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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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第21回衆議院議員総選挙は、昭和17年4月30日に行われた日本帝国議会衆議院議員選挙



朝日新聞が慰安婦問題で一部反省 吉田証言「虚偽と判断し記事取り消します」と公表しました。
しかし、これでわが国の国際社会での信頼が回復されたわけでなく、今後も推移を見守りたいと思います。
毎年この季節になると、戦前の日本が暗黒社会だったとか、軍部が暴走して大東亜戦争に突入していったとか、本当の史実は抉りとられたまま、何ら進展は見えません。
そもそもナチスドイツと戦時下のわが国との最大の相違点は、両者の国内統治体制にみられます。
ドイツでは、政府、政党、秘密警察が、国民に権力をふるい、人々を裁判もせず投獄し、殺しました。
国民全体が、独裁者ヒトラーのもとで支配されており、独裁者の権力は、無限であり、その威光は、最高をきわめていました。
しかし、わが国の場合はそうではありません。明治時代に発達した政治体制は、変わらず、憲法も廃止されずにそのまま維持され、帝国議会は、戦時中も事あるごとに開かれていました。昭和17年に、日本で普通選挙が行なわれるようになり、大政翼賛会の候補者に加えて多くの無所属議員が出馬し、当選しました。
非推薦で当選した主な議員は、三木武吉、三木武夫(のち首相)赤尾敏、鳩山一郎(のち首相)、尾崎行雄(憲政の神様・議会政治の父)、斉藤隆夫(反軍演説)、中野正剛(右翼・のちに割腹自殺)、川島正次郎(のち自民党副総裁) 、笹川良一、西尾末廣(前・後の民社党初代委員長)らでした。 


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カリスマ的指導者や独裁者は、わが国には出現しませんでした。当時の西洋のマス・メディアが、「東條英機首相は、日本のヒトラーだ」と誇張して報道しましたが、それはあくまでも事実をふまえたうえでの報道ではなかったのです。東條氏は最高責任者でしたが、東条氏はヒトラーの権威も権力ももっていませんでした。東條氏は当たり前のように有力者となっていき、戦時中、批判が高まると、当たり前のように権力の座から引きさがりました。
東條氏は国家の主権者でもなく、総司令官でなく、陸軍や海軍の参謀本部に指図する権限もなく、自分の見解に反対の大臣たちを更迭、追放することはほとんど不可能でした。
東條氏は、ヒトラーやムッソリーニという同盟国の独裁者たちよりわずかな権力しかもっていなかっただけでなく、軍隊に命令を下すことのできたルーズベルトやチャーチルのような敵国の民主主義者たちの権力さえももっていませんでした。スターリンや蒋介石と比べる必要もありません。


わが国は第二次大戦中、正当な合法的方法で内閣が二度変わった唯一の主要戦闘国でした。
ヒトラーやムッソリーニやスターリンが、暴動が起こることもなく、流血もなく、拘引されることもなしに、全面戦争の真っ最中に権力の座から降りることができようとは、誰が考えるだろうか。東條氏が辞職したときには、誰も殺されることも拘引されることもなかったのです。
独裁者の国ではよく起こるような、後継者たちの非難も東條氏に対してはなされなかった。その後も東條氏は、つねに尊敬されるべき国民であり先帝陛下に助言を与えるべき人物であったのであり、高潔な人物でした。




大東亜戦争末期、民主主義の色が徐々にうすくなってきても、わが国は、欧米諸国の圧制に苦しむ国々とは、歴然と違いました。わが国には「政治犯収容所」はなく、日本人が自分の信条のために処刑されるということは余程のことがない限りありませんでした。左翼の人が捕らえられても“宗旨替え”転向すと速やかに釈放されたのです。転向を拒否した人々は留置されたままでしたが、その人数は徳田球一、志賀義雄ら僅かでした。
大東亜戦争が終わったとき、日本の獄中にいた政治犯は、スパイの容疑者や、根っからの共産党員を含めて、たった2500人しかいなかった。もちろん彼らは、無傷で釈放されました。
収容されていた人々が監獄で死んだこと、とくに食料不足や爆撃のあった終戦の年に多数死んだことは事実ですが、これら食糧難は日本各地でも見られました。勿論、政策的な政治犯殺害計画などは、日本では一度も存在しなかったのです。動画にある斉藤隆夫氏は帝国議会で軍部やファシズムに抵抗しましたが、命を狙われることはありませんでした。
これが権力闘争の過激な支那、ソ連だったらどうだったでしょうか?

よくテレビや映画に出てくる憲兵や特高(特別高等警察)は、国策に反対する人々を弾圧しようとしたのは事実ですが、その力も社会のすみずみにまでは及ばず、憲兵や特高はそれぞれ陸軍や内務省の管轄下にあり、ドイツの秘密警察ゲシュタポやロシアのKGB(国家保安委員会)のような独立した権力をもっていなかったのである。
どの国であっても、最高職につく人材は、権力の基盤を築ききってしまわないうちに、危機にみまわれる。日本の場合にも、東條政権の最初の時期に、彼に反対の動きがあった。そうした動きが彼の地位を危うくさせたとき、特高はこれを鎮圧して東條政権を守る力をもっていなかったのです。
これら憲兵や特高は過大に評価されすぎです。

国力を結集した大東亜戦争は終わりました。
先帝陛下の「ご聖断」によって国全体が一丸となった戦争にピリオドを打ちました。
政府が降伏を決定すると、軍部は再び徹底して命令にしたがいました。すべての戦場で、敗北の経験のなかった支那戦線においてさえ、日本の将校や兵士は武器を置き、敵にみずからを受け渡し、いつでも死ぬ、死ねる覚悟をもったのです。
その姿は雄々しく、高潔でした。
戦禍に散った先人に思いを馳せる時、偽りの歴史にピリオドを打ち、先人の汚名を雪ぐことなくして、民族の繁栄はありえないでしょう。


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)
 

美し国 日本 京都二十四節気 立秋(りっしゅう)





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豪雨災害に遭われた被災地の皆様にお見舞い申し上げます。
引き続き台風の動きにも注意なされてくださいませ。

拙ブログにご訪問いただきありがとうごいざいます。
日々美し国に生(せい)をうけたことを先人・先祖に感謝いたしております。
美し国、四季のある国、日本。
桜が咲いてそして散り、梅雨には雨が降り、夏には穀物が成長し、秋には紅葉が散ること、そして冬には雪が降ること。
春夏秋冬、季節折々の表情を見せてくれます。
しかし、時には大自然が牙を剥き災害になります。それでも我々の祖先は災害を恨むことなく神の怒りだと身を律し、自然を崇拝し、ともに生きてきました。

我々日本人は、往古の昔より、その美しい自然の変化を、明治まで、二十四の季節に分けて愛でてきました。

私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵があり、現代の日本人にない潤いのある生活を営んでいたように思います。
それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり長らく愛したのです。

古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものを­みつけだすことと似ています。そしてその不変のものを大事にしなければなりません。時代が変わろうとも日本人の本質は変わってはならないものです。

ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと­、それとともにある大切な文化をつたえていきたいものです。

その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたもの、それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。

新暦の8月27日〜8月22日頃、初めて秋の気配が表われてくる頃を 立秋(りっしゅう)と言います。
〜立秋の自然〜
夏の土用が明けると、暦の上では、いよいよ秋です。まだ厳しい残暑が続きますが、祇園まつりの頃と比べると時折、風が変わり、はっとさせられることがあります。
「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風のおとにぞ おどろかれぬる」(古今和歌集)と歌にもあるように、いにしえの人々は、ひそかな風の­そよぎの中に秋の気配を感じ、愛でていました。この西から吹く気持ちよい涼風は、「極楽の余­り風」と呼ばれ、古の都人たちは夏の盛りから敏感に感じ取られました。
荒波の人生でも、心を正し、自然に耳を澄ませば、極楽のお裾分けがいただける、という­ことなのかもしれません。

筆者が若い頃過ごした京都では様々な風習がありました。
六道まいり〜立秋の暮らし〜もその一つです。
京都では、先祖の霊を「お精霊(しょらい)さん」と呼び、お盆になると、「六道まいり­」といって、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)にお迎えにいく習わしがあります。
冥土まで響くという鐘をつき、戒名を記した卒塔婆に槙の葉で水をかけ、その槇を持ち帰­ると、お精霊さんが家に帰ると信じられてきました。六道とは、仏教で、生物が生死を繰­り返す六つの世界。珍皇寺が六道といわれるのは、平安時代の葬送地・鳥辺野に近かった­ためで、現世と冥土の境目「六道の辻」とも呼ばれました。
お精霊さんは、「五山の送り火」で、ふたたび冥土へ送られます。
古来より連綿と続くわが国の死生観がよく現れたものです。
「五山の送り火」が終われば京都は秋の気配を迎えます。
千年の都、京都。
近代化の狭間にまだまだ、古(いにしえ)を感じさせてくれる古都です。







動画、一部の文章は京都市中を走る、京福電気鉄道(株)より引用、加筆、参考にさせていただいてます。


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昭和21年の春、満州はソ連軍に占領され、新京の第八病院に勤務を命じられた服務中の看護婦に対し、城子溝にあるソ連陸軍病院・第二赤軍救護所から「3名の看護婦を応援によこせ」という命令が届きました。期間は1カ月ということだったので、優秀な3名の看護婦を選んで派遣しました。
 
ところが1ケ月が過ぎても看護婦は帰ってこないばかりか、さらに3名、また1カ月経って3名と要求されたのです。帰すという約束を守らないソ連軍のやり方に憤りを感じながらも、占領軍の命令とあれば致し方ないと、計9名を派遣しました。
 
4回目の命令で渋々ながら選考を終えた619日、最初に派遣された看護婦の一人が全身血まみれになって帰って来ました。
息も絶え絶え婦長に語るには、「私たちはソ連の病院に看護婦として行ったのに、看護婦としての仕事はさせてもらえず、行ったその日からソ連軍将校に犯され慰み者にされました。それも次から次へとソ連兵の”性奴隷”とされ、彼らの言動から同僚たちが次々と送られてくることを知って、居ても立ってもいられなくなり、鉄条網で皮膚が割かれるのも、歩哨に銃で撃たれるのもいとわず、命懸けで報告に帰って来ました」と言い、最後に「婦長さん、もう人を送ってはなりません」と言って、ついに息絶えました。
 
その翌日、満州のしきたりに従って土葬とし、髪の毛と爪を遺骨代わりに箱に納めて、故人には懐かしい看護婦室に安置し、花と水を供えて、残った看護婦達と夜遅くまで思い出話をしていました。
 
ところが翌日の朝9時を過ぎても看護婦が誰も出勤してこないので、婦長さんが看護婦室に入ってみたところ、22名の看護婦全員が制服制帽を付けて、一人一人遺書を残して亡くなっていました。 
 
 
遺 書
 
二十二名の私たちが自分の手で命を断ちますこと 軍医部長はじめ婦長にもさぞかし御迷惑と深くお詫び申し上げます。
私たちは敗れたりとは云えかつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。
たとえ命はなくなっても 魂は永久に満州の地に留まり 
日本が再びこの地に還って来る時、ご案内致します。
 
昭和21年6月21日 散華
旧満州新京(現長春) 通化路第八紅軍病院
 
荒川さつき 大島花枝 川端しづ 相楽みさえ 澤本かなえ 杉まり子 
垂水よし子 林千代 細川たか子 吉川芳子 池本公代 稲川よしみ 
大塚てる 五戸久 澤口一子 三戸はるみ 杉永はる 中村三好 林律子 
森本千代 渡部静子 石川貞子 井上つるみ 柿沼昌子 沢口千恵子 
沢田八重 柴田ちよ 田村馨 服部律子 古内喜美子 山崎とき子
 
 
後の情報で、ソ連軍の将校に犯された看護婦たちは皆、国際梅毒に罹患していたことが判明しました。  
 
その後、ソ連軍は引き揚げて、新京は支那の八路軍の支配下に入り、昭和239月に帰国命令が出て、堀喜身子婦長は幼い子供二人と報告のため逃げ帰って亡くなった1名を含めた23名の御遺骨とともに、やっとの思いで帰国しました。
 
御遺骨はご主人の菩提寺である山口県徳山市のお寺に預かってもらいました。喜身子婦長は母親の住む北海道帯広市の病院で働き、後には静岡県清水市の病院で看護婦として働きました。喜身子婦長の願いは、連れて帰った23名の御遺骨を顕彰するために地蔵菩提をつくりたいということでした。
 
昭和27年、埼玉県大宮市に財団法人青葉園という公園墓地が出来ました。この開設者は元陸軍大尉で、山下奉文大将の副官をしていた吉田亀治さんです。園内には山下大将の墓が設けられたり、青葉神社が建立されました。
 
ちょうど同じ頃、浪曲師の松岡寛が週刊誌に「22名の日赤看護婦の集団自決」の話が載っていることを知って感激し、喜身子さんを探し当て、意気投合し、浪曲師として残りの半生を集団自決の日赤看護婦の語り部として過ごすことを決意し、公演を続ける中に、時には遺族が名乗り出て御遺骨の一部を返すことも出来ました。
 
大宮での一座の公演で、吉田亀治理事長は二人から話を聞いて、直ちに彼女たちのために地蔵菩提をつくることを決意し、「青葉慈蔵尊」という若くして散った乙女らを弔うにふさわしい名がつけられました。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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