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別宮として浦安宮をアップしましたが〜
今回は宮城縣護國神社です☆ 主祭神は護国の英霊です ちょうど枝垂れ桜がまだ見る事が出来ました☆ 鎮魂の泉 天皇皇后両陛下が行幸された記念です こちらが大鳥居でしたが 駐車場の関係で、もう一箇所の方から来ました 逆さのハート☆ ![]() ![]() 英霊顕彰館 も見学が出来ます 線の所からジャンプ出来ます 新しくされた様で、まだ胴の色が輝いていました こういったシーンも珍しいと思いました こちらにも大東亜戦争後に米軍の軍事拠点が置かれていたそうです 結構な山にあります 朱色が艶やかな美しさを感じる神社でした ![]() 本日は国民の祝日「昭和節」 ![]() 昭和の日ですね〜 私には相応しい良い記事が書けないですが、日本人で良かった〜と心から思います ![]() さくらの花びら 様が良い記事を書かれていましたのでお借りしますm(_ _)m 昭和天皇の深い思いに感動する http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/33445219.html?vitality#33445219 記事の方に戻りますが、HPが2つありましたから両方共、付けておきますね 2015/04 宮城縣護國神社
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2015年04月29日
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天皇彌榮(すめらぎいやさか)
日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
わが国は春夏秋冬の眺めの”美しい国”です。
山や川や海のきれいな国です。このよい国に私たちは生まれました。
戦前まで我々の先人はわが国をこのように形容しました。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。 自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
わが国では約二千年前に稲作が始まりました。森を切り開き耕地整理をし、道路や集落を形成してきました。
そして、同じ神を崇め祀り連綿とそれらを紡いできました。
今回、ご紹介させていただく田川神社は姫路市香寺町須加院に鎮まりますが、現在は行政区として姫路に属していますが、かっては神崎郡香寺町でした。
旧神崎郡は720年頃(養老年間)に編纂された『播磨国風土記』で、播磨の国・神前郡(かむさきのごおり)と記された当時の神崎郡には六つの里があったと記録されています。北から、埴岡の里(現 神河町・朝来市生野町)、川辺の里(現 市川町の川東)、高岡の里(現 福崎町の川西)、的部(いくはべ)の里(現 姫路市香寺町)多駝(ただ)の里(現 姫路市に合併された船津町・山田町、及び福崎町の川東)、陰山の里(現 姫路市豊富町)があり、田川神社は的部(いくはべ)の里に属します。
本記事の冒頭の画像の石の大鳥居は奥須加院東端に位置し、上記の画像とは500米ぐらい離れており、参道は須加院川の流れの変遷、圃場の移り変わりなどで往事を確認することはできませんが、往事は相当の御神域であったことは容易にうかがえます。
神社由緒によると神功皇后にまつわる神社で、いろいろの伝説があるが、記録に出てくるところによれば、永正3年(1507年頃)赤松一族がこの付近を統治し、天正6年(1579年頃)には、赤松氏の代官として馬杉五郎衛門が代わって治めていた時、本殿屋根の修理をしたとあるが(本殿造営の年は不明)拝殿は、永禄8年(1565年)に建てたこととされ、現在の田川神社となっています。
名称 田川神社
社格 郷社 式内社
ご祭神 息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)
大年神 (おおとしがみ)
鎮座地 兵庫県姫路市香寺町須加院1440
目通り幹囲:5.6m 根本周囲:8.85m 樹高:37m 枝張東西:30m
周南北:34.5m 推定樹齢:550年 全国順位:69位
樹勢極めて盛んで周囲の環境もよいので将来二倍の太さになると見込まれている。 近代化とともに開発が進み、かって生息していた植物や小動物が消滅していきました。そして外来種の繁殖で生態系が変化しています。
我々と祖先を結ぶもの。それは神社であり、祭りであります。 先人と我々現代人が同じ風景を見れる場所とは神社しかないといっても過言ではありません。神社境内まで開発や世の穢れは及びません。
「鎮守」とは、その土地の地霊をなごめ、その地を守護する神さまです。その言葉通り、鎮守の森は地震、台風などの自然災害から、私たちを守ってきました。さらに神社を守ることによって文化。伝統を伝えてきました。
祖先の英知の結集でもあり、浅はかな現代人が考えもつかないことだと筆者は思うのです。 あらゆる風景は刻一刻と変わっていきますが、神社は過去、現在、未来も氏子や崇敬者によって護られ、それらは継承されていきます。
民族の魂として・・・
天皇彌榮(すめらぎいやさか) |
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昭和天皇陛下、香淳皇后陛下 御尊影
今日は昭和の日、先帝陛下の誕生日にあたります。
かって我国は、畏くも天皇陛下の誕生日を「天長節」皇后陛下の誕生日を「地久節」として国家挙げて祝い慶びました。 戦前の祝祭日は、根拠、目的、由緒がはっきりとしたものでしたが、戦後の祝日法によって定められた祝日は、目的、由緒が漠然としており、これでは何の為の祝日かわかりません。 昭和の日を「昭和節」文化の日を「明治節」とし、皇室祭祀にまつわる祭日も本来に戻すことこそ愛国心を涵養し、今の日本にとって大事なことです。 過去にご紹介させていただいた、先帝陛下のエピソードですが、先帝陛下の御遺徳を偲び、「大御心」に常に護られている国民として、感謝の意を捧げ、関西地方は雨ですが、心に国旗を掲揚し、声高らかに、聖寿萬歳を唱えるものです。 公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王殿下
――昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?
■[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸/松崎敏弥殿下 二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたいことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。その時の記憶で特に鮮明なのは、陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と淡々とおっしゃったことでした。一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を言上(ごんじょう)したわけで、いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。
またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。 ――昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。 殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(信子妃殿下は麻生太郎元首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。 義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、 「太賀吉は元気でおるか?」 とおっしゃったのです。 実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。 ――国民に対するお気遣いも有名でした。 殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。 ――今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか? 殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。 ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、 「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」 とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。 また、伯父様はこうもおっしゃっていました。 「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」 まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。 当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。 後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。 ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「五つの佳話」/加瀬英明
天皇は敗戦の年の昭和20年12月に、松村謙三農林大臣を皇居に呼ばれてこういわれた。 「戦争で塗炭(とたん)の苦しみを受けた国民に、このうえ餓死者を出すことは自分には耐え難い。政府が要請をしたのにもかかわらず、アメリカは食糧を与えてくれないという。だが、考えれば、当方に代償として提供すべき何物もないのだから、いたしかたがあるまい。 それで聞けば、皇室の御物(ぎょぶつ。天子の所有物、あるいは皇室の所蔵品)のなかには、国際的に価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡して食糧に代えて、国民が飢餓を一日でもしのぐようにしたい」 そして帝室博物館の館長に命じてつくらせてあった皇室御物の目録を農相に渡された。天皇の意向は幣原喜重郎首相(在任昭和20年10月〜21年5月)を通じてマッカーサーに伝えられた。しかし、マッカーサーは「それは皇室の人気取りだ。そのようなものは必要ない。私が責任を持って、かならず本国から食糧を輸入する方法を講じよう」といって、緊急食糧を日本に放出するようワシントンに求めた。 昭和54年8月、宮内庁記者団とのご会見のときに、記者団から当時のことについて質問が出された。 「そういうことがあったのは事実です。しかし、自分のしたことですから、あまり公にしたくはありません」 これが天皇のご返事であった。 ※昭和24年から東宮御教育常時参与となった小泉信三博士は、皇太子(今上天皇)の教育係を引き受けるに当たって、昭和天皇に拝謁した。 そのときに、「陛下の御態度は、侍臣のおすすめ参らせた結果によるものでしょうか、あるいは古の聖人の書や明哲の伝記などをお読みになって、そういう習慣を御身につけられたのでしょうか」とうかがった。 すると、天皇はいとも簡単に「それは人のすすめによったものでもなく、読書の結果でもない。これはわが家の伝統である」とお答えになった。 ※天皇は酒を飲まれなかったし、美食を好まれることもなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。 ※皇太子が学習院初等科を卒業された昭和21年3月、天皇はお祝いに写真機を贈ることを思いつかれた。侍従に「市場にあるものは、闇市でたかいことだろう。(宮内省)写真部に中古はないか」と写真部から中古品を一つ取り寄せられた。 「これでよろしい。皇太子にはこれが手ごろだよ。あまり立派なものや、高いものを与えては、将来のためにならない」 といわれた。今上天皇のカメラ好きはこのときに始まる。 ※昭和のはじめ、陸軍大演習のため名古屋地方へ行幸された際、演習終了後に名古屋市内にある愛知時計電機の工場を視察されたその夜、30名ばかりの地方の民間功労者を晩餐(ばんさん)に招かれた。 時計が話題となった。すると陪食(ばいしょく)を賜(たまわ)った一人が、チョッキから金鎖を手繰(たぐ)り、金時計を取りだし、得意げに「陛下、これは外国製で御座居ますが、実によく合います。国産のものはどうしても不正確で、まだまだとうてい外国製には及びません」と申し上げた。 天皇はそれを聞かれると、ご自分の右ポケットから懐中時計を取り出された。 「わたしのこの時計は12円50銭の国産品だけどもよく合うよ」 と嬉(うれ)しそうに示された。その時計は侍従が天皇にいわれて東京・銀座のシチズン時計店で買ってきたものだった。高価な外国製時計よりもはるかに安価だったが、天皇はお使いになって外国製に負けないことを心から喜ばれていたのだった。 ※昭和天皇の即位式である即位大礼が行なわれたのは、大正天皇の諒闇(りょうあん。天子が父母の喪に服する期間)が明けた昭和3年11月だった。天皇は27歳。 翌月の15日、東京の皇居前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の諸団体から、青年男女約8万人が参加する大礼奉祝の式典が行なわれ、天皇が御親閲されることになった。天皇は大会の開催に同意されるとともに、天候を心配された。 「もしも当日、雨が降ることがあったら、青年たちに雨具を着用させるようにしてほしい。また、いかような大雨になっても、わたしが立つ場所に天幕を張ってはならない」 とお命じになった。当日は早朝から大雨であった。そこで、御座所の位置の上に天幕が張られた。宮内大臣をはじめ側近たちは天皇のご健康を思いやってのことだったが、天皇は「天幕を取りに除いてほしい。司令官も時と場合によっては第一線にたつことがある。今日はわたしのいうことに従ってほしい」と要望された。 午後2時、天皇は雨のなかを二重橋正門から自動車で式場に到着された。天皇が下車されると、侍従がすぐにうしろから雨用のマントをおかけした。だが、お立ち台の上でマントをお脱ぎ捨てになった。広場を埋め尽くした青年たちが篠突(しのつ)く雨のなかを雨具もつけずに全身を濡らしているのを、ご覧になったからだった。 やがて、青年たちが御前で分列行進を開始すると、天皇はずぶ濡れになられながらも繰り返し、挙手の礼をもって答礼された。多くの青年たちは感動して、涙が雨にまじって顔を濡らした。 天皇は式典が終わる1時間20分のあいだ、軍帽や軍服から水をしたたらせながらお立ち台に裁ち続けられた。 当時の代表的なジャーナリスト、徳富蘇峰は翌日の「国民新聞」に、式典の天皇の姿に感動して「真に感涙が溢るる」という文章を寄稿した。 やすらけき世を祈りしもいまだならず
くやしくもあるか きざしみゆれど
昭和六十三年に、「全國戦没者追悼式八月十五日」と題されて詠ませられた畏くも、先帝陛下の大御歌(おおみうた)です。
陛下最晩年の御製であり、公に発表された大御歌でこの後に詠まれた御歌は二首のみです。
畏くも、先帝陛下のお嘆きの深さを痛感致します。
ご病状も進み、那須の御用邸でご療養中であられたにもかかはらず、八月十五日の『全國戦没者追悼式』にヘリコプターで移動あそばされ、御親覧あそばされたのであります。
畏くも、先帝陛下はそれほどまでに戦没者に対する慰霊と感謝の思いをお持ちになっておられたのであります。有難き限りであります。
畏くも、先帝下はこの2年前に、
この年のこの日にもまた靖國の
みやしろのことにうれひはふかし
と詠まれあそばされ、必死の力をふりしぼり全國戦没者追悼式の壇上にのぼられたのであられました。
六十三年間もご在位になり、この全く異例の恐れ多い最後の國事に対しての御製になったことは臣下として全く申しわけなく思います。
出雲井晶さんは、「『やすらけき…』を拝誦しますとき、申しわけなさに身のちぢむ思いがするのは私だけではないでしょう。…國民みなが思し召しを自分の問題としてとらえ、無私の大御心をみならおうと努めるとき、現今の様々な危機的状況は次第に消えましょう。
わが國の本当の姿である『明き清き誠の心』がみなにあらわれ、わが國は新しくよみがえりましょう。天上にいます昭和天皇にご安堵いただける日のくることを祈らずにはおられません。」(『昭和天皇』)と書かれています。
大東亜戦争終戦後、先帝陛下はマッカーサーは戦後、11回にわたり会談あそばされた。
しかし、マッカーサーが解任されたとき先帝陛下はアメリカ大使館を訪問あそばされ、別れの挨拶をされました。
しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、先帝陛下は見送りにいかず侍従長遣わされたのみでした。
昭和39年マッカーサーは84歳で死去し、バージニア州のノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。
昭和50年、先帝陛下は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきましたが、先帝陛下はこれを断りあそばされた。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを拒みました。
訪米あそばされた先帝陛下はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられましたが、この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離にありました。それでも先帝陛下は記念館には出御あそばされませんでした。 GHQは民主主義を米国が日本に持ち込んだと盛んに刷込みました。
現在でもマッカーサー信者がわが国にも存在します。
しかし、訪米を前に外国人記者団に先帝陛下は次のように叡慮を述べられています。
記者「戦後の日本の民主化、皇室自体の変化、婦人や労働組合の変化など具体的な問題をどう考えられますか」 明らかにマッカーサー及び、米国の悪意ある占領政策を否定された先帝陛下。
國父の大御心、臣民知らず、最も恥ずべきことであります。
國家のことに一身に背負われるのは、行政の長、内閣総理大臣でも、政治家でもありません。肇國以来、上御一人、陛下ただお一人なのです。
先帝陛下の大御歌(おおみうた)
やすらけき世を祈りしもいまだならず
くやしくもあるか きざしみゆれど
心ある臣民の皆様には、今一度熟考いただきたい。 そして世界平和と、日本国民の幸せを願われた先帝陛下の御遺徳を偲び、今上陛下の「大御心」に感謝し、「昭和節」「昭和神宮」への声が巷に広まることを願ってやまないのです。
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳
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4月29日は「昭和節」(昭和天皇誕生日)の日です。明治天皇のお誕生日(11月3日)は戦前は「明治節」と呼んでいましたが、戦後はGHQの指導の下で祝日法が公布されて「文化の日」にされてしまいました。
しかし日本が本当に主権国家であるならば「明治節」に戻すべきです。なぜならば明治の時代は白人列強の侵略から日本を守るために二度も大きな戦争をして勝利した気概に思いをはせるべきだからです。
同じように昭和の大東亜戦争も日本とアジア諸国を白人の植民地支配から打破するために戦い抜いた気概に思いをはせるべく「昭和節」と呼ぶべきであります。
日本はアジア諸国の独立には貢献しましたが、残念ながら日本は占領されてしまいました。その占領下で多くの国民が飢える中、日本を守ろうとされたのが昭和天皇でした。他国の君主は戦争で敗れると国民を捨てて他国に亡命します。しかし天皇陛下は違うのです。
「自分は絞首刑になってもよい。国民だけは餓えさせないでほしい」とマッカーサーに11回もご訪問なされて、全力を傾けて立ち向かわれたのです。その時の陛下の御心はこの御製に現れております。
身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて
戦争によって先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、大変災厄を受けたため、昭和天皇は全国を歩いて、国民を慰め、励まし、復興のために勇気を与えようと全国御巡幸をなされました。
占領中は日の丸を振ることが禁止されていましたが、天皇陛下奉迎の時だけはよろしいというお触れが出ました。日本国民は陛下のお姿を拝すと、日の丸の旗を振り、君が代を奉唱し、お出迎えされたのであります。
その時、陛下は終始一言もお言葉を賜りません。しかし日本人には陛下の御心がひしひしと感じとることが出来るのです。「すまなかった。自分と力を合わせて一日も早く日本の復興を成し遂げようではないか」・・・。
三池炭鉱で赤旗を振って気勢を挙げていた赤い坑夫達は、陛下がお着きになられると急に赤旗を下し、日の丸を振って、万歳、万歳と叫びました。陛下は地底深く坑道を巡られると、その後炭坑は増産になりました。
陛下のお出になるところ、日本人は不死鳥のように立ち上がりました。その時の陛下の御心もこの御製に現れております。
身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて
昭和天皇が最後の行幸となられた昭和63年8月15日の全国戦没者追悼式。陛下の一歩一歩と玉歩を進ませ給う痛々しい尊い御姿は、天皇陛下こそ日本にとってかけがえのない存在である「國體」であることが日本人には感じることが出来ました。追悼式に臨まれた陛下の御心もこの御製に現れております。
身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて
陛下は6月から御食事も進まれず、7月20日から那須御用邸で御静養なされ、8月15日の追悼式にだけは何としても臨みたいとの強い思召しで臨まれましたが、それから1カ月後の9月19日に不起の御病床につかれました。
この時、陛下の作歌の御相談役であった歌人の岡野弘彦のもとに徳川侍従長が訪ね「陛下はこの歌の表現だけはきちっとさせておきたいと仰っているので見て下さい」と言った。その御歌は、
身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて
陛下が最後まで気になられたのはこの歌でありました。
岡崎は「あの形が一番結構だと思います」と言った。
陛下は御隠れになる最後まで、たくさんの国民を死なせたことを悔しいこととして深く心にかけておられたのです。
昭和天皇は深いお嘆きのまま崩御あそばれたのです。この思いを消さないように、4月29日は「昭和節」と呼びたいと思います。
画像:桜乃一人静様
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