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東京新聞が「日本スゴイブームを斬る」(2016.12.23)という記事を書いた。「テレビや本は今年も『日本スゴイ』の称賛であふれ返った。だが、ちょっと待て。自己陶酔の先には何が待っているのか。戦時下の日本でも『世界に輝く日本の偉さ』が強調され、やがて破局を迎えた」。 拙ブログも今まで日本の誇りを数多く書いてきました。しかし、あえて「日本スゴイ」と称賛しなくとも、真実をそのまま書いているだけで日本の国は本当にすごいと感じるものだ。・・・
「埴生の宿」という言葉がある。土で造った粗末な家でも我が家が一番よい、という意味です。「埴生の宿」は戦後、教科書から消された唱歌のひとつでもあります。
大東亜戦争末期、日本軍の一隊がビルマからタイへ逃れようとして山中を歩いていた。この隊長は音楽学校出身なので常日頃、部下に歌を教えていた。伴奏は水島上等兵が戦地で手作りした「ビルマの竪琴」である。
ある小さな部落で野営している夜、敵のイギリス兵に囲まれた。戦闘準備をする時間稼ぎに「埴生の宿」を歌って、いざ出撃しようとした。
すると敵イギリス陣からも「埴生の宿」のコーラスが聞こえて来た。「埴生の宿」を作曲したのはイギリス人であり、イギリス兵には懐かしい歌だった。
包囲したイギリス兵と包囲された日本兵。敵味方が一曲の歌によって互いに感じ入った瞬間だった。
その後、戦争終結。まだ戦おうとする三角山の日本軍に投降を勧めるために、水島上等兵が派遣されたが、失敗して瀕死の重傷を負った。
水島上等兵はビルマ僧に助けられ、そして僧に変装して南部のムドン捕虜収容所に向かった。しかしその途中で水島は恐ろしいものを見た。
山の谷間、ジャングルの中、川辺の泥の中にあった、たくさんの日本兵の屍体だった。「私は彼らを放置して日本に帰れない。・・・」
水島の苦闘が始まります。屍体埋葬、しかし一人では限界がある。この時、見かねたビルマの村人達が積極的に協力してくれた。
ビルマ人が言った。
「日本の兵隊は実に勇敢だった。イギリス軍には立派な武器があり、多くの飛行機もあった。しかしイギリス軍の略奪や婦女暴行は相当ひどかった。それに比べて日本の兵隊は軍律が厳しく婦女暴行はなかった。しかも日本の兵隊は銃剣一つで立ち向かって行った。あの勇敢さと軍律の厳しさを今も尊敬する」
捕虜収容所では水島上等兵の帰りを待っていたが、遂に帰って来なかった。
「水島!一緒に日本に帰ろうよー」と彼らは叫び続けた。
やがて日本へ送還の日程が決まった。ある日、ビルマの少年を連れた水島上等兵が現れた。静かに「埴生の宿」を演奏し、やがて涙を流し、静かに森の中に姿を消して行きました。
水島上等兵の心中を察した隊長は黙って見送った。輸送船内で隊長は水島上等兵の長い手紙を読んだ。そこには「ビルマの土は赤い、岩もまた赤い」と書いてあった。
平成21年10月25日、タイ北部のメーソートで中野弥一郎さんが亡くなりました。享年89歳。中野さんは数多くいた日本に帰国しなかった「ビルマの竪琴」の水島上等兵の一人だった。
兵士としてインパール作戦に参加し、ビルマからインドのコヒマを攻めたが敗走。その時、仲間の3万人以上が戦病死した。
中野さんのタイの自宅には日本語の新聞や雑誌が積まれ、壁には昭和天皇の御真影とご自身の出征前の写真が飾られていた。
日本には帰らずとも、魂や心は最期まで日本人であり続けたのです。
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