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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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横浜近くの風景 ウィルヘルム・バーガー撮影 1869頃 右端で犬が寝そべる長閑な風景。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログへお越しくださり感謝をもうしあげます。

昨今の国会、マスコミは国家の大事よ地方の学園問題を国家の大事といわんばかりに報道し、扇動している様は情けなく思います。政治や報道が「国民不在」であることの証左です。他国の人々が見れば滑稽かつ摩訶不思議にうつることでしょう。わが国は先人が平和を愛し、連綿と平和を紡いできました。かって存在した時代劇からもうかがうことができました。

筆者が子供の頃、ブラウン管テレビを賑やかしていた時代劇がテレビから遠ざかってから久しい。とても残念でなりません。
筆者をはじめ現在を生きる現代日本人は大小に関わらずテレビや学校教育の影響をうけています。一定の年齢以上の方は、社会科や日本史の授業で、「士農工商」という序列があり、士(武士)を頂点に、農(農業従事者)、工(工業従事者)、商(商業従事者)の順で身分が固定されていたと習ったはずです。またテレビの時代劇を見て育った今の日本人は、西洋の文物が流入する以前の江戸時代は、強烈な身分社会でイメージをもっているかもしれません。
しかし、徳川幕府が成立した当時の1600〜1700年の欧州を見ると、ヨーロッパは江戸初期には魔女狩りの真っ最中、文明が進んでいたわけではありません。フォークが導入されるまでは、西ヨーロッパではスプーンでスープを飲み、ナイフで肉を切りながら、主に手づかみで食べていたのです。しかも男女とも入浴や歯を磨く習慣がなくトイレもなかったので貴族は持参のおまるで用を足し、近代になっても、都市の中でも路傍にしゃがんで用を足すのが珍しくありませんでした。夜はおまるを使いますが、朝になるとそれを窓から投げ捨てます。紳士の帽子やマントはこれに備えるために、女性のハイヒールは汚物を踏まぬように考えられたと伝えられています。なお、ベッドサイド・テーブルは、もともとおまるを入れるためのものでした。明治初年の外国人を驚かしたわが国の混浴など、日本人は裸体を見せることは気にしませんでしたが、身体の汚れ、穢れを恥としました。ですから我々の祖先は人の目を憚らず入浴や行水したのです。一方ヨーロッパではキリスト教が肌を露出することを禁じたため、入浴自体が行われなくなり、近代に入っても、入浴は裕福な人たちのものでしかなく、庶民は一生風呂に入ることなく死んでいったひとが殆どです。江戸期、日本は公衆衛生で世界第一の水準にありました。
江戸は、18世紀ころに人口が100万を超えた大都市でした。
半数が武家屋敷や寺社の構成員、半数が町人と呼ばれた庶民といわれています。町人を支配したのが町奉行所で時代劇でも馴染みのある南北2つの奉行所があり、職員は各与力25騎・同心140人(幕末の数値)でした。与力・同心300人余りで50万の町人を支配し、治安を守っていました。現在警視庁の警察官は4万3千人です。犯罪を取り締まる役人の数字においても江戸は格段に治安がよかったといわれます。

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上の画像は「御用」と書かれた提灯と六尺棒をもった大勢の男たちが、犯人を捕まえにくる大捕物のシーンは時代劇の華ですが、治安もよかった江戸では大勢の男たちが犯人を追い詰めるというようなシーンは滅多に起こらず、提灯片手に犯人を追い詰める方々は今日で言う民間の警備会社の社員のような人たちで役人ではありませんでした。


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画像は懐かしの素浪人、花山大吉と焼津の半次の画像です。花山大吉さん演じる近衛十四郎氏は最近亡くなった松方弘樹さんのお父様ですが、半次を怒る時の大吉の「バカタレが〜!」が印象的でした。
時代劇では、花山大吉らの浪人が江戸の町を何事もなく歩いている場面がほとんどの時代劇で登場しますが、実際には月代(さかやき)をボサボサに伸ばした浪人が堂々と江戸の町を歩くというのはありえませんでした。
浪人は武士であっても町奉行が取り締まれる対象であって、牢人が浪人に変化したとも言われています。ボサボサ頭の頭髪は時代劇の中だけの光景と言えるでしょう。
江戸時代は、月代に限らず身だしなみが重要視され、こと細かに身だしなみについて規制されていたのです。
江戸の町における武士の特権の一つに切り捨て御免が時代劇などで登場します。しかし、切り捨てた武士は、自分が切捨御免をするだけの無礼を受けたということを、証明しなければならず、証明できなければ罪に問われました。江戸と所領地を行き来する参勤交代も徳川御三家以外の大名には土下座する必要もなく、幕府に反旗をひるがえす可能性のある外様大名の経済力を奪う目的があったためすべての小藩の大名までもが参勤交代は行っていませんでした。
16世紀には世界最大の鉄砲の生産国・使用国であった我国は、江戸時代に入ると、軍縮の道を選びました。当時、世界最高の技術水準にあった鉄砲を捨てたのです。この過程で決定的に大きかったのは、徳川家康のリーダーシップでした。
信長・秀吉に続き、戦国時代に終止符を打った家康は、「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)を馬印に用いいていました。
厭離穢土欣求浄土とは、戦乱の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味です。
天下太平の世を作ることを理想としていたのです。江戸に幕府を開くと、家康は鉄砲・火薬製造の統制を行います。鉄砲や火薬の産地を集中させ、鉄砲代官を置き、製造は幕府の許可制としました。寛永14年に島原の乱が起こりますが、これを治めると、幕藩体制は安定し、鉄砲はもはや戦闘の重要な要素ではなくなりました。鉄砲の製造数が大きく減少する一方、世界最先端の技術も次第に衰退していったのです。徳川幕府は、様々な戦争防止の仕組みを作り上げました。参勤交代や新たな築城の禁止、転封(国替え)など、精緻な統制が行われました。その結果、人類史上稀(まれ)なほど長い、平和の時代を実現しました。
最も注視したいのは、長期平和を実現した思想です。我国には、西欧とは異なる世界観がありました。キリスト教は「愛と平和の宗教」のようですが、その基底にはユダヤ教の怨恨的・闘争的な性格があり、それに基づく世界観は、近代において主権国家間の対立・抗争を原理とする国際秩序を生み出しましたのです。
皇室は、精神的支柱として人民の安寧を祈り、幕府は国内の平和を維持し、外国に対し国防の役目を負う。大名は領地の平和維持、要請があれば幕府への軍役を負いました。 武士は石高に応じ軍事力を提供、与えられた役職を果たし、社会を導き、手本となる役目を負いました。農民は全国の民を養う食料を造り、年貢を納め商人は必要な品を造り流通させ、町役人(ちょうやくにん)が町に関する費用を計算して、徴収し記録し、町を運営する役目を負っていました。
すべては公儀の為でした。士農工商は役割分担であり、上下関係を目的とはしていませんでした。ここが西欧と大きく異なります。欧州では搾取できる立場にありながら、武士は困窮を極め、経済的に最も辛い立場でした。
湯島聖堂(昌平坂学問所)では、享保2年(1717)から明治維新までの170年間、毎日午前10時から正午まで、一日も休まず講義が続きました。勤番武士、町民、農民、地方の学生、女性などが自発意思で参加できました。
欧州の文化が特権階級(王侯・貴族・教会)の文化であったのに対し、江戸期の元禄文化、化政文化とも庶民が生んだ文化であり、文学・絵画・芸能すべて庶民の為のものでした。
徳川250年、ひとつの政権が継続して平和、泰平を維持し、また大きな革命なく次の時代へ移行し、統治者が人民を大事にした時代でした。これほどの素晴らしい歴史は日本唯一のものであり、世界から見ると全く不思議で驚嘆すべきことです。江戸時代とはまさに日本が誇るべき時代なのです。
そしてそれらの社会・文化を紡いできたのは紛れもなく、我々のご先祖さまなのです。

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