|
君が代 天皇彌榮(すめらぎいやさか)
謹んでお伝えいたします。 畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては、26日、戦後70年の節目に戦没者を慰霊あそばされるため、昭和20年3月の東京大空襲の犠牲者ら約10万5000人の遺骨を納める東京都慰霊堂(墨田区)に出御あそいばされ、霊殿に供花して拝礼あそばされた。
大東亜戦争では、全国各地で空襲による甚大な被害を受けており、宮内庁によると、両陛下はこの日の慰霊堂への拝礼を通じ、全ての空襲犠牲者を追悼する思いを込められたということです。
慰霊堂には、戦後50年の節目だった平成7年の「慰霊の旅」でも出御されておられる。
聖上とは、畏くも天皇陛下敬う語であります。最近ではあまり最高敬語を使わなくなり、残念に思います。言葉の乱れは世相の乱れと比例します。
最近は綺麗な日本語を使われる人が減りました。今一度品ある日本語に回帰すべき秋がきていると筆者は思います。
わが国の聖上は、常に国民と共にあり、国民の幸福と安寧を願っておられます。
わが国は皇室を中心とした国柄であり、聖上と国民は苦楽を共にしてきました。長い歴史の中で日本人が一致して、強い団結力を発揮するのは、聖上を中心として、心を一つにした時でした。そこに、いま見失われている「やまとごころ」があります。やまとごころを取り戻しましょう。そして、国民が一致団結して国難を乗り超えましょう。
畏くも、両陛下におかれましては、いつまでもお健やかであられることを衷心より祈り奉ります。
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳 (せいじゅばんざい) |
過去の投稿日別表示
-
詳細
2015年05月27日
全1ページ
[1]
コメント(5)
|
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
わが国は春夏秋冬の眺めの”美しい国”です。
山や川や海のきれいな国です。このよい国に私たちは生まれました。
戦前まで我々の先人はわが国をこのように形容しました。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。 自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
今回ご紹介させていただくのは、但馬の国一の宮、粟鹿(あわが)」神社です。
兵庫県朝来市山東町にある粟鹿神社。
但馬五社の一つ。但馬国随一の古社であり、2000年以上の歴史をもつと言われる。 但馬国一宮は出石神社と粟鹿神社の二社とされる。 毎年10月17日に、二百数十年も続いている奇祭「さあござれ」が行われる。 朝来市山東町粟鹿の粟鹿神社の秋の例大祭で、豊年への感謝を神に伝える古式ゆかしい儀式「瓶子渡(へいじわたし)」が営まれた。境内には「さあござれ」という独特の掛け声が響き渡った。
「さあござれ」は古式ゆかしい瓶子渡祭(へいじわたし)の儀式ですが、麻の裃を着用した当人四人の内、二人が階上と階下にわかれ、御陵柿(かき)、茄子(なす)、稲のひこばえなどを盛った三宝を「さあ ござれ」「さあ」と言いながら、左右交互に差し違え、これを十数回繰り返し、意気の合った時に三宝を階上の者に渡し、殿内に納めて儀式を終わります。
全国にも例を見ない、ユニークな儀式といえましょう。 本柱間の両開きの唐戸は、透かし彫りの欄間をつけ、羽目板には鳳凰が刻まれ、頭貫には唐草模様が見られます。 全体的には、唐様でありながら、天竺様の手法が取り入れられた貴重な町指定文化財。 通常は年二回の大祭(祈年祭・例祭)以外に開かれることはなく、俗に「開かずの門」とも呼ばれています。 木造著色随身倚像(もうぞうちゃしょくずいしんいぞう)一対二体
手水舎
但馬国一宮は出石神社と粟鹿神社の二社とされています。
当社は但馬一の古社であり、創祀は定かではありませんが、崇神天皇の御代、粟鹿山の麓に創立されたといわれ、景行天皇十二年、天皇が筑紫の熊襲を征圧した時に
勅して天皇の祖を祀ったとも言われています。
神功皇后三韓征伐の際に神助ありて凱旋後に奉幣使を立てたと言われています。
天平九年(737)の『但馬国正税帳』(正倉院文書)にも「朝来郡粟鹿神戸祖代六十六束二把」とある古社。
粟鹿の名は、昔、粟鹿山の洞穴に住む一頭の鹿が、粟三束をくわえ、村に現われ、人々に農耕を教えたという。
その鹿を祀ったのが、粟鹿神社であると言われています。
祭神は彦火々出見尊。
以前は上社、中社、下社とわかれていたらしく、上社に彦火々出見尊、中社に龗神、下社に玉依姫を祀ったとも言われています。
また、四道将軍の一人であり、日下部連の祖、
丹波道主の日子坐王(ひこいますのみこ)とする説もあり、本殿裏側のこんもりとした丘が、日子坐王の墳墓という伝承も伝えられていますが、さらに、粟鹿の社号から、伊和大神の妹・阿和加比売命を祀るという説もあります。
近年発見された『粟鹿大明神元記』和銅元年(708)八月に、大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとあります。
茗荷(みょうが)神社 ご祭神 草野姫命
粟鹿神社 のご神紋抱き茗荷は境内にこの末社祀るによる。
粟鹿神社の御神紋は、円囲(輪)の中に割菊(菊の半分)と茗荷(みょうが)の抱き合わせです。
菊は皇室の紋であり、茗荷は、末社である茗荷神社に祀られている磨羅(まだら)神です。
このことから、粟鹿神社は、大和の神と出雲の神の接点(大和文化と出雲文化の習合点)としても、重要な意味をもっていると言われています。
和の文化、和の歴史を紡いできたわが国らしさが現れています。
また茨城県の真壁町には「元治2年(1863年)に、粟鹿神社の人が、常陸国真壁郡南椎尾村に、7年分のお札を金2朱で配りに来られた」という記録が残っていると言われています。
神道にはキリスト教、イスラム教などのように教典や、教義、絶対神はありません。しかし、日本全国津々浦々に神社があり、異なる神を崇め、祀っています。他の地域の神を貶(けな)したり、除外することなく日本人は共存共栄をはかり「和」を尊んできました。
穢れを嫌い、寛大、正直、なこころは連綿と受け継がれてきたものです。
穢れなきこころ、清きこころ、明るいこころは、過去、現在、未来、清明心は継承されていきます。
私たちの住む、世界で一番長く続く国【日本】 世界の国のほとんどが200年から300年で滅びると言われています。 徹底的に合理的に行い、寿命を縮めた国と一歩一歩少しずつ歩んで今日に至る日本。
しかし、最近の日本人の多くは、経済活動にばかり意識を奪われ、人と争い競い合い、勝つ事を強いられ、さらに奪う事で勝利する人生、不遜な人生を戦後歩んできました。しかし、本当にそれでよいのでしょうか?
元来の日本人はそうではなかったはずです。
森羅万象すべてに感謝をし、それらと共存してきたのが日本人です。
筆者が参拝させていただいた5月23日、粟鹿神社の境内は氏子さんらが境内を
清掃奉仕されていました。
その光景は微笑ましい「和」のものでした。
今、日本人に求められるのは改革や、変革ではなく、日本人が大切にしてきたものを継承することです。何も足さず、何も変えず、ありのままを後世に伝えて行く、民族の魂を・・
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
社務所 |
|
人気ブログランキングに参加しています。
読み逃げされませんように、まずはここをポチッとお願い申し上げます。
--------------------------
「韓国史観」日本各所に
韓国が「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産への登録をめぐり抗議する中、すでに日本国内には韓国史観にたった看板や展示物が設置されている。
東北道若柳金成インターチェンジ(宮城県栗原市)の出入り口付近には「安重根記念碑(大林寺)」の矢印がある案内板が設置されている。日本語とともにハングルも併記されている。安重根は満州のハルピン駅で初代韓国統監伊藤博文を暗殺した。韓国では国民的英雄であり、ソウル市内には「安重根義士記念館」がある。 大林寺には獄中の安が看守だった千葉十七に贈った「為国献身軍人本分」(国のために身を献ゲルことは軍人の本分)の一文を刻んだ記念碑がある。
だが日本政府は安について「犯罪者」との見解を示している。「犯罪者」の記念碑を日本の公共機関が道案内にする必要があるだろうか。2月3日、参院予算委員会で次世代の党の和田政宗は案内板撤去を求めた。「日本にとって暗殺者であり、政府も犯罪者と認めている人物の記念碑の案内案を税金を使って設置しているのは問題ではないか」
国土交通相の太田昭宏は「設置主体の宮城県が判断すべきだ」とした。
案内板は平成12年に宮城県観光課によって設置された。県観光課によると、設置経緯は資料がなく正確にはわからないが「日韓共催サッカー・ワールドカップ大会の2年前なので、恐らく韓国からの観光客も呼び込もうとしたのではないか」という。
予算委員会で案内板の問題が取り上げられた直後、県観光課に派100件以上の抗議の電話やメールが寄せられた。それでも撤去の予定がないという。県観光課は「安重根を美化するとか称賛する意図はなく、あくまで道案内と考えている。設置されてから国会で取り上げられるまで15年間、特に問題になったことはなかった」。
来日した韓国人がよく訪れる場所がある。佐賀県唐津市にある県立名護屋城博物館だ。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に築かれた名護屋城の跡地に隣接する。
博物館は日韓の学術・文化の交流拠点となることを目的として平成5年に開館した。2階の展示室には「文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)により多くの朝鮮の人々や優れた文物が日本軍により略奪された」「朝鮮半島の人々は三一独立運動など大規模な独立運動を展開し、激しく抵抗した。日本はこれを徹底的に弾圧し、皇民化政策や強制連行を行った。36年に及ぶ日本の植民地支配は朝鮮半島の人々に深い傷跡を残した」。博物館の建設費23億円、入館料が無料のため年間運営費は6千万円に上る。
福岡県飯塚市にある市営飯塚霊園内にある「国際交流広場」と呼ばれる公共の場。ここに朝鮮人追悼施設が在日や自治労関係者でつくる「在日筑豊コリア強制連行犠牲者納骨式追悼碑建立実行委員会」が平成12年、市の設置許可を受けて追悼碑を建てた。
日本とハングルで「日本の植民地政策により、数多くの朝鮮人と外国人が日本各地に強制連行されました。ここ筑豊には15万にも上る朝鮮人が炭鉱で過酷な労働を強いられ多くの人々が犠牲になった」
朝鮮出身者が筑豊の炭鉱で働いていたのは事実だが、強制連行や人数はわかっていない。にもかかわらず「強制連行」「15万人」が歴史事実であるかのように記されている。(2015.5.26 産経新聞)
------------------------
これだけではありません。群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」にも朝鮮人追悼碑があり、広島にも「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」があり、今や日本の到るところに嘘だらけの韓国史観がまるで正しいように存在しています。
表現の自由と言いながら、何でも自由にさせると、こういう嘘の歴史もどんどん繰り広げられて、何も知らない日本人や子供達はこういう嘘を信じ込まされてしまうのです。
日本政府が明確に「犯罪者」と言っているテロリストの記念碑が日本にあること自体あり得ないことですが、それを道案内にハングル併用にしていることなどは全く考えられないことであり、国交大臣自体が「それは県が判断することだ」と逃げるのは、韓国の創価学会の学会員を減らさないことを国益より優先させる創価学会支持母体の人間を大臣にしているからであり、本来ならば国が強制撤去させるのが普通の国であり主権国家たる対応であります。
特に佐賀県の「県立名護屋城博物館」には「日韓交流支援」として「韓国語講座」や「韓国語スピーチコンテスト」、名護屋小学校と韓国の小学校との交流会、小学校での韓国文化の授業がされています。これこそ学習指導要領にもないことを強制的に行わせる「強制授業」であります。
日本と韓国の小学生の交流会
韓国文化授業
日本は韓国と関わったばかりに、また在日を他の外国人以上に受け入れて特別扱いしているにもかかわらず、日本を悪い国にされて、謝罪を強要し、日本人が学ぶべきものが何もない韓国の低レベル文化まで小学生に強要されているのです。
あの民族を受入れて、いつまでも関わっていると、こういうことがどんどんエスカレートして日本がどんどん蝕まれていきます。日本の朝鮮化です。早くこういう事実に気づいて日本人の朝鮮人化を食い止めなければいけません。
・・・・・・
人気ブログランキングに参加しています。
鬱陶しい韓国、と思った方はここをポチッとお願いします。
|

>
- Yahoo!サービス
>
- Yahoo!ブログ
>
- 練習用
全1ページ
[1]




