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先帝陛下ご真影
先帝陛下崩御 先帝陛下崩御 先帝陛下崩御
今日は昭和の日、先帝陛下の誕生日にあたります。
かって我国は、畏くも天皇陛下の誕生日を「天長節」皇后陛下の誕生日を「地久節」として国家挙げて祝い慶びました。 戦前の祝祭日は、根拠、目的、由緒がはっきりとしたものでしたが、戦後の祝日法によって定められた祝日は、目的、由緒が漠然としており、これでは何の為の祝日かわかりません。 昭和の日を「昭和節」文化の日を「明治節」とし、皇室祭祀にまつわる祭日も本来に戻すことこそ愛国心を涵養し、今の日本にとって大事なことです。 昨今、伝統の何たるかを忘れ、わが国の文化を否定する風潮が多々見られ、それに伴い治安の悪化が著しい・・
先人を否定し、文化を忘れ、日本人らしさを失っていくのは自らのルーツを否定しているのと同じではないかと筆者は思うのです。
昨今の日本を見るにつけ、日本が日本で無くなっているような錯覚にとらわれ落胆させられることが多々あります。
今一度、日本という「祖国」「母国」について熟考せねばならぬ時代が来ているのではないでしょうか? 「降る雪や明治は遠くなりにけり 」
昭和58年に亡くなった俳人、中村 草田男(なかむら くさたお)氏は明治生まれでした。昭和の時代を目の当たりにして、雪が降るという季節の節目に立ち、母校の小学校を尋ねた際に作った句だそうです。 生まれた時代を振り返って、明治という時代が遠くになったものだな、と言う感慨を句にしたものと思います。 昭和に生まれた筆者も還暦を前に、時々昭和という時代を懐古し、今日の日本と対比することが多々あります。今日のように物質的に恵まれ豊かな時代に暮らしていても、何か大きな忘れ物をしたような?大事なものを置き去りにしてきたように思えてなりません。地域の紐帯は薄れ、個人主義が蔓延り訴訟社会になってしまった平成の日本。豊かではなかったけれど幸せだった昭和の時代。
「昭和は遠くなりにけり 」と・・・
冒頭の画像は一般参賀、続いて先帝陛下ご不例(ご病気)において当時の国民が平癒を祈り記帳に駆けつけた画像です。誰一人として動員をかけられた人はいません。心より先帝陛下を慕い平癒を祈ったのです。
祝い事やイベントを自発的に日本国民は自粛し、ご快癒を祈りました。一億国民の願いも届かず、先帝陛下は崩御あそばされた。多くの日本国民は悲しみました。
激動の時代に君臨された先帝陛下。その御稜威は今日においても色褪せることなく昭和の国民のこころに焼き付いております。
先帝陛下のエピソードをいくつかご紹介させていただきます。
薨去あそばされた寛仁親王殿下「公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」
――昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?
昨年7月亡くなった皇室記者ひとすじ56年・松崎敏弥さん殿下 二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたいことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。その時の記憶で特に鮮明なのは、陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と淡々とおっしゃったことでした。一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を言上(ごんじょう)したわけで、いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。
またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。 ――昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。 殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(信子妃殿下は麻生太郎元首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。 義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、 「太賀吉は元気でおるか?」 とおっしゃったのです。 実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。 ――国民に対するお気遣いも有名でした。 殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。 ――今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか? 殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。 ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、 「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」 とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。 また、伯父様はこうもおっしゃっていました。 「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」 まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。 [激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸
当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。 先帝陛下は酒を嗜まれず、美食を好まれなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。昭和天皇陛下・香淳皇后陛下は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫に、居住されておられました。
そこは、元侍従長の入江相政氏によると、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、昭和天皇陛下は戦後もそこに住み続けられました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、昭和天皇陛下は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けられました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、神武景気も過ぎた昭和36年の11月、先帝陛下はようやく現在の吹上御所に移られました。
新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。
そして先帝陛下は、以下のように仰せられた。 「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ。」 先帝陛下は終戦の詔勅において日本国民に向けて発せられておられます。
「常に汝ら臣民とともにある。」と・・・
昭和の日に先帝陛下のご遺徳を偲び、御国の隆昌と皇室の彌榮(いやさか)を願ってやみません。
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2017年04月29日
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