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伊能忠敬銅像
9月23日は彼岸の中日です。彼岸は日本独自の文化です。
彼岸の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言われ、日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教に発し、仏教語の彼岸は後から結びついたものであると言われています。 春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、朝日に祈り、西方に沈む太陽に感謝・礼拝し、祖霊に思いをはせたのが彼岸の始まりです。 筆者が尊敬する偉人の一人に伊能忠敬翁がいます。 日本の測量の歴史で大きな足跡を残したのは教科書でもお馴染の伊能忠敬翁。日本全国を歩いて測量し、その地図は今見ても遜色ない正確さとなっています。伊能忠敬翁は寛政12年(1800年)、56歳の時に、第1次測量を開始しました。 当時の56歳は晩年にあたりますが、伊能忠敬翁をそこまでさせたのは何だったのでしょうか? 伊能忠敬 翁 は、日本地図作成のための測量先である 対馬 ( つしま ) から、 佐原村 ( さわらむら ) に住む娘へ手紙を出しています。手紙には、六十九歳になった忠敬翁が、これまでの人生を振り返った素直な心境が語られていました。 「私は、幼いころから有名になることを望んでいたが、親の命令で佐原へ養子に行き、好きだった学問もやめた。そして家業を第一として伊能家の 家訓 ( かくん ) を守り、暮らしに苦しんでいる人々への 施 ( ほどこ ) しも行ってきた。 隠居 ( いんきょ ) してからは江戸へ出て、そして日本国中の測量を 仰 ( おお ) せ付けられたが、それも諸大名の協力で行うことができた。これは非常にありがたいことであり、まさしく天命だったのだろう。これもまた 先祖 ( せんぞ ) のおかげであり、そのありがたさはとても言葉で表せないことである」 という文面です。 忠敬は、 延享 ( えんきょう ) 二年(一七四五年)一月十一日、父 貞恒 ( さだつね ) と母ミネの間に三人兄弟の末っ子として、 上総国山辺郡小関村 ( かずさのくにやまべぐんこぜきむら ) 現在の 九十九里町 で生まれました。その後、 宝暦 ( ほうれき ) 十二年(一七六二年)に 下総国香取郡佐原村 ( しもうさのくにかとりぐんさわらむら ) (現在の 佐原市 ( さわらし ) )の伊能家へ 婿 ( むこ ) に入りましたが、そのとき忠敬翁は十七歳で、妻のミチは二十二歳でした。伊能家は、酒づくり、米の売り買い、貸し金業、運送業などをしていましたので、忠敬翁は家族や使用人と力をあわせ家の仕事に精を出しました。このため忠敬翁が四十九歳で隠居したときには、三万両の財産があったといわれています。 忠敬翁は、三十六歳で佐原村 本宿組 ( ほんじゅくぐみ ) の 名主 ( なぬし ) となります。この年には 利根川 ( とねがわ ) の 氾濫 ( はんらん ) があり、二年後の 天明 ( てんめい ) 三年(一七八三年)には、 浅間山 ( あさまやま ) の大噴火があって、佐原村も 飢 ( き ) きんに見まわれます。忠敬翁は、堤防の修復工事や難民の 救済 ( きゅうさい ) に取り組む一方、関西から米を買い付けて村人に分け与え、近くの村々にも安く米をゆずりました。 利根川の堤防修復工事のときには、経費を浮かして「 永久相続金 ( えいきゅうそうぞくきん ) 」という非常用の 積立金 ( つみたてきん ) 制度をつくりました。天明六年(一七八六年)七月、佐原村は再び利根川の大洪水で大きな打撃を受けます。忠敬翁は三年前につくった永久相続金を村人の救済金にあてるとともに、家業で得た財産の多くを村人のために使いました。こうした努力で、二年続きの 大凶作 ( だいきょうさく ) を乗り越えて、佐原村からは一人の 餓死者 ( がししゃ ) も出さずにすんだのです。この功績が認められて忠敬翁は、 苗字帯刀 ( みょうじたいとう ) (武士のように苗字を名のり、刀を差すことで、大変 名誉 ( めいよ ) なこと)が許されました。 天明の大凶作が過ぎて一息ついたころ、忠敬翁は自分が四十歳を越していることに気付きました。もともと学問が好きだった忠敬翁は、家業の合間にコツコツと 天文暦学 ( てんもんれきがく ) の勉強を続けていました。その学問を深めるため忠敬翁は、家業を長男の 景敬 ( かげたか ) にゆずって、江戸へ出て本格的に勉学の道に励むことを決心します。四十九歳のときです。その後、十九歳年下の 高橋至時 ( たかはしよしとき ) のもとで 西洋暦学 ( せいようれきがく ) を学び始め、いつかは地球の大きさを測りたいという夢を抱くようになりました。 その夢を実現させる機会が忠敬翁におとずれたのです。そのころ、日本の北方にしばしば姿をあらわす外国の軍艦に対処するため、江戸幕府は北海道の地図を必要としていたのでした。江戸時代に他の領地を堂々と測量するのは、非常に難しいことだったので、正確な 子午線 ( しごせん ) 一度の長さを求め、地球の大きさを測る上では、またとないチャンスだったのです。 こうして忠敬翁は、数人の弟子たちとともに、第一回目の測量の旅に出ることになります。 寛政 ( かんせい ) 十二年(一八〇〇年)、忠敬翁が至時の弟子となってから五年目のことでした。これを皮切りに、 文化 ( ぶんか ) 十二年(一八一五年)の第九回の測量まで測量隊を指揮しますが、そのころにはすでに七十歳になっていました。その成果が地図となって幕府へ提出されたのは、さらに五年後の 文政 ( ぶんせい ) 四年(一八二一年)のことですが、忠敬翁はすでに三年前に亡くなっていたのです。そして、忠敬たちがつくった実測による日本最初の地図は、大正時代まで非常に大きな役割を担い続けました。 初めて正確な日本の姿を見た日本人である忠敬翁たちの地図づくりは、単調ななかにも根気と粘り強さ、それに強い精神力が必要であり、並たいていのことではなかったはずです。手紙に「先祖の徳によるものであり自分にとっては天命だった」と書いているのは、他国を測る好機にめぐまれたことや、測量先でのさまざまな困難を乗り越えたことへの、忠敬翁の素直な表現だったのでしょう。 「先祖の徳によるものであり自分にとっては天命だった」・・・・・
今日の日本人に忘れられた矜持ではないでしょうか? 彼岸(日願)の日は秋季皇霊祭の日でもあります。 皇恩、神恩、佛恩に感謝し、遠き祖先へも心を馳せ、日本人らしく生きたいものです。 |
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2013年09月21日
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