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岡田 資 陸軍中将
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。
矜持(きょうじ)とは、自信と誇り。自信や誇りを持って堂々と振る舞うことを言います。未だ大東亜戦争の呪縛から抜けきれない我邦の現状が顕著なのは政治家であり、ゴミ以下となったマスコミです。
戦犯、戦犯と邦の存亡をかけて戦った先人、先祖を冒涜し貶める日本人がいることに情けなさすら覚えます。そもそも戦犯の定義すら知らずにいる方々が多いのが現実です。
「戦犯」とは戦争犯罪人の略称ですが、大東亜戦争後にアジア・太平洋の各地で開かれた軍事裁判は、戦犯をA項・B項・C項のさ3項に分けました。「A級戦犯」とは、ロンドン協定により開設された極東国際軍事裁判所条例の第五条(イ)項の、(イ)平和ニ対スル罪 に定義により決定された戦時の政治・外交・軍事指導者で、「侵略戦争」を計画・実行したとして起訴または有罪とされた者、「B級戦犯」とは、戦争犯罪類型B項(ロ)「通例の戦争犯罪」、非戦闘員や捕虜の虐待など戦時国際法に違反する行為を行ったとして起訴または有罪とされた者をいい、C項は(ハ)「人道に対する罪」とされました。
米軍による市街地への無差別爆撃、大量虐殺 BC級戦犯裁判のうち、日本国内では、唯一、アメリカが横浜地方裁判所を接収して行いました。これを、BC級横浜裁判といいます。事件総数は327件、起訴人員は合計1,037名で、各地のBC級裁判の中でも最大規模であり、判決では112名ないし123名あるいは124名に絞首刑が言い渡され、うち51名の絞首刑が執行されました。
約千名の人々が、東京・横浜以外の法廷で裁かれ、処刑されたわけです。そのうちの多くは、外国でずさんな形で起訴され、弁護らしい弁護も受けられずに、戦勝国による見せしめ、復讐として処刑されました。
戦後B級戦犯に問われ、一人責任を負って絞首刑(昭和24年9月17日)となった岡田資陸軍中将(陸士23期)の名前を知っている人は少ないでしょう。戦後の日本人はあえて知ろうともしなかった。このように国に殉じた軍人を偲び、顕彰しない文明国は世界広しといえど、わが国だけです。
岡田中将を描いた映画「明日への遺言」は平成20年に公開されました。 第13方面軍司令官、兼東海軍司令官であった岡田中将は部下19名とともに名古屋空襲の際、落下傘で降下して捕獲された搭乗員・無線手ら38名を斬首したとして殺人罪で起訴されました。しかし岡田中将はこの裁判を「戦争の継続だ。法戦だ」と称し戦ったのです。 昭和20年5月当時、38回に及んだ名古屋地方の空襲は無差別焼夷弾爆撃でした。特に5月14日の空襲は、機数486機、全投弾量2563トン、市の北部80パーセントが焼失し、法廷では孤児院の院長、列車車掌の車掌がフェザーストン主任弁護人の質問に答えて空襲が無差別爆撃であった様子を次から次に証言する。ハーグ条約からいえば空爆は軍事施設に限られ、無差別空爆をすれば戦争犯罪である。捕虜とは認められない。 岡田中将は決心しました。「余の統率のもとにあくまで戦ひ抜かんと考えた。(略)吾人は当初においては、消極的な斬死案であった、しかるに米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、我が覚悟において強烈ならば、勝ち抜きうる者であると判断した」(遺書「毒箭」より)。 岡田中将は略式裁判ながら法的に問題がない。責任はあくまでも自分にあると主張されました。岡田中将のいう責任とは、「司令官はその部下が行ったすべてについて、唯一の責任者です」岡田中将が一人でその責任を負うとしているのが誰の目にも明らかであった。バーネット主任検事、裁判長は岡田中将を助けようとして助け船を出すが、岡田中将は「違法行為があった場合に限る報復が認められる。この処刑は報復でなかったか」の問いに「処罰であった」と自分の信念を通されたのです。 下された判決は岡田中将のみが「絞首刑」でした。岡田中将は部下を死なせずに一人その責をを負いました。傍聴席の妻に一言、「本望である」と告げて訣別された。復讐劇に燃えていた裁判関係者たちは堂々とした中将の姿に感動したと伝えられています。 「日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた思いがした」。マッカーサー最高司令官が、こう語って敬意を表した今村大将の人生を綴った「『三畳小屋』の伝言」(朝野富三著、新風書房)には、次のような証言が紹介されています。
「こういうところにくると人間の地金が出るのである…。ほんとうに尊敬を受けた人として知られた人は今村均元大将と、死刑になったが元東海軍司令官の岡田中将であった」。これは大蔵官僚でA級戦犯として巣鴨プリズンに入り、戦後は衆院議員、法務大臣を歴任した賀屋興宣氏の証言。賀屋氏は、軍幹部としてかつて偉そうにしていた者たちが、巣鴨でいかにだらしなかったかに触れ、その対極にいた2人の男の名を挙げた。
また、岡田中将に対しては、巣鴨プリズンに戦犯容疑者として収容されていた、後の日本船舶振興会(現日本財団)会長、笹川良一氏のこんな証言も残されている。「死刑が決まって平然と過ごしていたのは岡田中将ただ一人だった。巣鴨プリズンでは卑屈になる軍人が多い中、岡田中将は散歩の際も、うなだれることなく、顔を上に挙げて歩いていた」という。「あっぱれなり岡田中将。全く頭が下がるほど、立派であった」と笹川氏は語っています。 岡田中将は次のような言葉を残されています。
「民族国家は大敗北を吃したのであります。此処数十年間、大任を受けて国家指導を御手伝して居た当局連中の、大敗北であることは勿論肯定します。 果たして、戦後の日本人は岡田中将が願われた、正しき民族の火を燃やし直したでしょうか?遺稿に綴られた
「大和民族が積極的に侵略に出たとか、戦争の原因は日本一国が背負ふべし等と脱線して、果ては日本と名のつくところ何物も残すべきものはない。一切御破算で、思想迄全部輸入品に切り換へるかの如き、戦後の脱線無気力振りには、つくづく情無くなります」に陥っていないでしょうか?
これから三十年経つと終戦から百年を迎えます。筆者も存命中であるか否かはわかりませんが、日本が日本で有り続け、日本人が日本人で有り続けるには日本人としての矜持が大切です。決してマスゴミや世界の流れに迎合することなく日本民族の火を消すことなく輝き続けてほしいものです。
最後に、こころある日本人は、戦犯という文字を使うべきではありません。 わが国に戦犯は存在しないのですから・・・ 日本人なら、日本人を信じるべきです。 そして日本人としての「矜持」を持ってほしいと願ってやまないのです。 |
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2016年10月08日
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