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富士学校の記念行事の続きです
最後は史料館です こちらには、明治天皇が実際にご着用になられた「大元帥の正装」です 明治天皇の付き人をされていた方が明治天皇から直接頂戴した品で、そのご家族のご好意により当校で借受をさせて頂いているお品です 明治神宮にも同様の被服が展示してありますが、あちらが予備服だと聞いております (一部抜粋) 被服だけの重量がおよそ3キロにもなるそうです 色々な方の写り込みが入ってしまいました(泣) 混雑していない時に訪れたいです 明治天皇の被服のお隣には、陸軍大将 乃木希典氏の展示物がありました こちらは、大山元帥の軍服 こちらは入館してすぐの所にある富士学校のシンボル像 「三人像」 モデルとなった、普通科、特科、機甲科の方々のお名前も書かれていました 富士学校は教育及び研究を行う総合学校です 教育の80%は幹部教育です 銅像の下には「進んで難局に当る」とか書かれています 山口立氏(第9代校長)が参謀本部から歩兵60中隊に補職された時に参謀総長、閑院宮載親王殿下から御下賜された銀杯 様々な展示物があります 史料館は時間をかけて見学したいですね 外は、いつになく穏やかでした 駐車場には(グラウンド) 富士学校後援曾初代會長 岡野豪夫先生像があります 運動場記念碑は木に隠れています(汗) アップし切れない位の展示物がありますが 今回で今年の富士学校記念行事の記事は終わりです 日頃は見る事が出来ない訓練の様子 そして、それが災害時にも大きく必要とされている部分も感じ取る事が出来ました 自然災害には一般は無力です また万が一の有事の際にも私は何も出来ないかも知れないです せめて、自衛隊の応援をして行きたいと思います 皆さんが思っている程に楽な職業ではありません 素晴らしい精神がないと出来ない仕事だと思いました いつもありがとうございます(=^_^=) 2015/07 富士学校*富士駐屯地開設61周年記念行事(史料館) |
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2015年07月12日
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【岐阜県郡上市】郡上おどり おどり発祥祭 2015年7月11日
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログにご来訪くださり感謝を申し上げます。 筆者が一度は訪れてみたい「おどり」に越中八尾(えっちゅうやつお)のおわら風の盆、阿波の阿波踊り、奥美濃の郡上(ぐじょう)おどりがあります。郡上(ぐじょう)おどりは秋田の「西馬音内の盆踊り」、徳島の阿波踊りと並び、わが国の「日本三大盆踊り」と称されています。
動画にもありますが、昨日7月11日のおどり発祥祭にはじまって9月5日のおどり納めまで32夜をおどりぬく日本一長丁場の盆踊りです。
400年余りの伝統を誇る国重要無形民俗文化財としても知られ、徹夜おどりは8月13〜16日の4夜行われます。
日本の「まつり」や「おどり」それは、日本古来の文化の伝承です。
祭りやイベントを運営する人、参加する人、そして見る人。 すべての人がひとつになって夢中になれる唯一の文化といえましょう。 いま日本に必要なのは、そんな底知れぬ生命力に満ちた祭りの力と、一体感、人と人の心の絆、祖先・先人を敬愛し、皇室を崇め、天津神(あまつかみ)( 伊勢の大神宮)、国津神(くにつかみ)(氏神)、森羅万象を司る八百万(やほろず)の神々に感謝をし、よりよい日本を後世に残し、日本のこころを後世に伝えることではないでしょうか? 四季折々の美しさを奏でる自然。この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢える誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたものに思いを馳せる時、先人が日本人として培った価値観、死生観、文化それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。
「日本人に生まれてよかった」と・・・・・
天皇彌榮(すめらぎいやさか) |
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天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログにご来訪くださり感謝を申し上げます。
祇園まつりもたけなわの京都。京都五花街の一つ、宮川町歌舞練場(京都市東山区)で11日、芸舞妓(まいこ)らが浴衣姿で舞いや演奏を披露する「ゆかた会」が行われ、若手の68人が日頃の稽古の成果を発表しました。
舞台慣れを目的に4年ほど前から行われている内輪の勉強会だそうですが、一日限りの行事として、芸事の師匠や招待客だけに公開され、京の夏の風物詩がまたひとつ増えた感があります。今年は「祇園小唄・京の四季」をはじめ、長唄や清元など多彩な8演目を上演され、舞妓の見習い「仕込」も16人が出演し、薄化粧と涼やかな装いで初々しく舞台を踏みました。
明治以降、日本らしさが消えていく中で京舞は伝統を護り伝えています。欧米かぶれした今日の日本人が多い中で芸舞妓らの、強い伝統への思いが京舞を支えています。近年は多方面への広報活動も行っており、少しづつですが、京舞に親しむ方々が増えているのではないでしょうか?
日本の歌舞伎の淵源、宮川町。
京都五花街の一つである宮川町は大和大路、五条、川端、四条の通に囲まれた町です。十六世紀後半、豊臣秀吉が方広寺・伏見城を築いた事により、大和大路はにわかに人の往来が増え、その街道沿いに町並みが出来ました。
現在の宮川町地区は、当時広大な鴨川の河原であったとみられ、町名の由来は「四条河原祇園杜の前にあるにより宮川という」とも「宮河というには、鴨川四条より南の別号なり」等と諸説が有る。四条通りの鴨川南は、ここで毎年、祇園杜のミコシ洗いが行われているので宮川と呼ばれ、この川筋に出来たのが宮川町である。
今日でも、「宮川筋○丁目」と呼ばれているのは、河原に発展した「筋・通路」であったためである。寛文六年に宮川町通り開通し、寛文十年に鴨川護岸の石積みが完成し急速に宮川町の町並みが整い、当時の歌舞伎の流行とあいまって、茶屋町として発展していった。宮川町に水茶屋が建ち、渡世を許されたのは寛延四年の事であった。当時、数多く立ち並んでいた芝居小屋が、度重なる火災により焼失したのが原因であったといわれる。 歌舞伎踊りは、天正三年に出雲の阿国が織田信長に許しを受け、北野の杜で演じたのが始まりと云われている。後の慶長八年頃、阿国の娘二代目阿国が宮川河原で、「ややこ踊り」と云われる歌舞伎を興業して人気を呼び、様々な見世物小屋が建ち始め評判を呼び一大歓楽場と成りました。その後、若衆歌舞伎が始まり、それに出演する若衆の宿が宮川町に軒を並べました。男だけの芝居であった為、当然女形を演じる若衆が必要で、当時の美少年が選ばれました。
船橋聖一 著「聖一風流抄」によれば「宮川町が歌舞伎の名優を数多くうみ育てた原点である」と記しており、現在の歌舞伎の淵源が宮川町と言っても過言ではないでしょう。現在の舞いは若柳流。これらの人々が舞台に精励する事と成り、現在の女形役者へと発展したのです。今日の歌舞伎役者に、それぞれ屋号が有りますが、それは当時若衆達が出入りをしていた、宮川町の宿の屋号であったと云われています。 欧米から入ってきた舞踊、ダンスがわが国を席捲していますが、わが国の伝統文化を先達より継承し、後世へと紡いでいる「やまとなでしこ」の存在も忘れてはならないでしょう。
彼女ら芸舞妓の存在、伝統をつむぐという矜持があってこそ伝統は護られているのです。
失ってしまったら二度と戻ってこない、それが伝統だと筆者は思うのです。 天皇彌榮(すめらぎいやさか)
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本日、「保守の会」で産経新聞編集委員の宮本雅史先生の講演会を行いました。その中で「今の日本人に足りないのは覚悟です」と言われました。しかし、覚悟するためには必要なものがあるはずです。・・・
大東亜戦争開戦2日目の12月10日、日本海軍によりイギリス東洋艦隊の旗艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが撃沈されました。
この衝撃はチャーチルはじめ全世界、特に白人に支配されていたアジアの国々には大きな衝撃となりました。
残ったイギリス駆逐艦3隻は死に物狂いで日本側に射撃を続けました。しかし日本軍は攻撃をやめて、3隻の駆逐艦を見逃し、溺れている英国兵士の救出に当たりました。これによりイギリス兵の7割を救助されました。
プリンス・オブ・ウェールズの副官だったグラム・アレンは戦後日本人記者にこう言いました。「日本軍は我が軍の救助活動を妨害することなく、シンガポールまで護衛してくれた。このことに大変感謝している」。そして「この時の二大戦艦の沈没は大英帝国の終焉の象徴であった」と述べました。
この海戦の翌日、日本軍の攻撃隊を指揮した壱岐春記大尉は海戦のあった上空を飛んで行き、空から紅色の花束を二つ海に投げました。 これは日本武士道の精神のあらわれです。
日本の伝統的な考え方は「日本精神」であり、その中心的なものに「武士道」があります。武士の職分は奉公であり、「侍奉公」と言いました。また武士に限らず徒弟や丁稚も「奉公」と言ってきました。
公に奉仕すること、社会や国に尽くすこと、みんなのために働いて責任を分担する。これは武士と同じ心構えのあらわれです。
武士は帯刀して武士の体面を保ちます。刀剣は武士の魂と言われます。刀がなければ戦えないからです。刀は武士のシンボルですが、それは人を斬るためのものではありません。人に刀を振り回させないためのものです。ですから剣は強い人ほど抜かないといいます。
心の修養で敵を威圧し、心服させる。それが真の勇者でした。やむを得ない時以外に人を斬っては「刀が汚れる」と言ってきました。
昔は刀を持たせてもらえるのは危険を知り、それに対処できると認められることを意味しました。刀を持てるのは一人前ということです。
戦前、中学では剣道・柔道・竹刀・長刀をやりました。小学生では騎馬戦や棒倒しをやり、木刀が持てるようになると撃剣を習えました。そのため生徒たちは勇み立ちましたが、まずやるのは板の間に正座をして聞く講義でした。
武士の心得、弱気を助け強きを挫く、武士の情け、不時の心得、そして偉人の話を聞かされるのです。そして木刀を持つ前に「刀を抜くな」と徹底して教えられました。
そして年長者を尊び、修身と道徳を熱心に学び、唱歌の時間にも修身を同時に学びました。
日本人は平素から貧窮に甘んじながらそれを恥とせず、不満を持たず、不自由を忍び、謙虚で素直で愚直なまでに従順でした。
そして日本人は天皇陛下を敬い、国を愛し、誇りと喜びに支えられて、情熱の意欲に満ちて国家に尽くしたのです。
世界の人々を驚かせた日清・日露の勝利も、驚異的な発展も、ひとえに修身や武士道に支えられた日本の若者達が、愛国心に勇み立って邁進したお陰です。
護国の英霊は潔く命を捧げました。残された者はしっかり国を護らねば、先に散った人達の死が無駄になります。
「靖国の英霊達よありがとう。お陰で我々は今、平和に過ごせています。しかし、一旦危難が迫れば我々も同じように断じて国を護ります。立派に奉公してみせますからご安心下さい」。
こういうことを言える日本人でありたい。
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