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但馬観光プロモーション空中散歩〜但馬空ノ道〜
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログへご来訪くださり感謝を申しあげます。
筆者は若い頃、温泉町、村岡町など、但馬の地に下水道普及工事で三年間単身赴任しておりました。
但馬は日本の四季を詰め込んだようなところです。
四季折々の美しい表情を織りなし、人は優しく、穏やかでかっての日本人が垣間見れ、時の流れがゆっくりしています。
五月に亡くなった俳優、今井雅之氏が死して故郷の但馬に帰りたかった理由が少しだけわかるような気がします。
ぜひ、兵庫,京都北部へお立寄りの節は但馬へ足を伸ばしていただきたい、そう願ってやまないのです。
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
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2015年07月29日
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飯笹実さん
現代を生きる日本人の武士道として櫻井よし子さんが感動的なお話を書かれています。その会社の敷地内には慰霊碑を建て、会社にとっての「英霊」を祀っているそうです・・・。
大正15年、飯笹さんは佐賀県の山間の温泉地に生まれ、家計の事情から大学進学をあきらめ、地元佐賀県の工業高校に入学し、卒業後は日本タイヤ(現ブリジストン)に就職しました。昭和24年に上司の紹介でお見合いをし、藤子さんと結ばれました。
仕事も順調で幸せな結婚生活が始まるはずでしたが、結婚から3カ月、藤子さんに異変が起きました。最初は微熱と嘔吐で、つわりとよく似た症状でした。周囲が「おめでたですね」と祝福する中、どうも様子がおかしい。
久留米大学付属病院で検査を受けると、医師に「余命1カ月。もう手の施しようがない。自宅に連れて帰って畳の上で死なせてあげなさい」と宣告されました。
「結核性骨髄炎」、結核菌が骨髄に入って起こる病気でした。当時、有効な治療法はなく、現在でも診断や治療が遅れれば50%は後遺症を残す難病です。
飯笹さんは奥様の命を救うために全力で看病しました。アメリカでストレプトマイシンという結核の特効薬が開発されたと聞くと、その入手に奔走しました。上司に懇願してアメリカに出張するブリジストンの幹部達に持ち帰ってもらいました。
こうして藤子さんは一命を取り留めましたが完治したわけではありません。結核菌が脊髄の中で周期的に増殖して脳を圧迫するため錯乱状態に陥ります。
定期的に病院で結核菌を抜いてもらわねばなりませんが、背中から脊髄に箸のような太い針を刺すのですから、ものすごい痛みです。うめきながら痛みに耐えるその姿に、飯笹さんは幾度も涙を流したそうです。
さらに飯笹さんを追い詰めたのは経済的問題でした。医療費は飯笹さんの月給の8倍。生家が保有していた山や田畑をすべて売り払い、藤子さんの実家の財産も使い果たし、借金を重ね、今でいうサラ金地獄のような生活だったそうです。
「もう死ぬしかない」
昭和28年6月、飯笹さんは藤子さんを病院から連れ出し、気が付くと筑後川のほとりに立っていました。連日の豪雨で川が増水していて「妻を抱いて飛び込めば、確実に死ねる」と思ったそうです。
ところが、濁流に向かって足を踏み出そうとした時、意識がもうろうとしていた藤子さんが「帰りたい」と言ったのです。
「藤子、お前、どこに帰りたいとや」
「家に。家に帰りたい」
飯笹さんは激しい雨に打たれながら、藤子さんと一緒にその場に座り込んで泣きました。
「泣いたと言ってもですね、こぼれてくる涙は雨と一緒になって、もう雨か涙かわからんのです。生きる決心をして戻ったのですが、その後に、驚くようなことを知らされました」と飯笹さんは穏やかな微笑みを浮かべて振り返ります。
その翌日、筑後川が決壊したのです。後に「久留米大水害」と呼ばれる大災害が発生し、藤子さんが入院していた病院も濁流に襲われて患者の多くが被害に遭い、犠牲者も出ました。あの日、もし飯笹さんが自殺しようと藤子さんを連れ出していなかったら、どうなっていたかと考えざるを得ません。
こうして「生きる運命」を確信した飯笹さんは、治療費を捻出するために独立を決意し、栄電社という生産設備会社を立ち上げました。昭和31年のことです。
会社を立ち上げて50年を迎えた時、記念パーティの代わりに、栄電社で共に働き会社を支えてくれた内外の人々で、故人となっていた25人の霊を慰めるために慰霊祭を行いました。お坊さんにお経をあげてもらい、社員全員が手を合わせて感謝を捧げました。
今も日本の上空のどこかから見守って下さっている人々の魂に感謝の気持ちを捧げる。本当に日本人らしい50周辺のお祝いでした。
「自分がこの会社を創って以来の戦友たちをいつまでも供養出来る場所と
碑を建立するのが夢でありました」(飯笹実)
たとえば研究や開発にのめり込み過ぎて運転資金が底をついた時、「銀行としては融資できないから」と、黙って個人の預金通帳を郵便受けに入れてくれた銀行員がいました。また会社の危機的状況を乗り越えるために社員達が進んで徹夜仕事に打ち込んでくれました。
こうした日本人の誠実さと責任感が飯笹さんの周りでよい形をつくり、その輪の中でみんなが自ずと助け合う社風が生まれています。
藤子さんが倒れて60年、飯笹さんは妻を愛おしみ、大事にして生きてきました。最近、藤子さんに軽い認知症の症状も出ているそうですが、飯笹さんは「それもかわいいもんです」と笑います。
妻を娶り、その妻とともに人生の終わりまで歩み続ける。死を願ったつらい日々も乗り越えて、いま飯笹さんは、自分以外の人々のためによいことをしたいとの思いで、無欲に生きています。私はその姿に、現代を生きる武士の姿を見ます。
参照:櫻井よし子著『日本人に生まれてよかった』
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