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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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寅楠翁が修理したといわれるオルガンを複製したもの
(写真提供:ヤマハ株式会社)


静岡県浜松市にはヤマハやカワイ、ローランドといった世界に名立たる楽器メーカーが立地し、楽器のまちとして知られています。
「浜松国際ピアノコンクール」や「静岡国際オペラコンクール」など世界的に高い評価を得ている国際音楽コンクールのほか、音楽人材の育成を目的とした「浜松市アクトシティ音楽院事業」や市民自ら音楽を楽しむ「プロムナードコンサート」など、年間を通じて様々な音楽イベントを開催。アクトシティ浜松や浜松市楽器博物館など音楽に親しむ環境も整備された「音楽の都・浜松」では、市民レベルから世界レベルまで、さまざまな方法で音楽の豊かさや楽しさにふれることができます。
そして今日、日本を代表する音楽文化都市へと成長した現在、「音楽のまち」から、浜松市ならではの内発的で魅力的な音楽文化を創造し発信する都市「音楽の都」へと、さらなる発展を遂げようとしています。


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山葉寅楠翁(写真提供:ヤマハ株式会社)


音楽のまち、浜松の礎(いしずえ)を築いたのが山葉寅楠(やまはとらくす)翁です。
嘉永4年(1851年)4月20日、紀州藩士山葉孝之助の三男として紀伊国和歌山城下(現在の和歌山県和歌山市)に生まれる。父が紀州藩で天文係を務めていたこともあり、幼少の頃から機械いじりが得意であった。また16歳頃には剣術修行に出たこともあり、二刀流であったとのことです。
明治維新後の1871年に長崎に出て英国人のもとで時計の修繕法を学び、その後大阪の医療器具店に勤め医療器具の修理工として働いた。1884年から浜松支店に駐在していたが医療器具の修理だけではなく、時計をはじめとした機械器具全般の修理などを請け負っていた。1887年に浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)アメリカ製オルガンの修理を手がけたことからその構造を学び、1888年に日本最初の本格的オルガンの製造に成功しました。

山葉寅楠翁はオルガンの製造について次のように語られました。

聞けば、唱歌科ができましたそうで、全日本の小学校でオルガンが必要だと思います。それを、いつまでも外国から買っているようでは第一日本の恥ですし、不便です。日本の子供を教育するのに、機械が日本で造れないというのは、如何にも残念です。外国人にできるものを、日本人にできない道理がありません。私は一生かかっても立派なオルガンを造るつもりです。幸い立派なものになったら、大いに売り出すつもりですが、それとして、私が個人の利益を得るつもりではないのです。日本中の子供達が、日本で造ったオルガンで唱歌を習い、外国にもこれこそ日本のオルガンだと示し得ることができればいいと、そればかり願っておるのです。

と・・・・
山葉寅楠翁のオルガンの製造は苦難の道でした。

「あなたの器用な腕を見込んで、壊れたオルガンの修理を頼みたいのだが……」
「ぜひ、私にやらせてください!」
山葉寅楠 ( やまはとらくす ) 翁がオルガンと出会ったのは、 浜松 ( はままつ ) の地を踏んで間もないころ、明治十七年(一八八四年)、寅楠三十五歳のときです。当時は、オルガンを 風琴 ( ふうきん ) と呼んでおり、外国製が主流のかなり高価なものでした。そのオルガンが現在の 元城 ( もとしろ ) 小学校にあったのだから驚きです。このオルガンの話は、浜松だけでなく静岡県じゅうに広まり、各地から大勢の人が見学におとずれるほどでした。
そんな貴重なオルガンを、見たことも触ったこともない寅楠翁が本当に修理できるのか? 寅楠翁自身も周囲の者も不安でいっぱいでした。ところが、オルガンのなかの仕組みを一目見た寅楠翁は、バネが二本壊れているだけだとすぐに見抜きました。そればかりか、この仕組みなら自分にもつくれそうだという 探究心 ( たんきゅうしん ) がむくむくとわいてきたのです。
「今のアメリカ製のオルガンは四五円もする。自分なら三円ぐらいでつくることができる」
寅楠翁は固い決意をします。
その翌日から、寅楠翁は来る日も来る日もオルガンの内部を調べ、いろいろな部分を細かく図面に書き写しました。約一ヵ月が過ぎ、ようやく何十枚もの図面を書き終えた寅楠は、壊れたバネの修理に取りかかりました。そして、大した苦労もせずにオルガンを直してしまいました。
「山葉さん、すばらしい。ありがとう!」
「いいえ、校長先生。私のほうこそお礼をいいたいくらいです。おかげでオルガンを知ることができたのですから」
このとき、寅楠翁の胸には、オルガンづくりの夢が熱く燃えていたのでした。
しかし、オルガンをつくるといっても資金がありませんでした。五日ほどたったある日、寅楠は飾り職人である 小杉屋 ( こすぎや ) の 河合喜三郎 ( かわいきさぶろう ) をたずね、力を貸してほしいと頼み込みます。喜三郎は寅楠の熱意と腕にかけることにしました。こうして、翌日から小杉屋の仕事場を借りてオルガンづくりが始まりました。満足な材料もなければ道具もないなかで、寅楠翁は朝四時から夜の二時まで、ほとんど 徹夜 ( てつや ) で一つ一つ工夫しながら研究を積み重ねていきました。
そして二ヵ月後、やっとオルガンの第一号が完成しました。寅楠翁は、真っ先に元城小学校へ運び、 唱歌 ( しょうか ) の先生に頼んで弾いてもらいましたが、
「確かに形はオルガンだが、音がおかしい」
といわれました。それでもめげずに、今度は静岡 師範 ( しはん ) 学校(今の静岡大学教育学部)へ行き 批評 ( ひひょう ) をしてもらいましたが、結果は同じでした。

音がおかしければ実際に使いものにはなりません。そこで、静岡 県令 ( けんれい ) (今の静岡県知事)に東京の 音楽取調所 ( おんがくとりしらべしょ ) (今の東京芸術大学)を紹介してもらい、東京で調べてもらうことにしました。寅楠翁と喜三郎の二人は、 天秤棒 ( てんびんぼう ) でオルガンをかついで、東京まで二五〇キロメートル、「天下の 嶮 ( けん ) 」で名高い 箱根 ( はこね ) の難所を越えて、東京へ向かいました。
しかし、そこでも音の調子が不正確と 烙印 ( らくいん ) を押されました。すっかり 落胆 ( らくたん ) した寅楠に、音楽取調所の 伊沢 ( いざわ ) 所長は 調律 ( ちょうりつ ) の勉強をするようにすすめます。
東京で調律法を身に付けた寅楠翁が浜松へ帰って来たのは、その一ヵ月後、明治十九年(一八八六年)十二月のことです。周囲の者の反対を押しきって、寅楠翁と喜三郎は再びオルガンの製作を始めました。「今度こそ立派なオルガンを!」と心に念じながら、努力に努力を重ねていったのです。そして、二ヵ月あまりがたち、とうとう第二号のオルガンが完成しました。
再び、箱根の山を越えたオルガンは、伊沢所長の前ですばらしい 音色 ( ねいろ ) を響かせます。
「山葉さん、すばらしい! よくやりましたね。これなら外国製に負けない見事なオルガンだ。これで、全国の小学校へ国産のオルガンを置くことができますよ」
こうして、寅楠翁のオルガンが誕生し、日本楽器製造株式会社、今のヤマハ株式会社の前身が生まれました。
山葉寅楠翁、この人こそ国産第一号のオルガンとピアノをつくり、浜松が日本を代表する楽器のまちとなる 礎 ( いしずえ ) を築いた人なのです。

しかも、後進を育てることも忘れませんでした。


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河合小市翁

河合楽器製作所創始者の河合小市翁です。
器用でしかも忠実に仕事を仕上げる、11歳とは思えない要領がいい働きぶりの小市翁を山葉寅楠翁は、まるで我が子のようにかわいがった。そして小市翁も山葉を「師匠」と呼び、父のように慕ったという。
小市翁が入社した翌年から、山葉は本格的にピアノ作りに取り組むことになった。
だが精密なまでに美しい音色を出すピアノを作るのは、とても困難な作業で、
特に『アクション』と呼ばれる部分の製作に悩まされた。
『アクション』とは、演奏者の打鍵力をハンマーの打弦動作に変換する装置で、
音の強弱を自在にするための重要な部分。
この装置ができなければ、ピアノを作ることはできない。
山葉はピアノ製作を研究するためにアメリカへ渡る。
そして小市翁は浜松市の工場で、昼夜なく『アクション』の開発に挑んでいた。
食事をすることも忘れ、そのまま夜が明けたのもしらず、
早出の工員から「早起きですね」と言われ驚くことも。
仕事場に籠もりきりで、数ヶ月が経過すると、周囲の人たちからは体を壊すから休むようにと言われるが、
小市翁としては、これが完成できなければ辞職するほどの覚悟で必死だったという。
研究に没頭する日々を重ね、ついに『アクション』が完成。
その瞬間、工場のなかは歓喜の声に溢れるものの、小市は返事をすることができないほど疲労困ぱいだったという。
小市翁は、アメリカから帰国した山葉を浜松駅で出迎え、その姿を見つけると胸に飛び込み
「できました!アクションができました!」と報告。
抱き合う二人の目から涙がこぼれた。
この時、小市翁は、わずか14歳。
日本初の国産ピアノ完成の可能性は、まだ少年と呼ばれる歳の小市翁が切り拓いたのでした。
 1916(大正5)年、山葉が急逝してしまう。
世間の音楽への関心が高まり、楽器産業が盛んになり、会社の発展はこれからという、
そんな時だっただけに、社員たちの誰もが山葉の他界を悔やんだ。
そして小市翁は、誰よりもその死を嘆き悲しんだ。
新しく迎えられた天野社長は、先代の遺志を継いで「会社の至宝である小市を厚遇する」ことを宣言。
もちろん異議を唱える者はなく、これまでにも増して、小市翁は会社で重責を担うようになる。
この時、小市は30歳になっており、仕事の腕前は、さらに熟練していた頃でもあった。
1921(大正10)年、小市翁は天野社長の依頼により海外視察へ。
小市は大変喜び、たちまち一通りの英会話を身につけて
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアと各国の楽器工場を視察して回った。
そして、この視察で小市翁は、日本のオルガンやピアノの製造技術が外国に遅れをとっていることを痛感。
この経験は大変に役立ち、それ以後、小市翁の技術は、さらにレベルアップし、発明もさらに優れたものになって行く。
しかし、この5年後、第1次世界大戦後の不景気の波が押し寄せ、日本各地で巻き起こっていた労働争議が、小市翁が勤める社内でも勃発。
経営者と職工が対立し、天野社長は辞任へと追い込まれてしまう。
これまで会社で重要な役割を担ってきた小市翁も、この社内紛争の責任を取るべきだと考え、新社長や重役の慰留を押し切って、30年間1日も休まずに働いてきた会社を退職。
それを知って小市翁を慕う社員たちが、共に会社を辞めると言い出し、彼の説得も聞き入れず、結果として十数人が小市翁を追って退職。
そればかりでなく、彼らは私費を出し合って楽器製造工場の建設を始めた。
この情熱に小市翁は胸を熱くすると同時に、ピアノをもっと普及させたいと一大決心を固め、こうして『河合楽器研究所』が創設されたのです。


ピアノの大衆化を願って、まずは「全国の小学校すべてにピアノ1台を」という思いを込めて、通常の半額以下の価格でピアノの発売を開始。

安くて品質の良いピアノは好評を受け、全国の学校へと普及されて行く。
その生産姿勢は、楽器の国産に一生を捧げた山葉寅楠翁の遺志を継いでいました。


小市翁の人生は、まさしくオルガン、ピアノの開発に注がれたものでした。

そんな意欲と情熱は、日本国内ばかりでなく、海を越えて、実に数多くの演奏者たちから認められた、まさに「世界のカワイ」という大きな成果を収めた。
晩年には病を患い、69歳でその生涯に幕を降ろすが、その最期の言葉は「あとをたのむ」でした・・・・・・






浜松市楽器博物館


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