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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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屈辱の日、九月二日

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ポツダム宣言受諾が公表された玉音放送からおよそ半月後の9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ前方甲板上において調印された。日本側は、天皇陛下および大日本帝国政府の命により、かつ、その名において重光葵外務大臣が、また大本営の命により、かつ、その名において梅津美治郎参謀総長が署名した。




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昭和二十年、ミズーリ艦上でリチャード・サザランド中将が見守る中日本の降伏文書に署名する重光葵外務大臣右随行の加瀬俊一



今日、九月二日は大東亜戦争に敗れ、降伏文書調印から七十年を迎えます。
肇国以来、他国の支配をうけたことのないわが国の屈辱の日でもあるのです。
重光葵外相は降伏文書調印式のため横浜沖に向かう時、次のように詠んでいます。

『願くは 御國(みくに)の末の栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを』


重光葵外相の大意はいつの日か日本が繁栄して、降伏文書にサインした私のような者を蔑む人が多くなることを、願うと後世の我々に奮起を促しています。
しかし、重光外相が望まれた日本になっているでしょうか?
確かに戦後復興を成し遂げ、経済大国にはなりましたが未だ国民の多くは戦後米国より押しつけられた贖罪意識をなお持ち続け、どっぷりとその贖罪意識に浸かってしまった有様は首を傾げたくなります。しかも民間人ではなく政治家に誤った史観をもっている人々が多いのには呆れる次第です。
冒頭の画像の重光氏、加瀬氏ら外務省の随員は陛下の名代として陛下に敬意を表す最高の礼装です。かたや陸海軍の代表は正装ではなく、略服です。
武人として降伏は恥ずかしいものです。勝者に敬意を表すことのないように略服で臨んだのです。


    


事件直前の要人(左から白川司令官、重光氏、野村司令官)


重光外相は「つえ」を使われていますが、義足です。
昭和七年、重光外相は大韓民国臨時政府の尹奉吉のテロによって爆弾で足を吹き飛ばされた。
上記の画像はその式典の爆破直前の様子です。
重光氏は上海で天長節を祝う式典に出席していましたが、爆弾は重光氏が壇上で天長節を祝う国歌斉唱中に投げ込まれた。しかし、重光氏やほかの軍人は爆弾だと分かっていてその場を離れませんでした。国歌斉唱中に動くのは不敬だとして微塵も動かなかったのです。動かなかったのは重光氏だけではなく、壇上にいた白川義則司令官、野村吉三郎司令官、上田謙吉師団長らは直立したまま君が代を斉唱し続けた。その結果、白川司令官死去、重光氏は片足を失い、野村氏は右目失明、植田氏足指切断という重傷でした。
あの時代の日本人、軍人の胆力、自分が国歌斉唱中に爆弾を足下に投げ込まれたとき、とっさにどうするかを思えば、直立して歌い続けた日本人はとてつもないとしか言いようがありません。

重光氏は、対米戦争へと突入していくなかで、重光氏以上に戦争に反対した人物はいません。しかし、国策が開戦を決定すると全力でこれを遂行し、大東亜会議を実現しました。満洲国、タイ、インド、ビルマ、フィリピン、中華民国、、日本の代表を集めて今回の戦争が、白人帝国主義からアジアを開放する戦争であるというスローガンを掲げたのです。
わが国は敗れましたが、参加した国の多くは独立をなし得ました。
戦後、重光氏は心ならずも連合軍よりA級戦犯の嫌疑をかけられました。
しかし、極東国際軍事裁判は勝者の恩讐劇以外の何者でもなく、いまだ日本人が先達を戦犯と呼ぶ人がいますが、歴史の無知を晒しているようなものです。
杉原千畝(すぎはらちうね)は「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官です 
彼は、大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスという都市で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られていますが、杉原氏個人で行ったように伝えられていますが、事実はわが国が行ったことなのです。ドイツの要求に対し、建国の理念に背くといってはねつけました。
大義は何れに在りやと・・・
今日のわが国と違い、「骨太」な国でした。
ドイツ国民にもわが国にも言えることですが、戦争に負けた瞬間に全てを戦争指導者の責任にし、裏切った人がいます。
そしてその体制は今日もわが国を支配しているのです。


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昭和31年、国連本部での国旗掲揚を見守る重光葵外相(当時)


『霧は晴れ 国連の塔は輝きて 高くかかげし 日の丸の旗』


上記の画像は国際舞台に復帰し、国旗を掲げる重光外相です。
昭和31年12月18日、国連加盟を認められた日本国を代表し、日本全権として国連総会で「東西の架け橋」演説をした重光葵外相の辞世といってもいいでしょう。重光葵外相の国際舞台復帰の演説は絶賛されました。
ハマーショルド国連事務総長が、「深く感動した」といって握手を求めました。演説の原稿の仕上げを手伝った初代国連大使・加瀬俊一氏に「ありがとう、もう思い残すことはないよ」と語り、一ヵ月後、狭心症の発作により亡くなりました。享年69歳でした。

国連は重光氏の死を惜しみ、黙祷を捧げた。
重光氏を始めあの当時の日本人の祖国に対する情熱、愛はとてつもなく大きい。彼らの祖国への情熱がわが国を再び大国へと押し上げたのです。犠牲が伴わぬ愛は存在しない。まさに、彼らは己の体を犠牲にして祖国への愛を示した。

先人が示した国家への情熱や愛を学校教育で教えればどれだけの子供が救われるでしょうか?
敗戦後でも外交においては戦勝国も敗戦国も対等であるという態度を貫いた重光氏の存在を忘れてはならないでしょう。
反共の防波堤として戦っていたわが国を追い込み、打ちのめした米国は一国で支那、ソ連、北朝鮮等と対峙せざるをえなくなり、国力を消耗しかっての強いアメリカは存在しません。米国にとってもわが国と戦ったことは国策を誤ったと言えるでしょう。
有史以来、戦争が絶えたことがありません。今日この時も世界各地で紛争は行われ、人命が損なわれ、歴史は暗愚を繰り返しています。
国会周辺で安保法制に異を唱えながら、反体制、反日闘争、総理に対する憎悪のシュプレヒコールを繰り返す人々たち。
一国平和主義は遠い過去のものとなりました。わが国のように異常なまでの「核アレルギー」をもっている国は核武装は望めそうもありません。
ならば多くの国と連合し、平和を維持するしか方法はありません。
「戦争反対」のお題目だけでは戦争はわが国を戦争から放棄してくれません。

『神国の栄えゆくなる一里塚、ならぬ堪忍する日の来りぬ』

ミズーリ号での調印式前日、九月一日、重光氏は先帝陛下に拝謁したあとに残した和歌です。
屈辱の日、九月二日にこそ多くの方々に考えていただきたい次第です。


日本人よ誇りをもとう。

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