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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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昭和天皇・香淳皇后 ご真影


拙ブログにご来訪くださり感謝を申しあげます。

女優の市原悦子さんが身罷られました。
衷心よりお悔やみもうしあげます。
大正、昭和、平成を生き抜き辞世された著名人の訃報が続いています。
著名人だけでなく、激動の時代に生まれ、戦後焦土の中から復興し、敗戦から再び大国へと押し上げた原動力となった世代が舞台から去られていくさまは本当に寂しく思います。

「降る雪や明治は遠くなりにけり 」

昭和58年に亡くなった俳人、中村 草田男(なかむら くさたお)氏は明治生まれでした。昭和の時代を目の当たりにして、雪が降るという季節の節目に立ち、母校の小学校を尋ねた際に作った句だそうです。
生まれた時代を振り返って、明治という時代が遠くになったものだな、と言う感慨を句にしたものと思います。
昭和に生まれた筆者も還暦を前に、時々昭和という時代を懐古し、今日の日本と対比することが多々あります。今日のように物質的に恵まれ豊かな時代に暮らしていても、何か大きな忘れ物をしたような?大事なものを置き去りにしてきたように思えてなりません。地域の紐帯は薄れ、個人主義が蔓延り訴訟社会になってしまった平成の日本。豊かではなかったけれど幸せだった昭和の時代。

「昭和は遠くなりにけり 」と・・・

今日は成人の日です。かっての成人になる儀式は元服といいました。
十歳そこそこで元服された先人もおられます。
時は流れ、現代の若者は7割以上が成人式は「20歳で」とし、18歳成人式について「受験」「就職準備」と重なるなど現実的な支障を挙げる若者が多いとか。今どきの成人式は大人としての「自覚を持つ」より、久しぶりに友人と会える、同窓会的役割が主なようです。気骨があった明治人、他人の為に生きた大正、昭和初期の世代、戦前の薫陶をわずかばかりではあるが受け継いでいた昭和中期、後期の世代。

先人を否定し、日本の歴史、文化を忘れ、日本人らしさを失っていくのは自らのルーツを否定しているのと同じではないかと筆者は思うのです。
昨今の日本を見るにつけ、日本が日本で無くなっているような錯覚にとらわれ落胆させられることが多々あります。
今一度、日本という「祖国」「母国」について熟考せねばならぬ時代が来ているのではないでしょうか?

昭和の御代最後の日

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那須御用邸内の湿地を散策あそばされる先帝、昭和天皇と香淳皇后ご真影(昭和58年)

すめらぎいやさか。

今日一月七日は昭和天皇祭です。
先帝陛下が崩御あそばされてから三十年になります。
先帝陛下の御遺徳を偲び、皇室の彌榮を祈念します。

『 降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ 』

終戦の翌年詠まれた先帝陛下の大御歌(おおみうた)です。
深い雪に覆われても時が来れば青々と茂る松の木を 雄々しき日本人に例え、今の苦しみを耐えて再び隆盛とならんと鼓舞されたもので、同時に日本人が日本人らしさを失わぬようにと願われたのです。

大東亜戦争終戦後、先帝陛下はマッカーサーとは戦後、11回にわたり会談あそばされた。
しかし、マッカーサーが解任されたとき先帝陛下はアメリカ大使館を訪問あそばされ、別れの挨拶をされました。
しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、先帝陛下は見送りにいかず侍従長遣わされたのみでした。
昭和39年マッカーサーは84歳で死去し、バージニア州のノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。
昭和50年、先帝陛下は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきましたが、先帝陛下はこれを断りあそばされた。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを拒みました。
  訪米あそばされた先帝陛下はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられましたが、この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離にありました。それでも先帝陛下は記念館には出御あそばされませんでした。
GHQは民主主義を米国が日本に持ち込んだと盛んに刷込みました。
現在でもマッカーサー信者がわが国にも存在します。
明らかにマッカーサー及び、米国の悪意ある占領政策を否定された先帝陛下。
昭和が終わった三十年前の今日。今一度、先帝昭和天皇の国民への思い、悪意ある占領政策を知ってほしいと願うばかりです。

天皇陛下萬歳。
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すめらぎいやさか。


戦前から昭和天皇を撮影していた、写真家の山端祥玉(やまはた しょうぎょく)山端氏は昭和天皇の写真を撮る前に、御文庫(当時の昭和天皇の住居)に下見に行った際、あまりに質素な事に感激された。
特に「両陛下のおスリッパを見て感泣してゐた」と伝わります。
(昭和天皇の侍従長・入江相政日記より)。

肇国以来、「常に汝臣民と共にあり」を継承されてこられた畏くも昭和天皇、今上陛下。筆者は陛下の叡慮に幾度か涙しました。
昭和天皇、香淳皇后は、大豆の粉やフスマ入りのパン、素うどんなどを召し上がられました。
膝の擦り切れたズボンも取り換えず、空襲で焼けた宮殿を新設することもお許しになられませんでした。
「国民はバラックに住んでいるから自分たちだけ贅沢することはできない」との由。昭和34年、日本国民は皇太子殿下、美智子妃殿下の御成婚を華やかに祝いました。しかし、
その時ですら、昭和天皇、香淳皇后は御文庫(防空壕)で暮らしておられた。それからさらに2年、終戦から16年経過して、やっと新たに建てられた「吹上御所」に移られた。

「こんな良い家に住める様になったのも、皆んな国民のお陰だ」と・・・


飽食の時代と言われる今日、昭和天皇、香淳皇后が常に汝臣民と共にあられたかを思い出してほしいと願う。
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両陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下 ご真影 (1月2日一般参賀)



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平成最後の一般参賀を待つ人たち=1月2日午前8時12分、皇居前(共同通信社ヘリから)




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陛下の誕生日を祝う一般参賀のため、宮城前広場に集まった人たち(23日)



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陛下の誕生日を祝う一般参賀で記帳する人たち(23日、皇居)


すめらぎいやさか。

今上陛下ご在位の最後の年が始まり、今上陛下が新年に当たり、国民から祝賀を受ける在位中最後の一般参賀が2日、宮城(皇居)で行われた。
畏くも陛下におかせられましては笑顔で手を振って参賀者に応えあそばされ、
「新年おめでとう。晴れ渡った空のもと、皆さんとともに新年を祝うことを誠に喜ばしく思います。本年が少しでも多くの人々にとり、良い年となるよう願っています。年頭にあたり、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と叡慮を賜った。一般参賀に訪れる方々は誰一人として動員をかけられた人はいない。天長節のお祝いの記帳に訪れる人も同様です。昭和天皇ご不例の時も日本中が陛下の病気快癒を祈り、記帳に訪れ華美な行事は自粛した。皇居の清掃奉仕も誰に強制されることもなく、日本中から集まっています。
それほど陛下と国民の紐帯は固いものなのです。

ファッションデザイナーで昨年の文化功労者で両陛下に謁見されたコシノジュンコ氏は産経新聞「譲位によせて」以下のように両陛下の人柄について述べられています。

天皇陛下には平成29年秋、私が文化功労者に選ばれた際に皇居でお会いしましたが、声が出せないほど緊張しました。その日、私が着ていた着物風のドレスに、皇后陛下が興味を示されて、全身を見ていただきました。天皇陛下は柔和な表情を浮かべて、やりとりを傍らで「うんうん」とうなずいてご覧になっていました。

陛下は、物静かで優雅で、一つ一つの所作がとても丁寧な方。美智子さまが寄り添う、お二人の姿は、日本の美というものを物語っておられ、世界に誇れるご夫妻だと感じます。

 そんなお二人が大災害が起きるたびに被災地を訪問し、避難所でひざまずき、熱心に被災者の言葉に耳を傾けたり、一人一人と握手をしたりされています。陛下は昭和天皇の意志を受け継ぎ、戦地で亡くなった方々のことをずっと心にかけていらっしゃいますね。いずれも信念がなければ容易にできることではなく、本当に素晴らしいお方だと思います。


作家の曾野綾子氏は年始の産経新聞「正論」にて次のように皇室について述べられています。

無事な一年が過ぎ、平成は繁栄のうちに終わった。全日本が壊滅するほどの天変地異もなく、周辺諸国に戦争がなかったおかげでもある。更に日本人全体が温容で賢かったことと、中心的存在だった天皇、皇后両陛下が英邁(えいまい)なリーダーで、日本人の戦後世代のあるべき姿を柔らかくリードしてこられたからでもある。
かってヨーロッパのどこかで長年暮らしていた数人の日本人たちが現地で語り合った時、日本の皇室が質実で学問を重んじ、開かれていながら倫理的であることの幸福についてふれたと言っていたことを思いだした。その頃ヨーロッパの王室は決して日本の皇室の家族ではなかったのだという。贅沢(ぜいたく)でもあったし、スキャンダルにも塗れていた。今では、皇室と自分は関係ないと言う人も多いだろう。しかし、国際社会は、過分にその国の王室の人たちの生き方で、その国を判断する面もあるらしい。
天皇陛下は平成最後のお誕生日のお言葉に当たって、皇后陛下が長年、天皇陛下のご任務を支えてこられたことに対する感謝を述べて、温かい夫婦愛を示された。世間の夫婦ももっとお互いへの感謝を口にすべきだろう。
天皇、皇后両陛下は、ご在位の間常に国民に夫婦のお手本を示された。常に国民と共にあられた。
12月31日の「産経抄」では皇后陛下について次の書いています。

師走の週末。15分の休憩時間が終わり、コンサート第2部の幕が開こうかというそのとき、演者も現れていないのに、2階席で拍手が鳴り響いた。何事かと振り向くと、美智子皇后陛下がおいでになったのである。

 南米ベネズエラ発祥のチャリティーコンサートで、福島県相馬市など被災地で活動を続けている子供オーケストラが日頃の練習成果を発表していたのだが、驚いた。「皇后陛下がいらっしゃいました」との放送も事前の予告もなかったのである(目つきの鋭い男性が何人か場内をうろうろしていたのは気がついていたが)。

 続いて舞台では、盲学校に通う子供たちの歌声にあわせ、白い手袋をはめた聴覚障害がある子供たちがパフォーマンスを披露した。ホワイトハンドコーラスと呼ばれているそうだが、そんな子供たちを温かく見守り、拍手される陛下のお姿に、なぜか涙が止まらなくなった。

 新聞やテレビは、「国民に寄り添う皇后」といとも簡単に表現するが、さまざまな考えを抱き、境遇も違う人々に「寄り添う」行為がいかに至難の業か。民間から皇太子妃になられてまもなく60年。今の自然なお姿になるまで、大変なご苦労をされてきたのは言うまでもない。

 天皇陛下は、さきの会見で「自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労(ねぎら)いたく思います」と声を詰まらされた。抄子の涙腺は、またしてもあっけなく崩壊した。

 ▼いよいよ平成最後の大みそかを迎えたが、まだ平成は120日も残っている。国民のため全力投球されてきた両陛下に感謝しつつ、平成の終わりを一日一日かみしめながら過ごしたい。

我國の畏くも天皇陛下、皇室には、「仁」の御心の伝統があります。
日本書紀には、我國を建国された神武天皇が、「民」を「おおみたから」と呼ばれたと記されています。神武天皇にとって、臣民は皇祖・天照大神から託された大切な宝物であり、家族だったのです。
そして、神武天皇は、日本を建國するに当たり、臣民を大切にすることを建國・統治の理念とされました。
有名なのは、第16代仁徳天皇です。
仁徳天皇は即位されて4年目、高台から臣民の家々を見渡されました。すると家々から炊事の煙がのぼる状況の悲惨さを感じられ、臣民は貧しい生活をしているのだと気づかれました。仁徳天皇は3年間年貢などを免除されました。そのため、天皇の着物や履物は破れてもそのままにし、宮殿が荒れ果てて悲惨な状況でもそのままにしておられました。
 そうして3年、気候も順調で臣民は豊かになり、高台に立つと、炊事の煙が元気に上がっているのを見られました。
臣民の生活は見違えるように豊かになりました。それを見て、仁徳天皇は喜ばれ、「わが身は、すでに富んだ」と言われました。
 それを聞かれた皇后陛下は、「私たちの住んでいる宮殿の垣はくずれ、雨もりもしているのに、どうして富んだといわれるのですか」と問われました。
仁徳天皇は「聖王は、臣民の一人でも飢え寒がる者があるときは、自分を顧みて自分を責められた。今、臣民が貧しいのは、自分も貧しいのだ。臣民が富んでいるのは、自分も富んでいるのだ。未だかつて、臣民が富んで、君主が貧しいということはあるまい」と答えられました。
仁徳天皇に感謝した諸国の臣民が、3年も課役を免除されたために、宮殿はすっかり朽ち壊れています。それに較べて臣民は豊かになりました。もう税金をとりたてていただきたいのです。宮殿も修理させてください。」と嘆願にきました。
しかし、仁徳天皇はお許しになられませんでした。
3年後に宮殿の修理をお許しになり、國中から臣民が集まり、新しい宮殿づくりをしました。臣民は命令もされないのに、老人を助け、子供を連れて、材料運びに精出し、昼夜兼行で競争して宮殿づくりに励みました。そのためまたたく間に宮殿ができあがりました。それ以来天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」と臣民は崇めました。
 
仁徳天皇の御製として、『新古今和歌集』に次の御歌があります。
 
  たかき屋に のぼりてみれば 煙たつ
    たかみのかまどは にぎはひにけり
 
この御心は代々の天皇に引継がれ、明治大帝も
 
なりはひを たのしむ民の 喜びは やがてもおのが 喜びにして
 
 と詠まれておられます。
 
皇族男子は、御名前にみな「仁」という文字がついています。
これは平安時代からの伝統です。このことは、皇室が「仁」ということを非常に大切にされていることを表わしています。
 
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畏くも先帝・昭和天皇・香淳皇后は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫(上記写真)に、居住されておられました。
そこは、元侍従長の入江相政によると、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、畏くも天皇陛下は戦後もそこに住み続けられました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、畏くも天皇陛下は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けられました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、神武景気も過ぎた昭和36年の11月、天皇陛下はようやく現在の吹上御所に移られました。
新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。
そして畏くも先帝・昭和天皇は、

「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ。」

 
 と仰られたそうです。
 
 
このようにわが國では、天皇陛下は臣民を慈しみ、臣民は天皇陛下を敬愛して、天皇陛下と臣民が家族的な感情で結ばれた状態を、理想としてきました。それは他の國々には見られない我國独自の伝統です。皇室が古代から今日まで絶えることなく続いてきた伝統なのです。
 
 外国の元首、王室は、「国民が苦労をしていても自らは豊かさと威厳を持った暮らし」が当たり前です。ゆえに他国の王室は殆ど滅んでしまいました。

わが国だけなのです。「国民と共に苦労をする国家元首」は…。

日本人に生まれて良かった。

天皇陛下は日本の誇りです。

 日本人に生まれてよかった。

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すめらぎいやさか。
あけましておめでとうございます。

世界文化遺産「姫路城」の傍、姫路市本町の姫路護国神社で1月1日午前0時から約2000個の提灯が一斉にともされる「新年万燈(まんとう)祭」が開かれています。
播磨・但馬地域の英霊(戦没者)約5万7000人をしのび、明かりで身を清めようと昭和53年、四十年前から始まりました。提灯は、遺族や企業、奉賛会員らが奉納され、英霊(戦没者)の名前が書かれています。英霊の名前を探して手を合わせる家族連れ、戦友も多いという。泉宮司は「明かりを見ながら、歴史に思いをはせてほしい」と願われています。
万燈祭は1月10日まで、是非お運びいただきたいと思います。

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