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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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祇園祭 夏の京都の祭り

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祇園まつり




天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログにご来訪くださり感謝を申し上げます。

日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
わが国は春夏秋冬の眺めの”美しい国”です。
山や川や海のきれいな国です。このよい国に私たちは生まれました。
戦前まで我々の先人はわが国をこのように形容しました。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。

筆者は冒頭の日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国の語句にはじまり、末尾の人々に崇(あが)められるようになったのですまでの語句を必ず記載するようにしています。
これらはまさにわが国を表し、我々の祖先の生き様を今日に伝えるものと筆者は確信しているからです。
我々の祖先の「清明心」は神社に詣で、そのこころを子孫にもうしおくってきた精華といっても過言ではないでしょう。

日本のまつり、それは、日本古来の文化の伝承です。
祭りを運営する人、参加する人、そして見る人。
すべての人がひとつになって夢中になれる唯一の文化といえましょう。
いま日本に必要なのは、そんな底知れぬ生命力に満ちた祭りの力と、一体感、人と人の心の絆、祖先・先人を敬愛し、皇室を崇め、天津神(あまつかみ)( 伊勢の大神宮)、国津神(くにつかみ)(氏神)、森羅万象を司る八百万(やほろず)の神々に感謝をし、よりよい日本を後世に残し、日本のこころを後世に伝えることではないでしょうか?
 
園祭(ぎおんまつり)は、八坂神社(園社)の祭礼で、明治までは「園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続いています。
一ヶ月にわたる長丁場のおまつりですが、今年の宵山は台風接近による雨でも行われました。
京都にいた頃はこのまつりが楽しみでした。
祇園祭の最高潮といえばやはり山鉾巡行です。しかし、巡幸して街を清め、厄を集めると災厄を溜めないようにと鉾は解体されます、山や鉾は釘を1本も使わず、麦縄だけで組み立てられています。解体は「もののあわれ」や、幽玄、そして刹那が感じられると言われています。

美しい神国日本。
世界の先進国でありながら古きを護る国。
美し国。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)
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事件当時の葛根廟



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第二次大戦当時のソ連軍中型戦車(増加装甲付きのT-34-76(1941年戦時簡易型)



拙ブログにご来訪くださり感謝もうしあげます。

今日、八月九日は長崎に原子爆弾が投下された日でもあり、ロシア(ソ連)が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告し、さらに8月9日未明に満洲国、朝鮮半島、樺太などわが国の領土に向けて侵略を開始した日でもあります。
最近の若者の多くは、わが国が大東亜戦争で自存自衛、極東アジアの植民地の解放の大義を掲げ戦ったことを知らない人が増えています。
それなのにわが国は朝鮮を侵略したなどとマスコミの影響をうけた情報弱者が目につきます。
マスコミや識者と言われる輩は日露友好などと嘯いていますが、筆者はわが国を取りまく隣国は信用できません。
その国の民族の気質、お国柄は一朝一夕に変わるものではないからです。
七十年たった今も・・・

無敵を誇った関東軍もその主力を太平洋戦線に転出し、櫛の歯が抜けたような状態でした。
昭和20年8月9日、ソ連は一方的に日ソ不可侵条約を破棄し、もはや死に体となっていた大日本帝国に宣戦布告、満州・樺太・朝鮮半島へ怒涛のように侵攻を開始しました、8月10日と11日の両日興安がが爆撃を受け、興安の都市機能はほぼ破壊。11日午後4時、興安街在住の日本人約千数百人が近郊のウラハタに集結、興安総省浅野参事官の指揮の下、関東軍と合流すべく歩いて移動を開始しました。ほとんどが非武装の女性と子供の避難民の隊列でした。8月14日午前11時40分頃、行動隊が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇。浅野参事官は即座に白旗を掲げましたが、それも無視し浅野参事官は射殺されました。ソ連軍は避難民に対し攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺し、戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞った。
ソ連軍戦車は非武装の、避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺した。
2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1000人以上が殺害され、生存者は百数十名だった。
殺害を免れたものも戦車に轢かれたり、被弾して負傷したものや、家族が殺害されたものがほとんどであり、大勢が自決した。
その後も、生存者は現地のこころない暴徒に身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどし蹂躪された。
この事件で行き先を失った子供たちが中国残留孤児となり、助かった女性のなかには、中国人の妻となることを余議なくされた。
 
記事を書きながら、非武装の女性子供への執拗な殺戮行為を繰り返したソ連(ロシア)軍に怒りがこみあげるとともに母国日本を目指し、故郷の大地に帰る思いで必死だったろう避難隊の皆さん。親子での避難もあったでしょう、こどもを守るために身をもってかばい絶命した母の無念の心を思うと胸が熱くなりました。
 
関東軍というのは、日本の関東地方とはなんの関係もない名称で、日本が支那から租借した遼東半島のあたりが昔、支那で関東州と呼ばれていたことから、この地方の守備隊として関東軍の名前がついたのです。

牡丹江省にあった関東軍石頭予備士官学校は、生徒数3600名、教官は半数が尉官か見習い士官という陸軍の予備士官学校でした。

以下の動画は、熊本出身で、ソ連と満州との国境近くにあった「関東軍石頭予備士官学校」の士官候補生だった荒木さんは、終戦時21歳。大東亜戦争後、シベリアで強制的に抑留された旧日本軍将兵、大阪府河内長野市の荒木正則さん。
強制収容所に送られ、時に氷点下60度以下という酷寒のなか、第二シベリア鉄道の工事に強制的に従事させられた。

「民族の悲劇といえる抑留の史実さえ、忘れ去られようとしている現状を憂い、多くの若い世代にぜひ真実を伝えたい」と作られたものです。関東軍石頭予備士官学校生徒3600名が如何に戦い、武装解除した我々の先人に対し、ソ連が非道な行いをしたかお解りいただけると思います。




12月11日 シベリア強制抑留・日本民族奴隷の悲劇 


3600名の生徒は2組に分けられ、歩兵砲、機関銃隊1600名は、荒木連隊長の指揮下に、残り1600名は学校長小松大佐のもとに、東京(とんきん)城に布陣しました。

対する敵のソ連軍は、投下兵力158万人の大部隊でした。兵力は2つに分けられ、第一極東戦線は、メレンコフ元帥が直接率いました。
第一極東戦線だけで、歩兵4師団、十二個狙撃師団、戦車二個師団、十五個国境守備隊、大隊砲3500門、ロケット砲430門、戦車約1000両、他に空挺部隊などを持つ、ソ連最強軍団でした。対する当時の関東軍は、必要な武器弾薬兵器を南方戦線、本土決戦にことごとく送っていて、極めて悪い状態でした。
互角の装備では、日露戦争や、それ以降の国境付近の衝突事件等では、ソ連は日本に敗れています。だから日本軍が怖かった。状況をはっきりと掴んだ上で、ソ連軍は158万の大兵力、新鋭武器を投下してきています。
当時の満洲に残った関東軍に残されていたのは、不十分な武器、弾薬以外にインフラ整備に使うダイナマイトくらいしかなかったのです。
東京(とんきん)城方面に向けられたソ連軍は、航空部隊や戦車部隊を含めて約50万の大軍。歩兵銃の弾もろくにない、重機関銃の弾薬さえも欠乏している石頭予備士官学校の生徒たち3600名が迎え撃ったのです。
このときの戦闘の模様が、当時まさにその石頭予備士官学校の生徒であった高崎弥生氏の「実録 遥かなる回想」に記載されています。

以下、引用します。

支給された爆薬は、ランドセルくらいの大きさで、中にはダイナマイトがびっしり詰まり、30cmくらいの導火線がついていた。
いわゆる「急造爆雷」である。

その先にマッチ棒を3本、木綿糸でしっかりとくくりつけた。

敵戦車が接近したら、マッチ棒をすって点火させてから、爆薬を抱えたまま全力疾走で突っ込む作戦である。

点火後、3〜4秒で爆発する。

これを「対戦車肉迫攻撃」といい、略して「肉攻」と呼んだ。

敵は明朝になれば必ず攻めてくる。

来ればどうなるかは、もう誰もがわかっていることだ。
あと数十時間の生命である。

蛸壺のなかに寝転んで暮れゆく空を見上げていると、なぜか故郷のこと、母のこと、兄弟のこと、幼いころのこと等が次々思い出されてくる。


8月13日、代馬溝陣地を突破したソ連重戦車が、ついに磨刀石にその姿を現した。

地面を揺るがせながら、道路を一列になってゆっくりと我が陣地内に侵入してきた。

この道路の両側には、草や小枝で擬装した蛸壺の中に「急造爆雷」を抱いた候補生が潜んでいた。


戦車が近づくと、次々と「先にゆくぞ」と叫んで、敵戦車に突入して行った。


戦車には自動小銃を構えた歩兵が随伴していて、蛸壺を見つけたら、中に潜む肉攻手を狙い撃ちするので、飛び込むまでにやられる者もあれば、同時に爆薬が炸裂し、敵もろとも吹き飛ぶ壮絶凄惨な戦闘が始まった。


味方の重機関銃も猛然と射撃を開始し、小型迫撃砲も一斉に発射された。


この重機関銃陣地をつぶそうと、敵の戦車砲、機関銃が集中砲火を浴びせてくる。

後方の高台に布陣をしている友軍砲兵が援護射撃を開始し、榴散弾(りゅうさんだん、弾の中に多数の散弾がつめてあり、炸裂して人馬を殺傷する)を浴びせかける。

敵は炎上する戦車を道路下に突き落として、次々と進撃してくる。


蛸壺の中では、爆薬を抱えた数百名の候補生が息を殺して潜んでいる。


やがて、肉攻壕の土が、ボコボコと戦車の地響きで崩れ始める。

耳を聾するキャタピラの音、重油の焼け焦げる匂いが胸をつく。

敵の随伴歩兵がトラックから降りて、自動小銃を構えて、戦車の周りに見え隠れして続々と向かってくる。

ソ連兵の自動小銃が肉攻壕を狙えば、肉攻手は、即座に自爆だ。

重機関銃隊が、銃の偽装の小枝をそっと払った。

たちまり味方の重機関銃がうなった。榴弾筒部隊も発射した。
二十数名のソ連兵がぶっ倒れた。

ひるんだ敵の歩兵が戦車から退いて行った。

肉攻手が爆弾を抱えて踊り出た。

ひとりの肉攻候補生が、蛸壺を飛び出すと、爆雷を道路に置いて伏せた。

ソ連戦車は急ブレーキをかけて爆雷の3M手前で停まった。
候補生は、ほふく前進して爆雷を戦車の下に押し入れようとした。

戦車の直前で、爆雷は轟音を発し、半身は高さ20Mまでも白煙とともに砕きあがり、鮮血を撒き散らしながらぐるぐると回転して、またもとの位置に落下した。


東満洲の軍都、牡丹江の防衛最前線として磨刀石に布陣した石頭予備士官学校候補生の、ソ連戦車体当たり戦法は、こうして開始された。



またひとり、小さな体で四角い爆薬の包みをかかえて飛び出していく。

一瞬、ものすごい閃光がひらめき、白焔が戦車をつつむ。
そして、またひとり・・・

突然、戦車の砲頭の下から吐き出す紅蓮の火炎に巻き込まれ、すさまじい轟音とともに自爆した。


肉攻陣地があることを察知したのか、敵戦車はしばらく全身を躊躇(ちゅうちょ)したが、こんどは火炎放射機で周囲の肉攻壕を焼き払いながら、その上に乗っかってグルグルと回転しはじめ、敵の歩兵も散開して肉攻壕に、自動小銃をを撃ち込んで進んでくる。


味方の重機関銃が銃身も裂けんばかりに撃った。

的戦車の砲身や機銃が、一斉に味方の重機関銃小隊に集中した。
第一分隊の銃手、即死。

重戦車の巨砲が向きを変え、味方の陣地に向かって水平射撃の位置に砲身を構えた。


五体を揺るがすような炸裂が山野をゆるがした。

体は壕に叩きつけられ、舞い上がった土砂で半分ほど埋まった。

陣地における指揮連絡はまったく寸断され、日が暮れて、生き残った者同士が、負傷者をかばいながら引き揚げてくるが、集合場所さえ定まらない乱戦となった。


川上哲次候補生は、手記にてこのように報告している。


「道路上に、3〜40両の敵戦車が轟音をあげてあらわれた。まるで動く岩のようであった。またひとりの肉攻手が、爆薬をかかえておどりでた。戦車はとまらない。


肉攻手の姿が一瞬見えなくなった。

次の瞬間、肉攻手は、戦車のキャタピラに腕を挟まれ、逆さ宙づりになった。

おもわず息をのむ。


そのとき爆薬が炸裂した。

ピカッ、グワーン!

閃光が走り、ものすごい煙に包まれ、敵戦車は立ち往生した。

恐ろしくなったのであろう。ソ連兵は戦車から飛び出し、逃げ出した。

勇敢な肉攻手が2〜3名、壕から飛び出し、敵の戦車に躍りあがり、掩蓋(えんがい)から中にはいる。


戦車の砲塔が、ぐるりと後ろを向いた。


ズドーン!


すぐそばまできていた後続の戦車めがけて、ぶっ放したのである。


「やった!」と壕の中では歓声があがった。


続いて戦車めがけて一発! そしてまた一発!

分捕り戦車は猛然と火を吐いた。

痛快極まるとはこのことか。

たちまち5〜6両の敵戦車を粉砕してしまったのである。

後続の敵戦車群は大混乱となり、後退した。


そのときの勇士は、鈴木秀美候補生、一之瀬候補生、和泉伍長の3名である。

鈴木候補生は、敵戦車の構造をよく知らず発砲の折、砲座で顔面を強打し、大腿部も負傷していた。
彼は、戦車から外に出て、中隊長や戦友に向かい、
「自分は負傷してこれ以上戦えない。速射砲の分隊長として、砲と運命を共にする責任がありながら、砲は射撃不能となった。自分はここで砲とともに自爆する。天皇陛下万歳!」
そう叫ぶと、10キロの爆弾を抱きしめ、壮絶な爆死を遂げた。

猪俣大隊長は、戦車砲撃の直撃を受け、一片の肉も留めぬ壮烈な戦死を遂げられた。


代わって大隊の指揮は、梅津眞吾中尉がとられ、敵戦車に果敢な奇襲攻撃をかけられたが、ついに陣地は敵戦車に蹂躙され、死傷者続出の事態となった。


梅津中尉は、もはや組織的な戦闘は不能と判断し、生存者を集めて、後方の山中に入り、脱出した。


8月15日、掖河(えきか)の本体にたどり着いたときは、磨刀石出撃時に750名いた猪俣大隊の候補生は、わずかに105名になっていた。







上記の動画にもこの「磨刀石の戦い」の様子は紹介されています。


何度も言いますが候補生のみなさんは、十分な装備も武器もなく、戦えるだけの武器も弾薬もなく、あるのは、少量の武器弾薬とダイナマイトだけだったのです。しかも圧倒的兵力差。
候補生のみなさんは自分たちがここで一日でも、一時間でも、一分でも多く敵を釘づけし時間を稼ごうとされたのです。
ソ連の南下により、続々と避難している在留邦人たちが、すこしでも早く、すこしでも遠くまで安全に逃げ伸び、日本に帰還して欲しいの一念だったのです。
候補生のみなさんは、立派に戦いました。命令があったから散華されたのではありません。崇高な使命、同胞を思うこころ、祖国のために、戦ったのです。

石頭予備士官学校候補生のみなさんの気高い魂を、彼らの勇気を、私たち日本人が語り継がないで、いったい誰が語り継ぐのでしょうか。そして、武装解除した多くの日本軍将兵を厳寒の地に抑留し、日本人女子に対する強姦、殺戮、動物以下の扱いをしたソ連。ロシアに再び国名を変えても、卑劣さは何ら変わっていないロシアのお国柄も忘れてはならないでしょう。

いつか日本国民のすべてが靖国の英霊に感謝の誠をささげ、国を護るという気概を持ち「後に続く」精神を継承することを願ってやまないのです。


現在、わが国の安全保障について国会で議論され、法制に賛成、反対のデモ等が行われています。
筆者はいつも申しております。
わが国が戦争を放棄しても、戦争はわが国を放棄しない、ではなぜソ連はわが国を侵略してきたのか?
侵攻当時のわが国の戦闘能力が皆無であったこと、弱者を平気で叩くお国柄だからです。
戦後、ソ連によるわが国への侵攻は政治家によって糾弾されることはありません。日本共産党や社会党などはソ連の核は綺麗な核だ賞賛していたほどわが国は病んでいるのです。
その日本共産党や社会党、社会党くずれの民主党が法制に反対しています。
何を言わんやです。

わが国ほど紛争によって民間人が悲惨な形で犠牲になった国はありません。
それゆえ三発目の核攻撃をうけてはならず、戦禍に斃れた人々の無念を忘れてはならないのです。

日本人はあの時のことは忘れたのか? 戦没者の無念を・・・

勿論、核廃絶などでは断じて無い。

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何を目指しているのかというと、

「外国の核拡散は奨励するが、日本にだけは核を持たせない」

であろう。

それは、悲惨だな、惨たらしい、可哀想で思考停止させる一方で、対して、外国人がここの展示を見て何と思うかの考慮が一切されていないからだ。

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こんな展示や・・・・・

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こんな展示を見せられると、日本人なら誰もが「悲惨だな、惨たらしい、可哀想」と思う。
しかし外国人は「こんな事になりたくはないから核は持つべきだ」と思うかもしれない。
いや、思うだろうな。

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これが元の広島市でした。という模型を見せておいて、

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「原子爆弾一発でこうなっちゃいました」と訴える。

これを見た外国人は日本人と同じ考えを持つだろうか?

「これは凄い!これがあれば隣国の五月蠅い連中を黙らせる事が出来る」
「隣の国がこんなのを持ったら大変だから、我が国も持たなければ」

そう思わない保証は無いよな。いや、だいたいそう思うものなんだよ。

他方、日本人には「核アレルギー」を植え付けている。
あまりにホラー映画っぽくて殆どの見学者は思考停止してしまうんだな。
ショッキングなあまり「こんなのが落ちてきたらどうしようもない」と諦めてしまう。
そこから連想ゲームのように核⇒原子爆弾⇒原発=悪い!で完了する事になる。
脱原発猿なんてこの類いなんだろう。

この展示を考えたやつは日本人をよく解っていると思う。

敵ながら天晴れと言う他ないね。

しかし、そこで思考停止しないオイラみたいな変な日本人もいたりする訳だから人間というのは面白いねえ。

オイラなら平和記念資料館なんか見ないね。つーか、一度だけ見たけどね。でもあまりにくだらなくて、それで仕舞にした。
(50円で冷房が効いているから涼みに行く価値はある)

何を見るかというと、こっちを見るのだ。
広島が核攻撃を受けた時、爆心から500m以内にいて生存した人が78人いました。
その人たちは何処に居て何をしていたのでしょう?

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日銀広島支店です。
この建物は当時の建物がそのまま残っています。今は銀行じゃなくてギャラリーになっています。
日銀広島支店は被爆時に一階と二階の鎧戸を降していました。だから一階と二階はほぼ無傷で残りました。
3階は降してなかったので全焼しました。
被曝後には救護所になったそうです。
この銀行の建物はリーンホースメントコンクリート構造で作られています。平ったくいうとRC構造って奴です。
もしも爆発の瞬間にこの建物の中に居れば、無傷で生き残った事でしょう。

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日本銀行広島支店は当時の写真にもちゃんと写っています。

次は平和公園内のレストハウスです。

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これも当時の建物を引き継いでいます。改修されてアルミサッシなんかが入ってますが。
元は呉服店だったとか。
ここの見学ポイントは地下にあります。

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レストハウスの売店で「地下を見学したい」と申し出ると、誰でも見学させてくれます。
見学の動機と住所氏名を書くだけです。
私が見学した時にはよっぽど「日本の核武装研究のため」と書いてやろうかと思いましたが、小市民なので「平和教育」と書きましたwww

被曝時にここで仕事をしていた野村英三さんは生き残っています。
当時ここは広島県燃料配給統制組合の事務所でした。その職員の野村さんはたまたま書類を取りにこの地下室へ入っていたのです。
ここは爆心から170mしか離れていません。
野村さんは急性放射性障害に苦しみましたが回復し、84歳の天寿を全うしています。
生き残った者として仲間の救助に当たりましたから、その時に放射線被曝をしたのでしょう。
爆発時に地下室を取り囲む壁が熱線や爆風や放射線を防いだのです。

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白神社と言います。
日銀からすぐ南側です。
この社前で路面電車に乗っていた大塚宗元さんが生き残っています。
大塚さんは閃光を感じた直後に電車の中で伏せたそうです。
直後に気を失いました。
衝撃波で空気が一気に押しやられて酸欠状態になったのですね。
大塚さんが生き残ったのは殆ど偶然で、前に立っていた人が熱線とγ線を防いでくれたのでしょう。
また直後に伏せたことで衝撃波に飛ばされる事無く済んだと思われます。
ただ、これだけでも生き残る可能性が高まるという証明でもあります。
旧ソ連軍の教科書には閃光を感じたら兎に角伏せろと書いてあるそうです。


これらの事実は何を物語っているか。

地下室や堅牢な建物の奥に居れば生き残れるってことです。

核兵器なんて最終兵器でもなんでもありません。
やりようによっては生き残る事が出来るのです。

このように展示しなければ核兵器の価値は上がり続けるでしょう。
だけれども、そうしないのは、日本人にだけは核兵器という物の実態を見せず、怖い怖いと煽りながら核アレルギーを植え付ける。
一方で外国人には核拡散の動機を与える。
それが目的だからです。

修学旅行でここへ来ると、語り部とか言う人が出てきて体験談を語るそうですね。事前に学校側が頼むのでしょうが。
でも、核攻撃を受ければトンデモナイ事になるなんて、脱原発猿にだって解るんですよ。
私は、俺は、こうやって生き延びた・・・・それを語らなければ真の体験談とは言えないでしょうね。

核軍縮、核軍縮と言われていますが、そんな事して核兵器が無くなるんですか?
核軍縮とは一発の核弾頭の価値が上昇するって事ですよ。
100発の弾頭が50発になった。この50発は絶対に維持しようって考えるでしょ?

物事にはいろいろな見方がありますが、お仕着せの見方ばかりに囚われていると判断を間違えますよ。
騙されると言い換えても良いねwww

「あやまちはくりかえしませぬから」と刻んである碑があるそうですが、私はあんなものには絶対に頭なんか下げません。
過ちを犯したのは我々ではないからです。

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福屋百貨店です。
これも当時の建物です。



転載元転載元: 皇国の興廃懸りて原子力にあり

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