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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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最前列左より、若女将、大女将、客室係教育リーダー 、中女将、後列は昨年入社の皆さん。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。

石川県七尾湾に面して立つ加賀屋(石川県和倉温泉)は、旅行新聞新社の「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で35年連続1位を受賞してきた旅館です。東京オリンピック・パラリンピックの招致演説でフリーアナウンサー滝川クリステル氏が『おもてなし』という言葉を使われました。
東京五輪の開催が決まり、「おもてなし文化」すなわち日本文化が注目されています。

おもてなしとは『表に意を表さず』という意味。自分の意を表さず、先回りして相手の意を読み取り、お客さまの意を正確に満たす策を持つこと。最近では、お客さまの好みも多様化している。お客さまが何を求めてここに来たのかを読み取り、プラスアルファで自分に何ができるかを考える力を磨くことが大切だと思う。
と加賀屋大女将、小田真弓氏は説かれています。
加賀屋の創業は明治 39 年に小田與吉郎が 12 室 30 名収容の施設で旅館業を始めたことによります。和倉の地で創業しながらも、與吉郎が加賀国津幡出身であったことから加賀屋という名がつけられました。その後、小田家が代々経営にあたり、與吉郎の長男で、先代女将の夫である與之正が二代目、その長男で禎彦が三代目、次男である孝信が四代目として社長に就いた。 加賀屋は與之正と孝の夫妻が礎を作り、禎彦と真弓の夫妻が事業を発展させた。特に、先代女将である孝は、当時の加賀屋が設備面では他の旅館に劣ることを痛感し、代わりにサービスの質を上げることに取り組み、現在まで引き継がれる加賀屋の「おもてなし」の原点を作り上げた。和風旅館では一般的に見られる、女将による客室への挨拶回りを最初に始めたのも孝さんでした。


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出迎え




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大女将、若女将、見送り



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若女将、見送り


加賀屋の伝統は何といっても「おもてなし」です。
お出迎えから始まり、お見送りまで、一つ一つどれを取っても、至る所におもてなしの心が息づいています。
大女将はお見送りとお出迎えを合わせると 1 日 5 時間以上玄関に立っている時があるそうです。
筆者は二十数年前に宿泊させていただきましたが、その当時と接客の所作は変わっていません。
加賀屋先代の女将、小田孝はの言葉は現在でも加賀屋に語り継がれています。お客様に「できません」の言葉は言わないようにして、一人一人真剣に向き合う!これが加賀屋の基本理念として語り継がれています。
加賀屋のおもてなしを語るときによく引き合いに出されるエピソードがあります。
ある女性宿泊者が「亡くなった夫と来たかった」という話をしたと聞いた
担当の客室係は、すぐさま調理場に頼み、夕食時にそっと陰膳を用意した。
マニュアル通りではないおもてなしがここではあります。
客室係の一人一人が女将の感覚を身につけ、笑顔で気働きをしている。また働いている客室係の負荷を軽減するため、ふとん敷きなどは外注に、4億円以上の費用をかけ、20年前に配膳・下膳の自動搬送システムを導入。また、最近では早い時間にチェックインをする宿泊客へ接する「もてなし番」を新設。いずれも客室係が宿泊客への対応に集中できるようにするためです。
 さらにその価値観を端的に示すのが、「カンガルーハウス保育園」という保育所・学童保育所の存在だろう。母子家庭の従業員などが安心して働ける環境づくりとして、1歳児から小学六年生までを専属のスタッフが預かる。前身の「白鳥の家」は77年に設立され、今では加賀屋の客室係となった学童保育の出身者もおり、このような施設の存在は、従業員の一体感や安心感へとゆるやかに繋がっていくもので、ブラックと言われる企業にも是非見習ってほしいものです。
「社員は家族」と断言する大女将は薄れつつあるかって日本の企業がもっていた素晴らしい特性を再確認させてくれます。
大女将のお話は11:40秒ぐらいから。

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先帝陛下、香淳皇后陛下、加賀屋へ

加賀屋は皇室御用達の宿でもあります。先代女将が自伝を書かれています。先帝、昭和天皇陛下とのエピソード一部を引用させていただきます。

まえがき
昭和五十八年五月、天皇陛下の二度目のお宿を賜りました。その折、格別のおはからいでご面談を許され、御前に参りますと、ごあいさつもそこそこに、「元気でやってるかい」とのおやさしい御言葉をいただきました。
この御言葉を、今も想い出しては嬉し涙しています。
加賀屋の八十年を刻んだ本誌にこの御言葉を表題として使わせていただくことは、私の心からの願いでもあります。

(故)小田 孝

どうやら一流といわれる
旅館への仲間入り

無我夢中で働きつめた戦後の十年間のおかげで、加賀屋は、和倉温泉の一流といわれる旅館の中に入ることができました。
そんなところへ、天皇、皇后両陛下が十月二十二、二十三日の二泊でお泊りになるという内意が伝えられました。昭和三十三年の梅雨どきだったと、はっきり記憶しています。古い人間と思われるかもしれませんが、ただただ感激して、身ぶるいしたのを覚えています。 

それまでの普通の考えからすれば、新しいものを建ててお迎えすべきでしょうが、前年の暮れに竜宮閣が完成したばかりでしたので、そこを使うことにしたのですが、お部屋の装飾、ご接待はどうしようか、どのようにしたらご満足いただけるだろうというようなことを考え続け、自分自身さえも忘れてしまいそうな日々であったのが、この時の偽らざる心境でした。 

海苔はいづこ…

それはもう大変な歓迎ぶりで、沿道に沢山の人が並びました。船では、『いで湯太鼓』を打ちならし、陸では、『七尾まだら』や『石崎の奉灯』が舞うなど、とても賑やかでした。   

両陛下はベランダにお出ましになられ、天皇陛下は白、皇后様は赤の提灯を高く挙げられ、歓迎に応えられました。たいへん寒い日でして、長時間ベランダにお出ましだったので、両陛下のお身体にさわりはしまいかと思いましたが、その真摯なお姿には、心打たれました。 

「お料理は、あまり手を加えないようなものがお気に召される」と、事前に聞いていましたので、そのように心がけ、当時の料理長であった竹田さん(故人)と、十数回試作をこころみたりしました。 

お膳やお椀などは輪島漆器の人間国宝、前大峰さん(故人)や、ほかの方々に特別お心を配っていただきました。また、漆かぶれのようなことがあってはたいへんと、米糖で何回もふきました。九谷焼は浅蔵五十吉さん(芸術院会員)にお願いしました。その鉢、皿類が実に鮮やかなのが、両陛下のお目にとまり「美しい」とお喜びいただいたということを、おつきの方から聞かされました。 

私どもでは、御膳を差しあげる前に御献立を―。たとえば刺身ならワサビ、ノリといったものまで記して差しあげていました。両陛下はその献立表とあわせてお召しあがりになられたようです。 

ところが、ケンのために浅草ノリを水に浸したものをおつけする筈でしたが、板場さんが緊張のあまりつけ忘れたものですから、陛下は、「ノリというのはどれですか」と、ご質問になられました。ノリをつけ忘れただけのことでしたので、すぐお持ちしてことなきを得ましたが、「つけ忘れました」ともいえずに、冷汗ものでした。

夫は“モーニングを着た三助”
掃除まで一切やりました

二十三日は奥能登に向かわれ、穴水から三井のアテの林をご覧になられ、輪島を経て和倉にお帰りになり、もう一泊なされました。 

夫は万が一のことがあっては取り返しがつかないことになると思い、モーニングを着たまま、お湯かげんはもちろん、掃除まで一切やりました。浴室の横にわざわざ不寝番をする部屋をつくりお世話を致しました。“モーニングを着た三助”は、後年、杉森久英先生の『天皇の料理番』にも取り上げられるほどで、まあ、珍風景だったんでしょうね。 

二十四日の朝、両陛下がお発ちになられる時、従業員、家族一同のものが玄関に並んでお見送りを申しあげたのですが、陛下が私の前に、皇后様が、夫の前にお立ちになり、やさしいねぎらいのおことばをいただきました。私ごときにもったいないと思った途端、自分を押さえることができず、思わず大きな声で泣いてしまいました。それにつられたのか、みんな一斉に声をあげての嗚咽となり、何をおっしゃられたのかよくわからず、翌日の新聞を見て、わかったような次第でした。 

嫁いで三十年目だったと思いますが、ただ何ともいえないありがたい気持ちでいっぱいだったのです。

引用終わり。
常に国民と共にあられた昭和天皇陛下の神々しさにふれられた先代女将の一生の宝だったのではと筆者は推察いたします。かっての日本とは違い殺伐とした風潮の今日、癒やしと「おもてなし」を欲しているのは日本人だけではないと思います。来年五月に家内と再び訪れる予定です。
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加賀屋玄関、宿泊されるお客さま国旗が掲げられています。目立たないこころ配りがされています。


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次世代の党首である中山恭子さんが、ウズベキスタン大使をされていた200010月、宮崎県からウズベキスタン親善訪問団の方々が来られて、抑留された日本人達が建てたナヴォイ劇場の前で「日本の祭り」が行われ、大勢の人が集まり、和太鼓「富岳太鼓」、宮崎の「木剣踊り」、ウズベキスタンの伝統音楽などで賑やかに盛り上がっていました。その時、中山恭子さんのところに親善訪問団の元シベリア抑留者の方が話があると言われました。
 
池田明義さんは「自分はベカバードというところで働いていたが、そこには一緒に働いていた仲間のお墓があるから、ぜひ見に行きたい」と言い、鳥原八八(やはち)さん(2001107日没)は「自分はアングレンという町の炭鉱で石炭を掘っていた。そこにもお墓があるはずだから、アングレンに行きたい」と言いました。
 
翌々日には日本に戻ることになっていたので行くとしたら翌日しかありません。早速、タクシーと通訳を手配した。
 
翌日の夕方、二人は無事戻って来ました。鳥島さんは「かつて働いていた炭鉱はもう閉鎖されていたが、山そのものは昔のままで懐かしかった。お墓もまあまあ整備されてお参りも出来た。ほっとした」と大変喜んでいました。
 
しかし、ベカバードに行った池田さんは「自分達がつくった水力発電素は今も立派に動いている。でも、お墓に行ったらとても悲しかった。ベカバードの日本人墓地は荒れ果てたままになっている」と唇を噛み締めていました。そして「何とか日本人のお墓を整備してもらえないか」と言い残して日本に帰国されました。
 
中山恭子さんはすぐにベカバード市長を訪ね、まず水力発電所に案内してもらいました。天山山脈からアラル海に注ぐ川から水を引いて大きな貯水湖を造り、そこから67本の太いパイプで水を落として発電する巨大なこの発電所は日本人が中心になって造ったものです。
 
市長は「ベカバードはこの発電所が建てられた当時は砂漠でしたが、この発電所や運河のお蔭で、今は緑豊かな大勢の人が住む町になりました。ここで風速50メートルの突風が吹いた時、周囲の建物は全て壊れましたが、この水力発電所はびくともせず動いていました。55年間、毎日、1日も休まずにウズベキスタンに電力を供給してくれています」と日本人に心から感謝していました。
 
そしてベカバード市の日本人墓地に行くと、ウズベク人の墓地、トルコ人の墓地、ロシア人の墓地などが、どれもきれいに整備され、石塔が立てられ、木々が墓地を取り囲んでいました。

そして、案内してくれた人が言いました。「ここが日本人のお墓です」。見ると何もありません。空間が広がっているだけです。

ふと足元を見ると盛土がいくつも並んでいました。日本人の遺体に土をかぶせた「土饅頭」には墓標もなく、小さな鉄板に記号と6ケタの数字が彫って刺してありました。中山恭子さんは、しばらくの間、その場に立ち尽くしたといいます。

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日本人墓地はウズベキスタンがソ連だった頃、2か所と決められて、それ以外の日本人墓地は潰して更地にするようにモスクワから指令を出されていました。そのためウズベキスタンはコカンドとカガンの2か所の日本人墓地が整備されて、墓守を置いて大事に守ってくれていました。
 
しかし、ウズベキスタンの人達はソ連時代の指令を無視して、日本人墓地を潰さずに守ってくれていました。整備こそ出来なかったが「ここには日本人が眠っているのだから」と草が茂れば草刈りをしてくれていました。
 
タシケントの日本人墓地では、墓守りのフォジルオタさんが毎朝8時に、ほうきでお墓の周りを丁寧に掃き清めて、墓地にはいつも綺麗なほうき目が立っていました。その仕事は彼の父親から引き継いだもので、50年以上も前から日本人のお墓を守り続けています。
 
当時、日本人達は墓地の裏手を走っている鉄道を造っていましたが、過酷な労働で亡くなった日本人達を敬虔なイスラム教徒だった彼の父が埋葬し、それ以来お墓を管理するようになりました。そして父親は彼にこう教えたと言います。
 
「民族が違っても、人はいつも仲良くしなければならない。遠く離れたこの土地に連れて来られ、強制労働をしなければならなかった日本の人々には何の罪もない。だから、ここで亡くなり故郷に帰れなかった日本人の世話は、ここに住んでいる自分達がやらねばならないのだ」
 
1991年、ウズベキスタンがソ連から独立して、タシケントの墓地も整備され、彼には月15千スム(約1500円)の手当が支給されるようになりましたが、それまでは無償でやっていたのです。彼は「自分は父のようになりたいと思っているし、私の息子も日本人のお墓の管理を手伝ってくれている」と言いました。

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その後、市長が日本人のことをよく知っているという90歳になる老人のお宅に中山恭子さんを連れて行きました。そこにはそのおじいさんを囲んで、子供達、孫達、ひ孫達がいて和やかな雰囲気の一家でした。
 
おじいさんは開口一番、中山恭子さんに「お墓にお参りしてくれたのか」と聞きました。
 
「今、行ってきました」と答えると、「あそこに眠っているのは自分の大切な友達なんだ。どうも有難う。お参りしてくれて有難う」と言いました。
 
中山恭子さんが「日本人のことを覚えていらっしゃいますか?」と聞くと、
 
「それはもう、よく覚えている。自分は若い頃タシケントに住んでいたが、ベカバードに水力発電所を造ることになり、ここで働くように言われてやって来た。それで日本人が来るのを待っていたんだ。最初300人ほどが到着した。するとびっくりしたことにすぐに仕事を始めたんだよ。その後、どんどん増えて3000人ほどになった。
 
日本人っていうのはとってもいい人達だった。几帳面で、自分の仕事をとても大切にするんだ。時間が来ても仕事が終わらなければまだ続けている。うまくいかない時にもいろいろ工夫してやり遂げる。また誰かが病気になるとみんなで助け合っていた。日本人がつくるものは全ていいものだった。本当にすごい人達だった。日本人はとても大切な友達だったんだ」。
 
おじいさんからいつも日本人の話を聞かされて、その家族も町の人々も、皆、日本人のお墓は大切にしなければいけないと思ってきたそうです。


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                       参照:中山恭子著『ウズベキスタンの桜』

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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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