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日々美し国に生(せい)をうけたことを先人・先祖に感謝いたしております。
美し国、四季のある国、日本。
桜が咲いてそして散り、梅雨には雨が降り、夏には穀物が成長し、秋には紅葉が散ること、そして冬には雪が降ること。
春夏秋冬、季節折々の表情を見せてくれます。
しかし、時には大自然が牙を剥き災害になります。それでも我々の祖先は災害を恨むことなく神の怒りだと身を律し、自然を崇拝し、ともに生きてきました。
人々が物質的に裕福になるにつれ、森羅万象すべてに感謝と崇敬の気が薄れ、集団生活において絆を大切にしてきた民族の紐帯も希薄になったと感じるのは筆者だけでしょうか?
こんな時代を先人は見越していたのでしょうか?
遠い先人は森羅万象を司る神々への感謝と報恩のため「まつり」を後世の我々に遺していただきました。
日本のまつり、それは、日本古来の文化の伝承です。
祭りを運営する人、参加する人、そして見る人。
すべての人がひとつになって夢中になれる唯一の文化といえましょう。
平成29年2月15日〜16日の期間、横手のかまくらは行われました。
「かまくら」は、水神様をまつる横手の小正月行事です。
かまくらは毎年2月15・16日の夜に行われる小正月の伝統行事で、みちのくの冬の風物詩として全国的に知られています。
中に子供たちが入って、「はいってたんせ(かまくらに入ってください)」「おがんでたんせ(水神様をおがんでください)」といいながら、甘酒やおもちをふるまいます。
「かまくら」はもともと、中にまつられた水神様にお賽銭を上げて、家内安全・商売繁盛・五穀豊穣などを祈願する行事でした。
横手のかまくらは、約450年の歴史があるといわれています。
藩政の頃、武家の住んでいる内町(うちまち)では、旧暦1月14日の夜、四角い雪の壁を作り、その中に門松やしめ縄などを入れ、お神酒や餅を供えてから燃やし、災難を除き子供の無事成長を祈った左義長のかまくらが行われました。
一方、商人の住んでいる外町(とまち)では、旧暦1月15日の夜、町内の井戸のそばに雪穴を作り、水神様(おしずの神さん)を祀り、良い水に恵まれるようにと祈りました。
また、当時の子供達の間では、積もった雪に穴をあけて、その中に入って遊ぶ雪遊びがありました。
これらの風習が長い年月をかけて融合し、現在のような「かまくら」になったといわれています。
大正の終わり頃までは、現在のように各家々でかまくらをつくるのではなく、町内ごとに行われていたようです。かまくらの夜は、満月が煌々とかまくらを照らし、月明かりに浮かぶかまくらや、灯るローソクの火には情緒深いものがあります。子供たちは、月明かりに自分の影をうつして占ったり、固く圧雪した雪に、雪下駄をきしませて歩いたりしたものです。
昭和11年、ドイツの建築家ブルーノ・タウトがかまくらを見てメルヘンの世界を絶賛し、彼の著書「日本の再発見」にそのときの感動を伝えています。
『すばらしい美しさだ。これほど美しいものを、私はかつて見たこともなければまた予期もしていなかった。これは今度の旅行の冠冕だ。この見事なカマクラ、子供たちのこの雪室は!…
子供たちは甘酒を一杯すすめてくれるのである。こんな時には、大人たちはこの子たちに一銭を与えることになっている。ここにも美しい日本がある。』
昭和10年頃までは雪室のかまくらが作られていましたが、天井が落ちる危険があったため止められ、天井にむしろなどを掛け、入口にはござなどを下げました。
昭和27年より、かまくらの開催日が新暦2月15日となりました。その後、「ぼんでん」と合わせ「雪まつり」として開催することになりました。
昭和34年にモデルかまくらが作られ、これを契機に現在のようなかまくらが作られるようになりました。
昭和37年頃になると、自動車の交通量が多くなり、交通の邪魔にならないようにと注意が出たため、だんだんかまくらの形が縦長になってきました。
昭和44年になると自動車の交通量が多くなり、規制を受けた道路はかまくらが作られなくなりました。この頃よりかまくらの数がだんだん少なくなっていきました。
これを受けて、昭和46年頃にはミニかまくら運動がおき、町中にミニかまくらが作られるようになりました。この頃から、市内に点在していたかまくらを集約した「かまくら通り」を設け、一層の観光化がはかられました。(横手市HPより)
いま日本に必要なのは、そんな底知れぬ生命力に満ちた祭りの力と、一体感、人と人の心の絆、祖先・先人を敬愛し、皇室を崇め、天津神(あまつかみ)( 伊勢の大神宮)、国津神(くにつかみ)(氏神)、森羅万象を司る八百万(やほろず)の神々に感謝をし、よりよい日本を後世に残し、日本のこころを後世に伝えることではないでしょうか?天皇彌榮(すめらぎいやさか)