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元帥陸軍大将の梨本宮守正王の第一王女方子(まさこ)妃殿下は、明治34年にお生まれになられました。若くして美貌と明敏の誉れが高かった方子妃は、当時、皇太子殿下(昭和天皇)のお妃候補のお一人でしたが、15歳で朝鮮王朝の皇太子・李垠殿下と結婚なされました。
日本は日韓合邦(併合は植民地による支配を現わすので、当時の朝鮮も望んだことなので合邦と呼ぶ)で韓国の王族は日本の皇族と同等に待遇していました。
しかし朝鮮内部では日本人との結婚に反対する根強い抵抗がありました。李王朝の血の純血が汚れるということと、李垠には既に婚約者がいたからでした。
方子妃も日韓融和のための使命とは受け止めながらも危惧の念は強かったと言います。
李垠殿下は日本陸軍の中将まで栄進しましたが、戦後、大統領になる李承晩が自分が権力を握りたかったために韓国の王・李垠殿下を祖国に戻ることを許されず、そのうち李垠殿下は脳軟化症にかかり、意識もなくベッドに横たわる日々となりました。朴大統領(パククネの父)の配慮でやっと韓国に帰国したのが昭和38年でしたが病床のまま昭和45年に亡くなられました。
意識のない夫の看病に11年間も尽くされた方子妃は「一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかった」と話されておりました。
夫の逝去後、反日の強い韓国で方子妃は福祉事業に全力投球されました。冷たい視線を浴びながらも持ち前の明るさと気品と辛抱強さで小児麻痺の子供達のための施設と精神薄弱児の学校を創設されました。それは今も方子妃を慕う韓国人の手によって継承されています。
昭和53年9月23日、赤坂プリンスホテルで「李方子妃殿下喜寿を祝う会」が催されました。韓国大使や在日韓国人も多数出席しました。この時、演奏を担当したのが自衛隊の音楽隊で、曲目は妃殿下の境遇を考慮して寂しく悲しい曲が続き、最後は「蛍の光」で終わることになっていました。
しかし妃殿下は途中でたまらなくなったのか「軍艦行進曲」を演奏するように要請しました。驚いたのは在日や韓国大使です。自衛隊が躊躇していると妃殿下はいきなりマイクをとり「私も元帥陸軍大将の娘です。これから韓国に帰って本当の戦いが始まるのです。私を励ましてくれるなら蛍の光では元気が出ません」。
この言葉に会場は静かになりましたが、自衛隊音楽隊が「軍艦行進曲」を勇壮に演奏し始めると、会場は妃殿下の心情に心打たれて、最後には嗚咽の声が伝わりました。
韓国では「障害児の母」と呼ばれ、平成元年に逝去された方子妃殿下。生涯、日韓の狭間で苦悩された境遇で「軍艦行進曲」を望まれたのは日本人としての矜持であったのでしょうか。
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