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天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログにご来訪くださり感謝申し上げます。
日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
わが国は春夏秋冬の眺めの”美しい国”です。
山や川や海のきれいな国です。このよい国に私たちは生まれました。
戦前まで我々の先人はわが国をこのように形容しました。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。 自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
筆者は冒頭の日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国の語句にはじまり、末尾の人々に崇(あが)められるようになったのですまでの語句を必ず記載するようにしています。
これらはまさにわが国を表し、我々の祖先の生き様を今日に伝えるものと筆者は確信しているからです。
筆者は一日一回の神社参拝を欠かさぬように心がけています。
どこの神社の境内であろうと、御神域は身のひきしまる思いで参拝させていただいております。
我々の祖先の「清明心」は神社に詣で、そのこころを子孫にもうしおくってきた精華といっても過言ではないでしょう。
今回ご紹介させていただく御形(みかた)神社は兵庫県宍粟市一宮町森添に鎮まります。
参道と鳥居 手水舎 神門
社務所 日本一の大絵馬
縦4.5㍍、幅7.2㍍。 拝殿
本殿
神輿 御本殿。
宍粟市内唯一の国指定重要文化財、三間社流造、檜皮葺、大永七(1527)年の建立で、昭和42年国指定重要文化財に指定され、昭和46、7年に解体復元工事が施工されて、室町時代後期の見事な彫刻や繊細な組物が甦りました。 佐閉神社
日吉神社
夜の間の杉。
御形神社は元々高峯山に祀られていましたが、奈良朝の宝亀3年(772)に当地に移されました。その遷座にまつわる伝説に、1夜にして3本の大杉が出現するという夢のお告げを里人達が見ました。
その杉を「夜の間の杉」と言い伝えています。他の二本は大正時代に台風のために倒れました。
樹齢は600年以上。周通り「580」センチあります。
この大杉は、御形神社の創始にまつわるご神木として、この地域のパワースポットとして知られており、ご神木の梺で参拝できるようになっています。 参道と鳥居
御祭神
中殿 葦原志許男神
左殿 高皇産靈神 素戔嗚神
右殿 月夜見神 天日槍神
末社 佐閉神社 日吉神社
この神様は、今の高峰山に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。
しかし、その途中に天日槍神が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛を三條づつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條は但馬の気多郡に、一條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。
やがて葦原志許男神は事を了へられてこの地を去られるに当り、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植えられ、行在の標とされました。以て、当社の社名「御形」は、形見代・御形代より起こりました。
その刺し植えられた所に社殿を建ててお祀り申しましたのが当社の創祀であります。やがて奈良朝の宝亀三年(七七二年)、里人数人が一夜の中に三本の大杉が、山神社の森に鼎立するという霊夢を見、これは山頂の大神の当地へのご遷座の所望であらうとの事で、早速ご社殿を造営し、お祀り申し上げたのが当地での起源であります。
御本殿は、三間社流造、檜皮葺、大永七(一五二七)年の建立で、昭和四十二年重要文化財に指定され、昭和四十六、七年に解体復元工事が施工されて、室町時代後期の見事な彫刻や繊細な組物が甦りました。 御形神社由緒より
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2015年06月11日
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君が代
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
謹んでお伝えいたします。 畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては10日、神奈川県横須賀市の観音崎公園で開かれた「第45回戦没・殉職船員追悼式」に行幸啓あそばされた。戦後70年の「慰霊の旅」の一環で、先の大戦で海上輸送中に米軍の爆撃で犠牲になるなどした民間の船員ら約6万3千人を祀る「戦没船員の碑」に供花あそばされた。 安倍首相らの追悼の辞が読み上げられた後、両陛下が碑文石の前に進まれ、献花台に白菊の花束を手向けて拝礼あそばされた。遺族らも続けて献花。
追悼式を主催した日本殉職船員顕彰会によると、国力を尽くした大東亜戦争で軍に徴用され、武器輸送や洋上監視などの任務中に被害を受けた商船や漁船などは2千隻超。約6万600人が犠牲になり、うち約3割が未成年でした。
戦没船員の碑には、戦後の海難事故などで死亡した船員約2900人もまつられている。大東亜戦争で戦った戦士、徴用に応じ御国に殉じた方々の多くは大正世代の方々が主力でした。
両陛下の慰霊によって、海で亡くなった御霊にとって無念は和らいだことと筆者は思います。
その遺骨は未だ祖国の土に還ることなく、戦地で、海の底で迎えを待ちわびておられることでしょう。一日千秋の思いで・・・・
筆者は思うのです、偉大なる大正世代の方々が、戦争に敗れた後もひたすら働き続け、20世紀の奇跡といわれる高度経済成長を成し遂げ大国となった。そして今、静かにその役目を終えられ、辞世されようとしている。彼らの生き様、こころを継承すれば、日本はいつでも復活できると信じています。
大正世代の方々がどんな思いで戦地に赴き戦ったか、彼らは何を後世に遺そうとしたのか。日本人は昔も今も、他人のために尽くすことを厭わない民族は何ら変わっていません。我々後世の「やまとなでしこ」は、世代を超えて語り継ぎ、顕彰せねばならない「歴史」があります。
大東亜戦争を生きた大正世代の矜持を継承せねばなりません。
人間だから忘れることもあります。忘れたものは思い出せばすみますが、捨ててしまったものは二度と取り戻せません。取り返しがつかなくなる前に、忘れかけているものをもう一度、引っ張り出してみることが必要ではないかと思います。陛下はそれを我々に示し、諭されておられます。
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