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新年一般参賀に行けた事の続きです(*^^*)
二回目のお出ましまで待っていました 素晴らしい年となる様な幕開けです ![]() 儀仗隊の方が交代されるシーンも見れました アナウンスがあり二回目のお出ましです お顔の所にガラスのつなぎ目が来てしまいました(泣) でも、やっぱり動けないのですみません 天皇陛下のお言葉です 朗らかな心になりますね〜 今年も良い一年を迎えられそうな気持ちになりました 皇居 新年一般参賀 君が代 平成29年01月02日 https://www.youtube.com/watch?v=FRVttgQ-iqo お出ましの後に「君が代」をみんなで歌う 今年も来れた事がありがたいです ![]() 心を弾ませながら乾通りから出る事にしました 年末年始、四方拝をされて一般参賀の他にも新年祝賀の儀など数多くの行事を分刻みで熟されていると聞いた事がありました どうかお身体を大切にして欲しいと願います 201701 新年一般参賀 (皇居) |
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すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。
東京都港区麻布台一丁目4番6号に存在する横川省三記念公園面積:571.90平方メートル元朝日新聞の記者で、日清・日露戦争では海軍従軍記者などとして活躍した横川省三氏(1865〜1904)を記念して造られた公園です。昭和13年、遺族保存会から寄贈された場所(現六本木3丁目)を公園にしましたが、昭和39年の首都高速道路工事のために現在の位置に移され、その後、平成元年度には全面改修が行われ今日に至っています。
筆者が認めた横川省三の事績は、戦前の日本人であれば、小学生でも知っていたことでしょうが、今日ではどれだけの日本人が横川省三を存じているでしょうか?。それほど大東亜戦争以降我が邦の歴史や先人の偉業、功績は蔑ろにされたままなのです。
明治という時代は、国家草創期にもかかわらず、国民一人一人にいたるまで国家意識があった素晴らしい時代でした。ひとりひとりが「自分がやらなければ国家が衰退してしまうという危機意識があり、またそれらを担ったのです。
拙稿をご覧いただいておられる方々におかれましては、日露戦争は、西洋列強の外圧で開国を余儀無くされた小国日本が明治維新から僅か37年後に国家存亡を賭して、国力10倍の大帝国ロシアに敢然と戦いを挑んだ戦争で、明治37年(1904年)2月から明治38年(1905年)9月まで戦われたことはご存知だと思います。
横川省三 肖像 筆者が横川省三の人物像に惹かれるのは、横川が国家の危急存亡の時に、民間人でありながらも作戦任務に挺身し、祖国に殉じた忠君愛国の烈士であったという日本的な英雄像もさることながら、ロシア軍に捕らえられ、処刑される迄の僅かな日々に馥郁と薫った彼の日本人としての高潔な人格、品格が、敵軍の将校や兵やヨーロッパ各国の観戦武官をも感服させ、更にヨーロッパ報道界にまで、彼の人格が感銘を与えたという歴史的事実にあります。
日露戦争時、帝国陸軍は特別任務班を編成、露軍の動脈たるシベリア鉄道を爆破し輸送を妨害する作戦を立てました。軍人のほか民間人もこの作戦に加わりました。そのうちの一班の班長が横川省三でした。
明治三十七年四月十一日、横川班は満州のチチハル付近において鉄橋を爆破せんとしましたが作戦は失敗に終わり横川と班員の沖禎助(おきていすけ)は露軍に捕獲され軍法会議にかけられました。
軍法会議において二人は虚実を交え百数組の特別班が任務をおびて活動中であることもとより決死の覚悟であることを堂々と語ったのです。最初に下った判決は絞首刑でした。しかし、横川はこの判決に異議を唱え、銃殺刑を申し出たのです。横川省三が絞首刑の判決に異議を申し立てた時、傍聴人の多くは横川が命乞いをするものと予想していました。軍人としての名誉ある銃殺刑を望むという、横川の凛然たる態度に、法廷内の誰しもが驚きと感動を禁じ得なかったと伝えています。この軍法会議を傍聴していたドイツの観戦武官は露軍士官に「日本軍にこのような人物が多数あるとすれば、如何に露軍が優勢であっても、苦戦するのは必至であろう」と述べたという。
メジャーク大佐はクロパトキン将軍に急使を奔らせ、二人の減刑を嘆願したが、クロパトキン将軍は、「自分は日本軍人の特性をよく知っている。日本の軍人は一度死を決して大任に当った以上、事敗れて捕虜になるような場合、生還を欲するような国民ではない。今回の両勇にしても、たとえ軍法会議で赦してやっても、彼らは日本軍人の名誉のため、恐らく腹を切って自決するであろう。 すなわち、彼らの亡骸を山野に曝すより、彼ら勇士に敬意を払う為に、直ちに銃殺刑に処せ」と述べ、減刑の請願を許可しなかったという。 四月二十一日、処刑の日、横川と沖は家族に遺書を書き所持金をすべてロシア赤十字社に寄付すると伝えました。
メジャーク大佐は驚き、
「遺されるご家族に送られるのが良いのではないか。法に従って、遺族に 送ってやるから、考え直したら、どうか」と念を押したそうであるが、 横川は 「貴官がそうお思いになるのもご尤もです。貴官の御厚意は誠に有り難い。 しかし、我らの天皇陛下は、決して我らの遺族をお見捨てになりません。 また、日本の国民は遺族を王侯の待遇を以って遇するので、少しも心配は 要りません。何卒、お納め願います」と応えたという。 メジャーク大佐が更に「それでは何故に、ロシアの赤十字に寄付をするのか」 と問うと、横川は 「この戦争に於いて、不幸にして日本軍の砲弾に依って 傷付き、病める貴国軍人に対し、少しでも罪滅ぼしをしようという気持である から、どうか納めて欲しい」と応えたという。 二人の日本人が処刑を前にして、その所持金の全てを故国に待つ家族に遺す のではなく、敵国たるロシアの赤十字社に寄付したことは忽ち、ロシア軍将兵、列強諸国の観戦武官、多くの従軍記者の知るところとなり、その天晴れな行為は驚嘆と畏敬の念を以って受容されたのです。 また処刑にあたり、ロシア兵が二人を柱に縛り付けようとしたが、武人の端くれとして、縄目の辱めは受けぬと断固拒絶、受け入れられた。
二人は、遥か彼方の祖国、宮城(皇居)を望む東南の空に向って遥拝した。
「天皇陛下万歳!大日本帝国万歳!日本軍の大勝利万歳!」と叫んだのが辞世でした。銃殺刑執行官のシモノフ大尉は12名の射撃手に向け、「射撃用意!」と命じ、その後、声を落として、「愛を以って、撃て」と指示したという。
二人が苦しまずに死ねるよう、しっかり心臓を狙って撃てという意味であった。こうして、満州の荒野に轟く12発の銃声と共に、二人の日本男児の命が果てた。時に横川39歳、沖30歳でした。
日本の国民はこの二人の消息を6月中旬、フランス国パリ発ロイター通信、
及びロシアの新聞2紙の記事に依って知りました。 横川と沖の決死の行動、敵軍さえもが畏怖の念を抱いた凛然たる態度、悲劇的な最期を知り、開戦間も無い大国との大戦争の先行きに不安を抱いて いた多くの日本人の士気を大いに鼓舞したと言われています。 しかも横川班以外の特別任務班は度々、シベリア鉄道の爆破に成功していた ことから、横川や沖のような、死をも恐れぬ勇敢な日本人たち満洲各地に潜入し、シベリア鉄道の破壊活動に邁進しているということは、露軍は大きな脅威と捉えた。 露軍総司令部は急遽、シベリア鉄道警備にコサック騎兵50数個中隊を配置 したことで、露軍の多大な戦力ダウンに繋がり、この戦力分散が後に奉天 大会戦の敗北を招いたとクロパトキン将軍は回顧したといわれています。 横川らの特別任務班のシベリア鉄道破壊活動は戦略的に大きな意味を持ち、 日露戦争の勝利に影ながらも、多大な貢献をしたのである。 日露戦争の際、宮中に於いては、明治天皇の皇女、常宮(つねのみや)、周宮(かねのみや)両内親王殿下が戦死者を祭壇にお祀りになられ、戦死者の 姓名を逐一ご記帳為され、冥福を祈っておられた。 ある時、横川、沖の名をご記帳になられたが、この二人に肩書きが無位無官であることを訝しく思われ、側近の者に理由を問われた。 二人の事績をお聞きになったところ、お二方は涙に咽ばれ、お顔を伏せられたが、やがて筆をお執りになって、二人の名の上に「忠君愛国之士」と記されたという。横川が銃殺刑に処せられた、30年後の昭和9年、岩手県盛岡に住む横川の長女律子(47歳)のもとにシモノフと名乗るロシア人の老人が訪れた。
彼は、横川省三と沖禎介の銃殺刑執行官を務めた、シモノフ大尉その人でした。シモノフ大尉はその後、帝政ロシア軍の陸軍少将にまで累進したが、大正6年 のロシア革命後、日本に亡命。 白髪の老人となったシモノフは律子と対面し、涙ながらに語ったという。 「私はいつの日か、お父様の立派なご最期の様子を直接お伝えしようと思って おりました。貴女にお会い出来て、こんなに嬉しいことはない」 「私はあの時、真の日本武人の姿を見たような気がしました」と・・・ 横川はじめこの時代の日本人の力強さは、地殻を突き破って、マグマが噴出するかのような、異常なほどの激しさ、強さが感じられる。
国論が二分し、卑劣漢が横行する平成日本。
明治に学び、強い明治に還る秋がきているのではと筆者は願ってやまないのです。
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