空襲を受け焼け野原になった帝都東京。手前は宮城(皇居)内の焼け跡=昭和20(1945)年
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
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年末の天長節、新年の宮城(皇居)一般参賀が行われています。
いつも清潔で綺麗な皇居。
これらはこころある日本人によっていつも保たれているのです。
皇居勤労奉仕。
ご来訪いただいているみなさんはご存じでしょうが、この言葉を初めて聞かれるかたもあるでしょう。
皇居勤労奉仕とは全国各地から多くの人々がグループを作って上京し、皇居の中で四日間、ボランティアの清掃活動を行っています。
その数、平成に入ってからの実績で言えば、一年間を通じておよそ一万人。この活動のことを「皇居勤労奉仕」と呼んでいる。
清掃活動はまったくの無報酬であるのはもちろん、交通費も宿泊費もすべて自己負担だ。それでも概ね一万人の人々が毎年、皇居での勤労奉仕を続けています。
時は昭和20年12月に溯ります。
終戦の年の年末のことです。当時、日本は言うまでもなく占領下にありました。皇居を護るのは近衛兵ではなく、各門にはアメリカ兵が見張りに立っているありさまでした。
その皇居自体も、外観こそ戦前と変わらぬ様子であったものの、冒頭の画像のように一歩、中に入ると戦災の跡が歴然として痛々しいまでの変貌ぶりだった。木造の建造物はほとんど焼失し、明治時代に建てられた端正雄大な宮殿も焼け落ちて礎石や瓦、レンガなどが散乱し、目も当てられない状態でした。手入れが行き届かないため、雑草があちこち伸び放題に生い茂っていました。これは皇居前広場も同様だったから、外からも一目瞭然にわかった。
終戦直後だから経済情勢は極めて悪く、食糧の入手さえ困難な状況下でのことだ。その上、皇室そのものの行く末もなお不透明だった頃ででした。
出獄した日本共産党の面々は虚脱した国民の前で「天皇制の打倒」を叫んでいました。
「私たちは、宮城県栗原郡の各村のものでありますが、二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れている、ということを聞きましたので、草刈りやお掃除のお手伝いのため上京してきました。‥どうかお手伝いさせて下さい」と男性55名、女性7名の計62名、団長の鈴木氏と副団長の長谷川氏を除き、ほとんどが22、3歳の若者らで構成された「みくに奉仕団」が清掃奉仕を申し入れてきました。
当時の交通、経済事情を考えると、宮城県栗原郡の地元から上京してくるだけで、大変な苦労でした。
そうした中で、60人もの若者たちが意を決して上京してきたことは、じつに驚くべきことでした。
わが国はじまって以来の占領。
苛酷な占領下のことゆえ、彼らの行動に対しGHQがどのような対応をとるか予測がつかず、「娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる」とのことでした。
むろん、占領当局によって拘束されるようなことはなかった。ばかりか、奉仕の初日に一同にとって思いもよらぬ感激的な場面が待っていた。みなの前に先帝陛下(昭和帝)が姿を現されたのだ。
「奉仕はだんだん進んで正午近くになった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の群の気配がするので、ひょっと見上げると、陛下がお立ちになって、こちらをご覧になっていられます。(中略)お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上って御前にまいりますと、木下次長さんがお取次ぎで、いろいろ御下問を賜りました。(中略)やがてご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の眼にも涙がいっぱい光っていました」
両陛下のお出ましに一同がどれほど感激したか、察するに余りあるだろう。
「みくに奉仕団」のことが各地に伝わると、我も我もと次々と奉仕団が結成され、勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到した。何しろ翌21年には早くも188の奉仕団が名乗りをあげ、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しているのだ。ピークは昭和26年で、何と4万人近くの国民が参加した(奉仕団は831団体)。
占領下から独立回復後、昭和から平成へと時代は推移しても、皇居勤労奉仕は一年の中断もなく続けられています。これまでの参加者は、昭和20年から平成19年までの累計で約120万人にも達している。
以下の動画のように、聖(ひじり)の帝(みかど)の宮城造営にかけつけた民の奉仕から悠久の刻を経ても皇尊(すめらみこと)と臣民の紐帯は今なお続いているのです。
「大日本は神国なり。天祖始めて基を開き、日神長く統を伝へ給ふ。我が国のみ此事あり。異朝には其類無し。」(神皇正統記)
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
参考文献
「SAPIO」、昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々より
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