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鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社です。
一宮(いちのみや)とは、神社・神宮のある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことですが、一の宮・一之宮とも書きます。
通常「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多いですが、律令制において国司は任国内の諸社に神拝することが定められており、一宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると言われている。律令制崩壊の後も、その地域の第一の神社として一宮などの名称は使われ続けているのです。
鹿島神宮は、同県神栖市にある息栖神社(いきすじんじゃ)、千葉県香取市にある香取神宮(かとりじんぐう)と合わせて東国三社と呼ばれています。
また、平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだったことからその格式の高さが窺えます。
創建は、神武天皇元年(皇紀元年)現在が皇紀二千六百七十一年ですから建国以来の歴史があります。 鹿島神宮
冒頭の動画にあるように、鹿島神宮の12年に一度の式年大祭「御船祭(み/ふね/まつり)」が2日、常陸利根川などで行われた。祭神の武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)と香取神宮(千葉県香取市)の祭神の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が再会し、人々の幸福と地域の安寧を願う神事。
鹿島神宮祭神の神輿(しんよ)を載せた御座船(ござせん)が約100隻の供奉船とともに、鹿嶋市大船津の鰐(わに)川から常陸利根川の香取市加藤洲(かとうず)まで往復約20㌔を巡幸する様子はさながら水上絵巻で、川岸に詰め掛けた多くの見物人を魅了した。
御船祭は応神天皇時代の約1700年前に祭典化されたとされ、現在は12年に一度の午(うま)年に行われる。
御船祭は午前8時半、鹿島神宮からの神輿の陸上巡幸でスタート。神職や各地区の氏子、鹿島新当流の剣士など約3千人が武者装束姿で水上巡幸の起点となる鰐川河岸の大船津まで、約2㌔を行進した。
神輿は大船津で、水上にそびえ立つ朱塗りの西一之鳥居(にしのいちのとりい)をくぐり、竜頭を飾り付けた全長約30㍍の御座船に載せられた。鳥居は今回の御船祭のために新調され、特設桟橋にも朱色の敷物が敷かれた。御座船は五色の吹き流しを付けた大小の船に取り囲まれ、「晴れ」の気を放った。
水上渡御は、大船津を起点に外浪逆浦(そと/な/さか/うら)を経由して加藤洲に至る往復約20㌔のコース。大船団は、前夜の雨から打って変わった快晴の下、水上を滑るように進んだ。
御座船は加藤洲で斎杭(いみ/くい)に係留され、香取神宮による御迎祭(お/むかえ/さい)が行われた。神輿を前に両神宮神職らが向き合い、香取の高橋昭二宮司が武甕槌大神に「両神宮は共に国づくりに力を尽くした。それを忘れず、心を正していくことが大事」との内容の祝詞を奏上。続いて前回の御船祭があった午年生まれの12歳の少女4人による「浦安舞」が奉納された。
神をも畏れ、敬わない人々が増えた昨今ですが、かっての日本人はすべてのものに神が宿り、支配しているものと信じ、崇敬していました。
そして今日に至るまで、先人・先祖は文化、伝統を継承し、今日の我々はその精華の上に繁栄を享受しています。
わが国の要(かなめ)である皇室を中心に変わらぬ「国のかたち」を有形・無形に紡いでいくことこそ今日に生きる日本人の使命なのです。
日本のまつり、それは、日本古来の文化の伝承です。
祭りを運営する人、参加する人、そして見る人。
「まつり」年齢、性別、肩書き、身分の上下など関係なく、境界線を越え、人と人を結ぶ無心のエネルギーでした。
そしてこれらは今後も変わることなく無窮に続いていくのです。
「まつり」はすべての人がひとつになって夢中になれる唯一の文化といえましょう。 いま日本に必要なのは、そんな底知れぬ生命力に満ちた祭りの力と、一体感、人と人の心の絆、祖先・先人を敬愛し、皇室を崇め、天津神(あまつかみ)( 伊勢の大神宮)、国津神(くにつかみ)(氏神)、森羅万象を司る八百万(やほろず)の神々に感謝をし、よりよい日本を後世に残し、日本のこころを後世に伝えることではないでしょうか? 天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい) |
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