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すめらぎいやさか。
今上陛下ご在位の最後の年が始まり、今上陛下が新年に当たり、国民から祝賀を受ける在位中最後の一般参賀が2日、宮城(皇居)で行われた。
畏くも陛下におかせられましては笑顔で手を振って参賀者に応えあそばされ、
「新年おめでとう。晴れ渡った空のもと、皆さんとともに新年を祝うことを誠に喜ばしく思います。本年が少しでも多くの人々にとり、良い年となるよう願っています。年頭にあたり、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と叡慮を賜った。一般参賀に訪れる方々は誰一人として動員をかけられた人はいない。天長節のお祝いの記帳に訪れる人も同様です。昭和天皇ご不例の時も日本中が陛下の病気快癒を祈り、記帳に訪れ華美な行事は自粛した。皇居の清掃奉仕も誰に強制されることもなく、日本中から集まっています。
それほど陛下と国民の紐帯は固いものなのです。
ファッションデザイナーで昨年の文化功労者で両陛下に謁見されたコシノジュンコ氏は産経新聞「譲位によせて」以下のように両陛下の人柄について述べられています。
天皇陛下には平成29年秋、私が文化功労者に選ばれた際に皇居でお会いしましたが、声が出せないほど緊張しました。その日、私が着ていた着物風のドレスに、皇后陛下が興味を示されて、全身を見ていただきました。天皇陛下は柔和な表情を浮かべて、やりとりを傍らで「うんうん」とうなずいてご覧になっていました。 作家の曾野綾子氏は年始の産経新聞「正論」にて次のように皇室について述べられています。
無事な一年が過ぎ、平成は繁栄のうちに終わった。全日本が壊滅するほどの天変地異もなく、周辺諸国に戦争がなかったおかげでもある。更に日本人全体が温容で賢かったことと、中心的存在だった天皇、皇后両陛下が英邁(えいまい)なリーダーで、日本人の戦後世代のあるべき姿を柔らかくリードしてこられたからでもある。 天皇、皇后両陛下は、ご在位の間常に国民に夫婦のお手本を示された。常に国民と共にあられた。
12月31日の「産経抄」では皇后陛下について次の書いています。
師走の週末。15分の休憩時間が終わり、コンサート第2部の幕が開こうかというそのとき、演者も現れていないのに、2階席で拍手が鳴り響いた。何事かと振り向くと、美智子皇后陛下がおいでになったのである。 我國の畏くも天皇陛下、皇室には、「仁」の御心の伝統があります。
日本書紀には、我國を建国された神武天皇が、「民」を「おおみたから」と呼ばれたと記されています。神武天皇にとって、臣民は皇祖・天照大神から託された大切な宝物であり、家族だったのです。
そして、神武天皇は、日本を建國するに当たり、臣民を大切にすることを建國・統治の理念とされました。
有名なのは、第16代仁徳天皇です。
仁徳天皇は即位されて4年目、高台から臣民の家々を見渡されました。すると家々から炊事の煙がのぼる状況の悲惨さを感じられ、臣民は貧しい生活をしているのだと気づかれました。仁徳天皇は3年間年貢などを免除されました。そのため、天皇の着物や履物は破れてもそのままにし、宮殿が荒れ果てて悲惨な状況でもそのままにしておられました。
そうして3年、気候も順調で臣民は豊かになり、高台に立つと、炊事の煙が元気に上がっているのを見られました。
臣民の生活は見違えるように豊かになりました。それを見て、仁徳天皇は喜ばれ、「わが身は、すでに富んだ」と言われました。
それを聞かれた皇后陛下は、「私たちの住んでいる宮殿の垣はくずれ、雨もりもしているのに、どうして富んだといわれるのですか」と問われました。
仁徳天皇は「聖王は、臣民の一人でも飢え寒がる者があるときは、自分を顧みて自分を責められた。今、臣民が貧しいのは、自分も貧しいのだ。臣民が富んでいるのは、自分も富んでいるのだ。未だかつて、臣民が富んで、君主が貧しいということはあるまい」と答えられました。
仁徳天皇に感謝した諸国の臣民が、3年も課役を免除されたために、宮殿はすっかり朽ち壊れています。それに較べて臣民は豊かになりました。もう税金をとりたてていただきたいのです。宮殿も修理させてください。」と嘆願にきました。
しかし、仁徳天皇はお許しになられませんでした。
3年後に宮殿の修理をお許しになり、國中から臣民が集まり、新しい宮殿づくりをしました。臣民は命令もされないのに、老人を助け、子供を連れて、材料運びに精出し、昼夜兼行で競争して宮殿づくりに励みました。そのためまたたく間に宮殿ができあがりました。それ以来天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」と臣民は崇めました。
仁徳天皇の御製として、『新古今和歌集』に次の御歌があります。
たかき屋に のぼりてみれば 煙たつ
たかみのかまどは にぎはひにけり
この御心は代々の天皇に引継がれ、明治大帝も
なりはひを たのしむ民の 喜びは やがてもおのが 喜びにして
と詠まれておられます。
皇族男子は、御名前にみな「仁」という文字がついています。
これは平安時代からの伝統です。このことは、皇室が「仁」ということを非常に大切にされていることを表わしています。
畏くも先帝・昭和天皇・香淳皇后は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫(上記写真)に、居住されておられました。
そこは、元侍従長の入江相政によると、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、畏くも天皇陛下は戦後もそこに住み続けられました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、畏くも天皇陛下は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けられました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、神武景気も過ぎた昭和36年の11月、天皇陛下はようやく現在の吹上御所に移られました。
新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。
そして畏くも先帝・昭和天皇は、
「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ。」 と仰られたそうです。
このようにわが國では、天皇陛下は臣民を慈しみ、臣民は天皇陛下を敬愛して、天皇陛下と臣民が家族的な感情で結ばれた状態を、理想としてきました。それは他の國々には見られない我國独自の伝統です。皇室が古代から今日まで絶えることなく続いてきた伝統なのです。
外国の元首、王室は、「国民が苦労をしていても自らは豊かさと威厳を持った暮らし」が当たり前です。ゆえに他国の王室は殆ど滅んでしまいました。
わが国だけなのです。「国民と共に苦労をする国家元首」は…。
日本人に生まれて良かった。
天皇陛下は日本の誇りです。
日本人に生まれてよかった。
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