長い人では15年ぶりの帰国です。
 
7月22日午前8時半、白山丸は横浜の大桟橋に着岸しました。これを待ち受けたのは港を埋め尽くす2万8千人もの日本の国民たちでした。これほど多くの人々が自分たちを出迎えてくれたことに帰国者たちは驚き、そしてこんなに大勢の人たちが関心を持ってくれたことが釈放の原動力になったに違いないと思いました。加賀尾は処刑された仲間の遺骨から先に船から降ろしました。
 
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自分が食べていくだけで精一杯の時代、そして、戦犯の家族が後ろ指を指されていた時代に、出迎えた2万8千人の中には帰国者とは縁もゆかりもない人々もたくさんいました。しかし、モンテンルパの同胞を出迎えるためにこれほどの国民が集まってきたのでした。
・・・・・・・
 
渡辺はま子はその後も歌い続けました。しかし、平成元年に引退。
引退後は認知症が進行し、脳梗塞に倒れたこともあり、家族以外の者との会話がほぼ困難になり、晩年は寝たきりの生活だったといいます。
 
亡くなる数日前からあまり意識も無かったのですが、娘さんがモンテンルパに行った時の本人の肉声のテープを聞かせると、娘さんの言葉に何度も頷き、目から一筋の涙を流し、その瞬間に最後の笑顔を見せたと言います。
そして、1999年11月、89歳の生涯を閉じました。
 
モンテンルパは終戦後の混乱期に日本国民が忘れかけていた同胞への思いを目覚めさせてくれたのでした。
 
 
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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